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それから数日、マリアーヌは内心落ち着きなく過ごしていた。
ハーヴィスから違う香水の匂いがしたのはあの日だけ。
気のせいではない。だが何故かそれを問うこともできず、忘れることもできない。
オセの家へ来てから一度だってハーヴィスに女の影を見たことなどなかった。
だがハーヴィスだって男なのだ。
恋人がいてもおかしくない。自分が知らなかっただけで―――。
マリアーヌは重苦しいため息をついて昼食をとっていた手を休める。
あまり食欲がわかない。
胸に鉛が詰め込まれたように、苦しくて何も喉を通らないのだ。
でも、何故なのだろう。
どうしてこんなにも、気になるのだろう。
心の奥底で何かが囁いている気がする。
この感情の正体を。
しかしそれはするりとマリアーヌの思考をすり抜けて消えていってしまう。
「マリアーヌ様、もうよろしいのですか?」
心配げにシェアが見つめてくる。
まだ半分以上が残されている皿の上を眺め、マリアーヌは苦笑いを浮かべシェアを見上げた。
「……ええ。ちょっと食欲がなくて」
「今朝もあまりお食べになられていませんが」
昨日も、一昨日も―――。そう言いたげなシェア。
「夕食はちゃんと食べるわ」
安心させるように微笑むと、シェアはそれでも晴れない顔で遠慮がちに口を開いた。
「マリアーヌ様……なにか悩みごとでもあるのですか? 微力ですが、私でよろしければいつでもお話をお聞きいたします」
言葉には優しさが溢れている。
オセの家へ来てずっとそばで身の回りの世話をしてきてくれたシェア。
親友が逝ってしまったときも、双子が旅立っていったときも、いつも傍で見守ってくれていたのが彼女だった。
マリアーヌはシェアを見つめ、自分の胸の中にある不透明なものをどう口にすればいいのか迷う。
「あのね……、シェア」
「はい」
なかなか出ない言葉を、シェアは急かすでもなく耳を傾けてくれる。
「あの、その……ハーヴィスは恋人がいるのかしら」
苦しくて、思わずここ数日ずっと頭を占めていることを口にした。
シェアは驚いたように目を見開く。
その様子に変なことを聞いてしまったのだろうかと不安に思う。
ハーヴィスに恋人がいたっておかしくないのだから、いるのかどうか聞いてもいいはず。
それはただの興味で――――。
「………ハーヴィス様に恋人はいらっしゃらないはずです」
なぜかさっき以上に翳った表情でシェアがそう言った。
その変化に気付きながらも、マリアーヌは一気に心が軽くなるのを感じる。
「いないのね?」
無意識に声音は安心したようなもの。そして自然と頬が緩む。
それを見て、シェアがほんのわずか眉を寄せさりげなく視線を逸らす。
「はい。私が知る限り――――ずっといらしゃいません」
「そうなのね」
ずっと身近にいるシェアがそう言うのだから事実なのだろう。
それにしても一体自分はなにを落ち込んでいたのか。
マリアーヌは不思議に思うほど、胸のつかえが下りていることに気付く。
恋人がいないとすれば、あの香水はなんだったのかという疑問は残るが、もしかすればジェイル神父が囲っている女性でも傍にいたのかもしれない。
そう―――、そうかもしれない。
勝手な想像の上の結論。真実ではないかもしれないが、きっと近いはず。
マリアーヌは穏やかな気持ちになって、「ありがとう」とシェアに礼を述べる。
ゆるゆると首を振りながらシェアはマリアーヌの様子を見つめているが、当人がそれに気づくことはない。
「……マリアーヌ様」
ややして静かにシェアが言った。
なに?、と首を傾げるとシェアは逡巡するように視線を揺らす。
「マリアーヌ様は………ハーヴィス様のことを……」
言葉は途切れ、躊躇いに視線を伏せつつ、再び重くシェアの唇が動いた。
「お好きなのですか?」
マリアーヌは一瞬呆けるように目をしばたたかせると、笑顔を浮かべる。
「ええ、もちろん」
考えるまでもなく即答する。
「家族のようなものですもの」
そう告げると、シェアは困まったように眉尻を下げた。
「………いえ、そうではなく。……ハーヴィス様を男性と――――」
と、突然響いたのは鳴き声。
ニャー、といつの間に部屋に入ってきていたのか、カテリアがひらりテーブルに飛び乗った。
シェアのほうを一瞥し喉を鳴らすカテリアに、シェアは顔を強張らせる。そして口を閉じるとシェアはマリアーヌから身を引き脇に退けた。
「どうしたの、カテリア? お腹すいたの?」
カテリアを抱き上げながら問うが、返事なのかそうでないのかカテリアはマリアーヌの頬を小さく舐める。
「……マリアーヌ様、よろしければ軽食をカテリア様のお部屋までお持ちします。ご一緒に召しあがられてはいかがでしょうか?」
遠慮がちにシェアが言った。
マリアーヌはちらりテーブルに視線を向ける。まだ料理は残っている。さきほどまで食べきれないと思っていたが、なぜかいまは食べる気が起きてきていた。
「まだ残っているもの、もったいないわ。でもカテリアにはなにか持ってきて?」
そうお願いすると、シェアは一礼して部屋を出ていった。
「カテリア、パン食べる?」
籠に持ってあるパンを小さくちぎりカテリアの口元に持っていく。カテリアはマリアーヌに視線を向けたあとパンを食べた。
カテリアの頬が上品に動き、咀嚼している様子は妙に可愛い。
ふとこぼれる微笑みに、そう言えば久しぶりにカテリアと触れあっている気がした。
ここ数日仕事には集中していたが、それ以外となるとハーヴィスのこと、香水のことばかりを考えていたから。
「ごめんね、カテリア」
放っておいたわけではないが、上の空で接していたことに違いはない。
謝罪し、毛並みをそっと撫でる。
カテリアはすべてを見透かすような瞳をマリアーヌに向けると、小さく鳴いた。
昼食とカテリアの世話を終え、執務室へと向かう途中エリックに会った。
「準備はできているの?」
にこり微笑むマリアーヌにエリックは一瞬目を眇め、すぐに小さく口元を緩め頷く。
「はい」
明日からまたエリックは旅立つ。だが予定ではいつもよりその期間は短く帰ってくることになっていた。
「………マリアーヌ様、なにかよいことでもありましたか?」
次の旅先について続けようとしたいたマリアーヌに、エリックが言う。
それは突然とも思える問いで、マリアーヌは小首を傾げる。
「なぜ?」
エリックは視線を揺らし、微苦笑を浮かべた。
「いえ……とくに」
言葉を濁すエリックにマリアーヌもまた微苦笑する。
エリックは洞察力に優れている。
ここ数日自分でも不思議なくらいに沈んでいたのを察していたのだろう。
シェアにも心配されていたのを思い出し、まだまだ弱いな、とマリアーヌは内心ため息をつく。
だがこうして気にかけ、声をかけてくれるのは嬉しかった。
「エリック、ありがとう」
気持ちが伝わるよう、安心させるように目一杯の笑顔を向ける。
エリックは「いいえ」と静かに首を振る。
「………今から執務室へ?」
「ええ」
と、不意にエリックの手が伸びマリアーヌの腕をつかんだ。
強くはなく、そっと。ハーヴィスとは違う、冷たい指先。
「エリック?」
怪訝に見上げると、エリックは珍しく苦渋の表情をしていた。
「どうしたの?」
なにかあったのだろうか。
じっと見つめ、エリックの言葉を待つ。
ややしてゆっくりとエリックの手が離れていった。
「いえ……申し訳ありません」
「いいのだけれど……、大丈夫?」
頷くエリックの表情はいつもの無表情ともとれる静かなものへと戻っている。
「今日……」
「え?」
「新しい“娼婦”が来ています」
マリアーヌは目をしばたたかせる。
「今日?」
「はい」
オセの家で新たに雇うとき、マリアーヌはいつも事前に知らされていた。エロイーズを入れて以降は、積極的に“買う”少女を選ぶことも仕事の一つとされていた。
だから知らない少女が来ているということに多少驚く。だがハーヴィスが伝え忘れているだけかもしれない。
「そうなのね。ハーヴィスったら、お酒の飲み過ぎで連絡しわすれたのかしら」
マリアーヌが笑うと、エリックは間を開けて「そうかもしれません」と何の感情も読みとれない声で言った。
「教えてくれてありがとう」
エリックは黙ってただ首を振った。
それから二三言交わし、マリアーヌは再び執務室へと向かい歩きだした。
エリックがその後ろ姿をじっと見つめていることも気付かずに。
執務室の前へとくると、部屋の中から若い女の笑い声が響いてきた。
鈴の転がるような、可愛らしく華やかな声。
エリックは『娼婦が来ています』と言っていた。それはすでにここへ来ているということだったのだろう。
控え目にノックをする。
だが聞こえなかったのか返事はない。
マリアーヌは一瞬迷うも、ノブに手をかける。「失礼します」と声をかけ、ドアを開けた。
瞬間、室内から香ってきたのは――――数日前、ハーヴィスにまとわりついていた甘いローズ系の匂い。
そして室内に目を向けたマリアーヌは、硬直した。
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2009,9,21
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