50






 ソファーにハーヴィスがいた。
 そのハーヴィスの肩に手を置き、覆いかぶさるようにして女がいる。
 二人は傍目にもわかるほどの濃厚なキスを交わしていた。
 角度を何度も変えながらキスをしている二人に、マリアーヌは立ち尽くし声をかけることができない。
 胸が軋むほどの痛みを感じて眉を顰め、二人をただ見つめる。
 どれくらいしてだろうか。
 ほんの少しの間だったのだろう。だがマリアーヌにとって永遠とも思える時間はようやく終わった。
 キスを終えたハーヴィスが、扉のそばに立つマリアーヌに気付いた。
「やぁ、マリー。ごめん、気付かなかったよ」
 そう言うハーヴィスはいつもと変わらない笑顔だ。
 相手の女性はその言葉にハーヴィスから離れる。そしてマリアーヌを見た。
 美しい少女だった。
 ぱっちりと大きく碧がかかったブルーの瞳。愛らしさと上品さを兼ね備えた華やかな笑みをたたえた唇。ストレートの長い髪は白銀。濃緑の大きく襟ぐりのあいたドレスは少女の色の白さと豊満な胸を惜しげもなく見せている。
「ごきげんよう」
 突然現れたマリアーヌの存在にひるむでもなく、少女はにこりと挨拶をしてきた。
 若干の間を置いて、マリアーヌは我に返り強張る顔を無理やり微笑ませる。
「ごきげんよう」
 誰?
 真っ白になった頭の中で呟く。
「マリー。彼女はリザ。今日から娼館で働く子だよ。歳は17歳」
 ソファーから立ちあがったハーヴィスがリザという少女の腰に手を添え、言った。
 ようやくマリアーヌは執務室に入る寸前まで考えていた新しい娼婦だということに気付く。
 今日から働く娼婦という事実に少しだけ安心する。
 “娼婦”であれば、オーナーとして試験的な意味合いを兼ねてキスをすることだってあることだからだ。
 マリアーヌも最初ハーヴィスとキスを交わしたのだから。
「ようこそ、オセの家へ。私はマリアーヌです。よろしくね」
 マリアーヌが言うと、リザもまた名を告げ笑顔を浮かべて社交式のお辞儀をした。
 洗練された身の動き。隙のない雰囲気。
 オセの家へ来る前、おそらくどこかの娼館にいたのだろう。それも高級娼館。そしてきっとナンバー1の位置にいたのではないか。
 リザの出で立ちを眺め、判断する。
 マリアーヌの考えを肯定するようにハーヴィスが紹介を続けた。
「リザは、アマンダの娼館から来てもらったんだよ」
 アマンダ―――。オセの家よりは格下だが、主に上級士官を相手にする高級娼館だ。
「そう。マダム・アマンダのところから来たのでしたら、教えることはなにもなさそうですね」
 マリアーヌはリザを見て微笑む。
 厳しい目で見てもリザは軽く及第点を超えていた。即戦力となる娼婦だろう。
「そうだねぇ。リザは一級品だからね、いろいろと」
 ありがとうございます、と微笑むリザの傍らで楽しげに笑うハーヴィス。
「まぁ、ハーヴィスに一級品と言っていただけるなんて光栄だわ」
 口元に手をあて小首を傾げるリザは女の目から見ても可愛らしく、そして匂い立つような色香がある。
「リザが望むのならどんな言葉でもあげるよ」
 からかうようにハーヴィスが笑いながら囁く。
「あら、そんなことを言ってよろしいのかしら? とんでもないことをねだるかもしれなくてよ?」
 媚というでもない、自然な愛らしい表情でリザは目をしばたたかせる。
「それは困るなぁ」
 笑い合う二人は、声をかけずらいほど和やかな雰囲気に包まれていた。
 入り込めない二人の会話に、自分の心が沈んでいくのをマリアーヌは感じる。
 ハーヴィスに寄り添うようにして立つリザが、親しげに笑う彼女が、なぜか不快に感じてしまう。
 いつもならば――――そこにいるのは自分のはずなのに。
 沸き立った想いに、マリアーヌは内心困惑し、自分を恥じる。
 なにを考えているのだろう……。  
「そうだ、マリー。リザを部屋まで案内してくれるかい? マローは接客中でね」
 ややして会話を終えたハーヴィスがマリアーヌに命じる。
 部屋は“0号室”とハーヴィスが教えた。
 “0号室”―――。やはり、と思う。
 その部屋はナンバー1になった娼婦が住む部屋だ。
 リザは初日からして、その地位を確約された娼婦ということ。
「はい。………リザ、まいりましょうか?」
 にこやかにマリアーヌはリザを促した。
「ええ。ありがとう、マリー」
 しかし、なぜ今の時期にわざわざ引き抜いてまでリザを招いたのだろうか。
 とくに今新しい娼婦が必要ではなかった。つい2週間前にも新しい娘を3人ほど入れたばかりだ。
 娼婦たちの関係は停滞期でもなく、いい具合に競争し合っている。
「失礼します」
 一声置き、マリアーヌはリザを引き連れて執務室を出た。
 廊下に出ると、すぐそばにいるリザから香ってくる甘いローズ系の匂いに気付く。マリアーヌは胸の痛みが、苦しさが強さを増すのを感じた。
 もしかしたらハーヴィスはあのジェイル神父に会いに行った日、リザを見に行っていたのかもしれない。
 それで移り香が―――。
 無意識のうちに自分の中で納得できるような解釈を探し、考える。
 靄がかかったような気分の中でも、表面上はそれを表には出さず、リザの住む部屋がある棟へと他愛のない雑談をしながら案内していった。
「ねぇ、マリー」
 リザが声をかけてきたのは、部屋に着き、室内の説明をし終えたところだった。
「ハーヴィスに恋人はいるの?」
 マリアーヌは驚きも隠せずにリザを見る。だがすぐに驚きを隠し、
「いらっしゃらないわ」
 昼間、シェアに聞いたことをそのまま返す。
「……どうして?」
 問い返すと、リザはきょとんとしたあと楽しそうに笑った。
「どうして、って。決まっているでしょう? 気に入ったの」
 目を輝かせて言うリザはソファーに腰をおろしマリアーヌを見上げる。
 オセの家に売られてくる娘たちはさまざまな種類いる。気が強い娘もいないでもない。
 どこかの娼館から引き抜かれてきた娼婦は、それなりに経験もあるのでしたたかさを兼ね備えていたりもする。
 だが、こうして堂々とオーナーを名指しして“気に入った”など言う娘を見るのは初めてだった。
「私意外と、ああいう暗い男って好きなの」
 何が“意外”なのか、だれが“暗い男”なのかも、わからない。
 ハーヴィスが暗い?
 リザがハーヴィスを好き?
 なんと返答したらいいのか分からずにマリアーヌは曖昧な笑みを浮かべるしかできなかった。
 そしてそんな自分を興味深げに見つめているリザの視線に気付くことができない。
「マリーは、ハーヴィスの愛人なの?」
 ソファーの肘掛にしなだれかかるようにもたれたリザが、あくまでも楽しげな笑みを向けてくる。
「いいえ。違うわ」
 即座に首を振る。
 最初オセの家に来たころは、そうなるのだろうかと思ったこともあった。
 そのあとオーナーの寵姫、などと呼ばれたこともあったが、実際はなにもない。
 なにかあるはずもない。
 マリアーヌにとってハーヴィスは――――。
 カテリアと同じように大事な――――。
「………私はオーナーの傍で働かせていただいてもらっているだけよ」
 家族のようなもの。
 だがそれを同じくオセの家で働くものに言う必要などない。
 だから事務的な口調で、リザにそう告げた。
「そうなのね」
 納得したようにリザは頷きながらも視線はマリアーヌを捉えたままだ。
「ハーヴィスはなんともないとして。マリーはハーヴィスのとこを好きなのね?」
 さらりと出たリザの言葉にマリアーヌは思考を止めた。
 シェアからも聞かれたこと。だがリザのいう“好き”の意味がどういったものなのか、彼女の意味深な眼差しで察する。
 だから、マリアーヌはゆっくりと首を振った。
「オーナーとして尊敬しているけれど、それ以上の好意はないわ」
 言いながら、何故か違和感を覚える。
 リザの言う好きはおそらく男性としてということのはず。
 そんなことはない。
 そんなことあるはず――――。
「そうなの? 別に隠さなくってもいいのに。ライバルがいたほうが私は楽しいし」
 マリアーヌが否定したにも関わらず、リザは言って微笑む。
 そんなリザに戸惑いながらマリアーヌはようやくの思いで言葉を紡ぐ。
「……男女間のことに口をはさむことはしないけれど、ハーヴィスはオーナーです。オーナーの手をわずらわせることがないように。そして仕事とプライベートの区別はしっかりとつけてね。貴女はこのオセの家でナンバー1になる人なのだから」
 マリアーヌ自身は気付いていないが、知らず言葉は冷ややかさを含んだものだった。
 リザはくすりと笑いソファーから立ち上がる。と、真剣な表情でうやうやしく一礼した。
「もちろんです。オセの家に預かられるなどと光栄なこと、ございません。オーナーに後悔などさせないように頑張りますわ」
 非の打ちどころのない優美さ。1歳しか違わないこの少女の余裕と、そして娼婦として自信に溢れた様にマリアーヌは感嘆と―――苛立ちを覚えた。
「これからよろしくお願いしますね」
 そう切り上げて、マリアーヌは部屋を辞した。
 颯爽と歩く。だが娼婦たちの住む棟から執務室へと続く廊下へと足を踏み入れると、その歩みはゆっくりとしたものに変わった。
 執務室に近づくにつれ、さらに歩みは遅くなり、ついに止まる。
 マリアーヌは胸元を抑え、重苦しいため息をついた。
 なんなのだろう。
 なんだというのだろう。
 ギュッと唇を噛み締める。
 わけのわからない。わけのわからない苦しさと切なさと、苛立ちが胸を締め付ける。
『マリーはハーヴィスのとこを好きなのね?』
 よみがえるリザの言葉。
 違う、違う。
 そんなことはない。
 そんな感情は、自分にはないのだから。
 心を落ち着けるように深呼吸を繰り返す。しばらくしてマリアーヌは執務室をノックした。








BACK TOP NEXT








2009,9,26