48






「遅くなり申し訳ありません」
 にこやかにハーヴィスはそう言い、マリアーヌの傍らに腰掛けた。
 治まっていたはずの胸の痛みがよみがえるのを感じながらも、マリアーヌはそれを表情に出さないよう必死に抑え込む。
「用は済んだのか?」
 クラレンスが問う。その口調はハーヴィスがどこでなにをしていたのか知っているようなものだった。
「はい。クラレンス様がお越しになられるのにご挨拶しないわけには参りません。急ぎ切り上げてまいりました」
 クラレンスは客以上の存在―――パトロン。
 仕事に関する重要なことであれば、クラレンスになにかしら連絡が行っていても不思議ではない。
 ジェイル神父のところへは一体なんの用だったのだろうか。
 耳はハーヴィスたちの会話を聞き、顔には微笑をはりつけたまま、マリアーヌはハーヴィスのためのグラスにワインをそそぐ。
 そっとそのグラスをハーヴィスの前へと移動させる。
 それと同時にハーヴィスがワインへと手を伸ばしてきた。
 他意などなく、偶然にグラスをとろうとしたハーヴィスの手がマリアーヌの手に触れた。
 それはほんの一瞬。指先が手の甲にあたっただけのこと。
 だが瞬間、無意識のうちにびくりとマリアーヌは手を震わせていた。
 小さな音を立ててグラスが倒れ、ワインがテーブルの上に広がる。
 マリアーヌは慌ててエリックに視線を向ける。部屋の片隅にはワインなどの酒類やカトラリーなどを収納したキャビネットが置いてあり、エリックがそこから布巾を持ってくると手際よくテーブルを拭いた。
「私の不注意で申し訳ございません」
 グラスを倒すなど、些細なことであれ客の前でしたことなどない。オセの家に勤める際、小さなミスでさえ起こさないように徹底して教育を受けたのだ。
 それなのに、とマリアーヌは和やかな空気に水をさしてしまったこととともにミスをした自分を忌々しく思う。
 頭を下げ、二度とミスをしないようにすることを胸の内で近いつつ顔をあげると奇妙な違和感を覚えた。
 部屋の空気が、ついさきほどまでの穏やかなものとは異なっている。
 クラレンスはわずかに驚いたような、それでいてどこか楽しげな表情をしている。
 傍らのローランドはクラレンスと同じように―――、いや驚きだけを全面に露わにしている。
 そして、ハーヴィスだけは先程と変わらない微笑をたたえたまま。
「これは驚いたな」
 クラレンスが笑いながら言う。
 言葉の意味がわからず、マリアーヌは再度非礼を詫びるべきか微笑むべきか悩む。
「マリアーヌ、顔が赤いぞ?」
 だが続いたクラレンスの言葉に思わず目をしばたたかせ、頬に手を当てる。
 グラスを倒した焦りから冷えてはきていたが、確かに微か頬に火照りがあった。
 からかうようなクラレンスの笑みにマリアーヌは戸惑いながらも微笑を浮かべる。
「恥ずかしいですわ、このような失態をお見せしてしまって」
 顔を赤らめてしまった理由など見当もつかず、思い当たるとすれば今のミスくらい。
 マリアーヌはそう思い、恥ずかしそうに言った。
 しかしクラレンスは一瞬呆け、そして弾けるように笑いだした。
「なんだ、自覚なしなのか」
 その視線がハーヴィスへと向けられる。クラレンスの言葉に難しい顔をしたローランドもハーヴィスを見る。
 二人の様子にマリアーヌは訳がわからない。
 ハーヴィスはにこりと笑い、首を傾げる。
「なんのことでしょうか?」
「とぼける気か? まぁいい。それにしても」
 小さく口端をあげながら、クラレンスはワインを一飲みした。そして視線がマリアーヌに、そのあとローランドへと向けられる。
「前途、多難だな」
 マリアーヌはやはり理解が及ばず黙りこむしかない。一方のローランドは眉を寄せ一瞬マリアーヌを見たものの俯いてしまった。
「ところで――――、よい品は見つかりましたか?」
 ここまでの会話をきりあげるように、ハーヴィスはクラレンスに向かって言った。
「ああ。マリアーヌのおかげで今日もまたいいものが手に入った」
 柔和な笑みを浮かべるクラレンス。
「それは良かったです」
「マリアーヌの見立てはいいものばかりだからな。お前以上の目利きになるのではないか」
 クラレンスの視線が向けられ、マリアーヌは恐縮するように微かに笑みを返す。
「そうですねぇ。マリーは僕と違って頑張って勉強していますからね」
 ハーヴィスもまた目を細めてマリアーヌを見る。
「私などまだまだですわ」
 二人の視線にマリアーヌは慌てて首を振った。
「謙遜することはないさ。マリアーヌは頑張っているよ」
 言いながら、ふっとクラレンスが視線をさまよわせる。なにかを思い出したように、笑う。
「来月、一つ夜会がある」
「ヘザント伯主催のですね」
「ああ。それに珍しく“あいつ”が来るらしい」
「“あの方”がですか?」
 クラレンスとハーヴィスの会話。“ヘザント伯”というあまり上がらない名に、その系図を確認するように思いだしていたマリアーヌ。だが次いで出てきたのは名の知れない人物。
「最近はあまり表にお出にならなかったようですね」
 一体誰の話をしているだろうかと思うが、話の腰を折るわけにはいかずに黙って耳を傾ける。
「単に不精なだけだろう。社交の場には出ずとも、浮名は盛んに交わされている。相変わらず話題にはことかかない男だ」
 笑いながらクラレンスが言った。
 マリアーヌはその笑みに密かに息を飲む。
 氷のように冷ややかで鋭い眼差し、その声音は嫌悪と憎しみをない交ぜにしたようなものだった。
 仕事のことでは冷徹さを見せるクラレンスだが、正直このような感情をあらわにした様子を見るのは初めてだった。
 ローランドを盗み見ると話しに上っている人物を理解している様子。あまり芳しくない表情をしているところを見ると、クラレンスにとって敵対している立場の人間なのだろうか。
「そうですねぇ。確かに話題はいつまでも尽きませんね、あの方は」
 ハーヴィスだけが変わらずにこやかだった。
「ぜひオセの家にもお越しいただきたいところですが―――」
 ふと一瞬暗く目を光らせたハーヴィス。
 クラレンスはワインを飲みながら、さきほどまでの表情を消し目を眇めた。
「あの夜会は私が招待されていたが―――ローランド、お前が行け。マリアーヌも一緒に」
 突然話を振られたローランドは身を正し、「わかりました」と頷く。
 ローランドに誘われてたまにだが夜会などにも行ったことはある。だが今のは命令であり決定事項だ。
 クラレンスが招待されている“夜会”。
 なにかあるのだろうか。
 話題に上がっている“男”に関する―――。
「はい。ぜひご一緒させてくださいませ」
 とりあえず今は非の打ちどころのない笑みで、クラレンスの言葉を受けるだけだった。















 去り際、なにか言いたげな目をしたローランドを、ワインにほろ酔いになったクラレンスを見送りハーヴィスと二人執務室に戻った。
 カテリアの姿はなく、仲直りはしないのだろうか、などとマリアーヌは考えていた。
「今日はお疲れ様。クラレンス様も満足されたようでよかったよ」
 新たにワインボトルを開けながらハーヴィスが言った。
 我に返ったマリアーヌはため息をつき首を振る。
「いいえ。私ったら……グラスを倒すなんてみっともないミスをしてしまって……」
 グラスになみなみとワインを注いだハーヴィスは小さく笑う。
「あの程度のこと気にすることはないさ」
「でも……」
「今後同じようなことがないように気をつければいいだけのことだろう?」
 柔らかな口調で言われ、ようやくマリアーヌは素直に頷く。
「ええ……そうね。今後は気をつけます」
 律儀に頭を下げる。と、声を立てて笑うハーヴィス。
「ほんと、マリーは真面目だね」
 からかうような眼差しに、心臓がわずかに跳ねるのを感じながらもマリアーヌは頬を膨らませる。
「褒めてるんだよ」
「ええ、そうですわね」
 マリアーヌは明らかに作ってますというような笑顔を浮かべた。
 それに苦笑とも失笑ともつかない笑みをハーヴィスはこぼす。
 いつもの他愛ない、なんとなしの掛け合いのような会話。
 胸の奥に数日続く重苦しいものがある。
 だがこういった他愛のない会話が、いままで以上に嬉しく幸せに感じる。
「ねぇ、クラレンス様がおっしゃっていた夜会のことだけれど」
 クラレンスが自ら出るようにと命じた“夜会”。
「なにか特別なことがあるの?」
 マリアーヌが問うと、ハーヴィスはワインに口をつけ目を細めた。
「いつも通り、ただの夜会さ。特別なことなどなにもないよ」
「そう? クラレンス様と対する方がいらっしゃるようなことを言っていたけれど」
 ハーヴィスは返事をせず、立ち上がるとマリアーヌの傍に歩み寄った。
 机に腰掛け、マリアーヌを見つめる。その手がゆっくり伸びマリアーヌの頬に触れる。
 瞬間、動悸が激しくなる。心がざわめいて、頬が熱くなる。
 ハーヴィスの温かな指先が頬を撫ぜ、頭の中が真っ白になる。
「――――果たして……“あの方”の目に、君は止まるかな」
 暗い笑みを浮かべハーヴィスが言った。
 冷たい声に、マリアーヌははっと我に返る。自分の心と体の動きに戸惑い顔を赤くしつつ聞き返す。
「……あの方って?」
 ハーヴィスは首をわずかに傾げ、笑みを明るくして答える。
「ひみつ」
「え?」
 思わず呆けるマリアーヌにハーヴィスは声を立てて笑う。
「まぁ、気にすることはないよ。機会があれば“紹介”してあげるから」
 どういうことなのだろうか。
 気にはなるが、ハーヴィスは教えるつもりがまったくないようだ。
 思わずため息をつくと、頬から頭へと移動したハーヴィスの手が優しく撫でてくる。
「今日は本当にご苦労さま。これからも頑張って――――」
 優しく言われ、マリアーヌは無意識にハーヴィスに見惚れながら頷いた。
 そして……ほんの微かに肩を震わせた。
 今まで気付かなかった。
 帰ってきてからすぐ近くにいたのに、気付かなかった。
 だが今、気付いた“香り”に弾んでいた胸の内が一気に重く沈む。
 ハーヴィスから香るのはいつもの香水とは違う匂い。
 甘いローズ系の――――“女性”ものの香水の匂い。
「マリー?」
 凍りついたように固まったマリアーヌに不思議そうにハーヴィスが顔を覗き込んでくる。
「どうかした?」
「――――……いいえ」
 どうもしないわ、とようやくの思いでマリアーヌは首を振った。
 それからエリックに仕事の確認をしてくると告げ、逃げるように部屋を飛び出した。
 幸せさを感じる動悸とは違う、重苦しい動悸。
 胸にこびりつく“女性”の香り。
 なんなのだろう、一体。
 自分の気持ちがまったく理解できず、そして苦しくてたまらずにマリアーヌは暗い廊下を足早に歩いて行った。









BACK TOP NEXT








2009,9,16