『Sweet Eden』
4
薄闇の中、ジリジリと肉の焼ける音が響いていた。 バーベキューコンロの網の上では所狭しと肉と野菜が並べられている。 「おいしー」 頬を緩め呟きながら焼きたての肉を頬張る。 外で食べるとなぜこんなにも美味しいのだろうかとしみじみ思ってしまう。 昼すぎに海へつき、宿泊させてもらう伊東家に挨拶をして、海で遊んだのはほんの1時間ほど、それも波打ち際で遊ぶくらいだった。 潮風とまじりあう、バーベキューの香り。 それを大きく吸い込んで、夏希はもう一切れ、と肉を取ろうと手を伸ばした。が、目的の肉が横から取られる。 見ると伊東家の小学4年生の息子・健太が笑いながら横取りした肉を口に放り込んだ。 「肉ばっかり食ってると太るぞー」 小憎たらしい笑い顔で健太が夏希に言う。 思わずムッとすると、健太の横にいた伊織が吹きだした。 少し頬を引き攣らせながら、健太の坊主頭をわざとらしく優しく撫でる。 「健ちゃん、大きくなったね」 にっこり笑いかけると、健太は身をすくませるようにして伊織の後ろに隠れた。 「気持ち悪ー」 夏希の笑顔が凍りつく。 「伊織ー。お前の妹、老けたな」 さらに青筋がたつようなことを、健太はさらりと伊織を見上げて言った。 最後にあったときはまだ小学生になったばかりのときだった。あの当時は、伊織だけでなく夏希にもなついていた。 それなのに、と夏希は男の子の成長の早さを呪いながら、健太のそばに屈みこむ。 もう一度笑顔を作り直して、 「なんでそんなこと言うの、健ちゃん? 前はお姉ちゃんって呼んでくれてたのに。それにほら、最後にあったとき言ってたじゃない。将来はお姉ちゃんと結婚するって」 ぶりっ子するように言うと、健太は驚いたように顔を真っ赤にさせた。 「そ、そんなこと言ってない!!」 「えー。覚えてないの? ショック!」 ワッ、と泣きまねをすると健太がオロオロとするのがわかった。 「泣くなよ、夏希っ」 茹蛸のような顔で健太が夏希を覗き込む。と、すかさず健太をぎゅっと抱きしめる。 慌ててもがく健太を「ふふふ」と笑いながら抱きしめる力を強めた。 「健ちゃん? お姉ちゃんって呼びなさいねー。あとね、年上をからかったりしちゃいけないのよ〜」 ようやく罠だったのだとわかった健太は「離せー! ババァ!」と叫ぶ。 その様子を見ていた伊東夫妻が声をたてて笑う。 「夏希、あんまりイジメんなよ」 笑いながらもそう言った伊織に、夏希はすっと健太を離した。とたんに逃げるようにして母親のもとへ走り去る健太。 にっこりと健太に手を振って見せ、伊織をちらり見る。 「だって、健太ってば伊織にばっかりべったりなんだもん」 「小学生の男っていうのはデリケートなんだよ」 しみじみとした伊織の口調に、思わず吹き出してしまう。
夏希はしばらく忘れていたような近い距離感を感じた。
夏休みの恒例だったバーベキューと海。懐かしい匂いは、成長するにつれわずかに開いていった夏希と伊織の距離を狭めてくれたように思う。
自然に頬を緩めバーベキューを食べていると、 「食べ終わったら花火しましょうね」
健太の母親が声をかける。
夏希と伊織はそろって笑顔で頷いた。
それから小一時間ほどして最後の一切れの肉を健太が食べてバーベキューは終わった。
後片付けを手伝うも健太が花火花火とごねるので、夏希と伊織は片づけから健太の遊び相手係りへと変更された。
すでに日は暮れている。
扇状に砂浜から広がった海は真っ暗だ。白茶の砂浜も今はその色を隠している。
その中で花火がパチパチと音をたて明るく照らす。
バーベキューをしていたときは少しよそよそしかった健太も今はべったりと夏希のそばで花火をしている。 「花火ってなんで夏しかしないのかなぁ」 数本の花火に一気に火をつけ、それを持って砂浜を走り回っている健太を見ながら夏希は呟いた。 夏希の斜め前で花火を選んでいた伊織が顔を上げる。 「風物詩だから」 「冬にしてもいいじゃない」 「キレイな花火して涼むんじゃないのか」 「ふーん」 曖昧な答えに曖昧に相槌を打つ。 伊織は線香花火に火をつけ、ジジジ……、と小さな音を響かせるそれを夏希の前にもってきた。 「じゃあ……。夏希は花火好きだろ」 頷くと、伊織は小さく笑って言った。 「夏希が好きだから夏にするように決まってんだよ。夏生まれの夏希の大好きな花火ってことで」 夏生まれって伊織も同じじゃない、そう言いかけて、口をつぐむ。伊織の言った言葉が心に引っかかった。 「………それ」 いつだっただろう。 もう何年も前、まだ小学生の時、確か同じような話をした気がした。 「前も……言わなかった?」 記憶の端に引っかかっただけのこと。だからなんとなくそんな気がするというように伊織を見ると伊織は笑った。 「言った。小学生の頃から進歩ないなー。俺も」 そう苦笑して、新しい花火に火をつける伊織。 夏希は落ちてゆく線香花火の火の玉を眺めて、そして伊織の横顔を見つめた。 「意外に夏希って記憶力いいんだな」 茶化すように笑う伊織に、「まあね」とだけ返す。 こうやって、同じように昔花火をしながら、自分は伊織に同じように聞いたのだろう。 そのときのことを思い出すことはできない。
でも、伊織は覚えていた。
嬉しくて顔が緩みそうになるのを必死で我慢する。
「打ち上げでもしようか」
言って伊織は健太のもとへに行く。夏希もその後を追いながら、じっと伊織の後姿を見つめた。
波の音も花火も、この一時もすべて覚えていたい。
そう、思った。
高い音が砂浜に響いて、そして小さいけれども大きい花火が夜空に舞った。
「健太、お兄ちゃんとお姉ちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ」
わかってるよー、と母親に言いながら布団にもぐりこむ健太。
10畳ほどの部屋の窓よりに張られた蚊帳。その中に布団が3つ敷いてある。真ん中には健太が寝ていた。
夏希のリクエストで、あまり使われなくなっていた蚊帳を出してもらったのだ。普段は馴染みないものだから、逆に”夏の思い出”と、懐かしく思う。 海に面した部屋の窓は開け放されていて、潮の香りが入り込んできている。 はしゃぎすぎたのか健太は少し疲れたような顔をして、伊織と話をしていた。 お風呂から上がってきた夏希は蚊帳の中で兄弟のように楽しげな伊織と健太を見て頬を緩めた。 まだ夜の10時と、いつもなら寝るには早い時間。だが健太にしてみれば就寝時間はとっくにきていて、眠そうに目をこすっている。 髪をとかして、荷物を片付けていると、伊織が小さな声で言った。 「もう寝たよ」 見ると健太が穏やかな寝息をたてている。無邪気な寝顔に思わず笑いをこぼしながら、夏希も蚊帳に入った。 薄い、網目だけの布に区切られているだけ。それなのに外から切り離されたような静けさを感じた。蚊帳越しに見る部屋の中も、窓の外の闇もかすんで見えた。 「なんだかホント懐かしいなぁ」 蚊帳の中に置かれた扇風機の風量を調節しながら夏希は言った。 「蚊帳で寝るなんてあんまりないもんな」 「あんまりっていうか、ほとんどだよ」 クスクス笑うと、寝ている健太が寝返りを打った。慌てて口を抑えて笑いを静める。 「電気消す?」 そう伊織に聞くと、うん、と眠そうな声が答えた。 蚊帳から出て電気を消す。窓から差し込む月の光がほんの少し部屋を明るく照らす。 蚊帳の中に戻って、窓際の健太の横の布団にもぐる。 健太越しに伊織を見た。 「ね、来て良かったでしょ?」 健太の眠りを妨げないように自然と小声になる。 「まあね」 そっけない言葉だが、口調は笑いを含んでいる。 「川の字になって寝るなんて親子みたいじゃない?」 そっと健太の寝顔を見て言うと、「3人兄弟だろ」とやんわり切り返される。 そうだけどさ、と心の中でため息をついた。 「ねー。まだぜんぜん眠くないんだけど」 欠伸ひとつ出てこない状況。久しぶりに伊織と一緒の部屋で寝るのだから、眠くなるはずもない。 家では大して会話もしないが、旅先でだったらいろんな話もできるかも。 そう思い、伊織を見る。だが帰ってきたのは欠伸だった。 「お前元気だなー。俺もう疲れて……ねむ………」 「……えっ。もう寝るの? ねーせっかくなんだから、話でも」 慌てて起き上がって伊織の方に身を乗り出す。 「…………んー……」 しかし再度の欠伸をともなった返事は小さく消えていく。 夏希はしばらくそのまま様子をうかがった。そして数分とたたずに、健太の寝息と重なるようにもうひとつの寝息がこぼれだした。 「――――――寝たの……?」 聞くも、返答はない。 夏希はがっかりと肩を落し、声の大きさなど気にせず深いため息をついた。 「寝るの早すぎっ! 小学生かよ……」 思わず悪態ついてしまう。 もう一度ため息をついて、ひざを抱えこむ。ぼんやりと薄目に健太と伊織を眺める。 「………眠れないよ」 一人呟く。 少しして、音を立てないように気をつけながら伊織のほうへと回りこんだ。 「ばか伊織……。一人寝るなー」 小さな声で言いながら、伊織の顔を覗き込む。 じっと見つめ、つと伊織の頬に軽く指で触れる。 すでに深い眠りの中にいるのか、まったく反応はない。 「ばーか」 意味なく呟く。 手のひら全体で包むように、伊織の頬に当てる。 「ね、知ってる………、伊織」 抑揚のない声。 だがなにか哀しげな色がある。 夏希は髪を押さえ、伊織に顔を近づけた。 「私が………伊織のこと……好きだって。……ねぇ、知ってる――――?」 小さく言って、夏希は伊織の唇にそっと口付けた。 ほのかな暖かさが唇から伝わる。 だが、それだけ。 なんの意味もない、口付け。 眠っている王子様はキスで目覚めるわけでもない。 それは夏希がお姫様じゃないから? 「好き」 唇をわずかに離し、だが吐息が触れるくらいの距離で呟く。 そのまま、数秒。 そして夏希はいまの行為を振り払うように大きなため息をついた。自分の布団へと戻る。 扇風機だけの部屋は蒸し暑い。だが暑さにかまわず、薄い掛け布団を頭からかぶった。 波の音や扇風機の音が少しだけ遠のいた。 そんな小さな自分だけの空間で、いろんな想いがぐるぐる回るのを押さえつけ、目を閉じた。 眠れない。 そう思っていたが、いつのまにか夏希は眠りの中に落ちていった。
暑さに目が覚めた。
じっとりと全身が汗ばんでいる。喉もひどく渇いていて、夏希は頬に手を当てながら半身を起こした。 扇風機の風が吹いてきて髪をふわふわと揺らし、逆方向へと回っていく。 「………あつ…ぃ……」
そう呟いて、ふと、違和感を感じた。横を見ると、掛け布団を蹴飛ばして寝ている健太がいる。だが、その隣にいるはずの伊織の姿がなかった。
トイレにでも行っているのだろうか、思いながら扇風機のそばへいって首が回らないよう固定し、風を浴びる。
クーラーの冷気とは違う、若干の熱をはらんだ風。涼しさに落ち着いてくると今度はひどく波の音が気にかかった。
開けっ放しの窓から、打ち寄せる波の音が、大きく響いてくる。
静かな部屋の中に忍び込む夜の闇と大きく重い波のうねるような声が、怖く感じた。
吸い込まれそうな音に、夏希はあわてて部屋の中へと視線を戻す。 心細くてとなりを見るも伊織はいない。
喉が渇いていたので下へ降りてみようかとも思った。だが結局もう一度寝ようと布団にもぐった。
寝付けない。 波の音が耳からはなれず、意識は冴え渡る。 目を閉じると海の中に引きずられるような感覚がして、目を開けた。
それから十数分たっても伊織は戻ってくる気配がなかった。
どうしようか迷ったあと、健太に布団をかけなおしてあげ、部屋を出た。 台所にもトイレにも伊織はいない。 どこにいったのだろう、そう不安が大きくなる。 ザザーン………、ひときわ大きな波の音が、玄関のドア越しにも聞こえてきた。 なんとなくドアを開けると、蒸し暑い風とともに、小さな光が海岸で瞬いた。
目を凝らし、海岸を見つめる。
人影があった。
夏希は恐る恐る外に出て、海岸へと行った。
月夜に照らされた海岸は少し明るく感じる。近づくにつれ、その人影が伊織だと確信する。
線香花火の小さな音は波に飲み込まれている。ほのかな光を見つめ、伊織のそばに立つ。
「なにしてんの」
声をかけると同時に、線香花火は消えた。
伊織の横に座る。
「ああ、なんか眠れなくって」
膝を抱え右頬を置き、横顔で伊織を見つめる。伊織は新しい線香花火に火をともした。
「私も暑くって目がさめた」
する?、ともう一本線香花火に火をつけ夏希に渡す伊織。
うん、と受け取り線香花火が消えるまで二人は黙って見ていた。
少しだけ残っていたんだ、と線香花火の残骸を片付けながら伊織が言った。
「静かだね。…………波の音はちょっと怖いけど」
海は真っ暗なのに時折キラキラと光っている。月の姿を映しては消す波の動きを眺めながら呟く。
「そう?」
「きれいだけど、飲みこまれそうな感じしない」
答えるかわりに伊織は小さく笑った。
伊織はいつからここにいたのだろう、と横目に盗み見ながら思う。伊織がもう部屋に戻ると言出ださないか、と不安になった。
夜の海を見ながら、もう少しこのまま喋っていたい。
もう少し二人きりでいたい、そう思う。
伊織は何もいわずじっと海を見ていた。
言葉を交わさなくてもそばにいるだけで心が落ち着く。いつしか怖いとさえ思っていた波の音さえ心地よく感じた。
「…………あのさ」
静けさを破ったのは伊織だった。
ぼんやり顔を上げると、海を見たままの伊織の横顔を見る。
「夏希さ………好きなやつっていないのか」
静かに伊織が言った。
突然の問いに、一瞬意味がわからず、夏希は怪訝に首を傾げる。
「………なに、急に」
伊織が首を傾け夏希を見た。目が合い、夏希はなぜか動揺した。
「いや………。お前、この前も振ったんだろ? 高校入ってからそういう話けっこう聞くなと思ってさ」
不意に頬が熱くなるのを夏希は感じた。
今までとくに恋愛のことに関して伊織が口を出したことはなかった。それに夏希自身、誰それと付き合いだした別れた、とそういうことは話していなかった。
だが共通の友人が多いのだ。耳に入らなかったはずもない。
後ろめたくて恥ずかしくて血の気がひいていくような感覚を覚えるのに、顔は熱い。
伊織から視線をそらしうつむく。
「別に………。付き合ったけど、あんまり上手くいかない気がしたから」
だから、と言い訳じみた言葉を、必死に平静を装って言う。
伊織は夏希を見つめ、その視線はまた海へと戻した。
「夏希が誰と付き合っても、夏希の自由だけど」
淡々と響く伊織の声は、目覚めたとき怖さを感じた波のうねりよりも、ひどく夏希の身を竦ませた。
「でもさ……俺思うんだけど……。本当に好きなやつじゃないなら、そう簡単に付き合わないほうがいいんじゃないのか」
そんなことわかっている、心の中で小さく夏希は呟いた。
ぐっと唇をかみ締め、そっと気づかれないようにため息を吐き出して軽い口調を心がけて口を開く。
「でも付き合ってみなきゃわかんないじゃない。もしかしたら好きになるかもしれないし」
本当に好きな人とは結ばれることなどないのだから。
だから、可能性を信じて、もしかしたらと、そう思っても仕方ないじゃないか。
「そうだなぁ」
言いながら、伊織が小さな笑い声を漏らした。
顔を上げると、伊織は優しく、だが心配そうな目をしていた。
「そうなんだけど。夏希って自分で見つけて動くタイプだと思ってたからさ」
きょとんとする夏希。
「マイペースであんまり協調性ないけど、ほんとうに好きなことには一生懸命になる、それがお前だろ」
呆けたように夏希は伊織をまっすぐ見つめた。
「って、なんだ俺。なに真剣に語ってんだろ」
苦笑して伊織は「まぁ」と夏希に笑いかけた。
「双子の助言なんてウザイだろうけど、ちょっと思っただけ」
実際いろいろお前にもあるだろうしな、と伊織は立ち上がった。
「そろそろ部屋に戻る?」
伊織が言う。
夏希は顔をまっかにさせて、宙を睨んでいる。
「夏希?」
怪訝そうに伊織が声をかける。
そして、夏希がゆっくりと顔をあげた。
うっすらと目に涙を浮かべ、伊織を見つめる。
驚く伊織の手をとり、ぎゅっと握り締めた。
「私だって」
伊織の手をにぎる手は、微かに震えている。
「私だって、好きな人と付き合いたいよ。好きって言いたい」
苦しげに吐き出された涙混じりの声。
「でも」
でも、どうしようもないじゃないか。
でも、もう――――。
「言ってどうなるの? 叶えてくれるの?」
握り締めた手から伝わる暖かさ。
好きと自覚していても。
それに触れてしまったら、もう、戻れなくなってしまいそうだった。
「私がいろんな人と付き合ったのは、いつか好きになれるかもって思ったのもあったけど…、でも本当は、本当は」
ねえ、知ってる?
「寂しくて寂しくてしょうがなかったからだよ」
私が、伊織のこと――――。
「毎日毎日好きな人と一緒にいて、でも叶わないって思ったら、寂しくて寂しくてしょうがなかった」
想いを告げることなど、想像したこともなかった。
「ねぇ、知ってた?」
立ち尽くす双子の兄を見つめ、笑いながら夏希はゆっくりと唇を動かす。
「私が、伊織のこと好きだって」
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