『Limits-10』





 窓から差し込む日差しは柔らかい。
 外の空気は数日前からほのかに春の暖かさを含んできていた。
 いつもと同じような朝。
 でも違う朝。
 今日で最後。でも始まり、そして確実に変化の起こることになる一日。
 3年半待っていた、この日。
 
 樹はギュっとネクタイを締めると、上着を羽織った。
 いつものように"学校"へと出勤するために。
 いつもと違う"卒業式"のために。





 樹が3年生を受け持ったのは教師になって初めてだった。
 綾が入学してきたとき、初めてクラスを受け持ったのだ。
 自分が卒業するわけではないが、やはり卒業生を送り出す日というのは粛々とした気分になるのだな、などと思ってしまう。
 今は隣のクラスの生徒たちの名前が呼ばれている。もう少しすれば樹の受け持つクラスの番だ。
 真面目な表情で正面を見たまま、視線だけをちらり自分のクラスの生徒たちへと向ける。
 それぞれ緊張したり泣きそうだったりの面々。
 内心笑いをこぼしながら、それを眺めているとしばらくして読み上げられていた名前が止んだ。
 次は自分の番だ。
 樹は立ち上がり一礼するとマイクの前へ立つ。
『……組。相川――』
 そしてゆっくりと読み始めた。




『―――広瀬綾』





 式は、滞りなく終了した。






***






「春休み、遊びすぎるなよー」
 最後のホームルーム。
 生徒たちは最後だからか真面目に耳を傾けている。
「一つの大きな節目だからな。高校と大学・就職は今までと違うからそれぞれ準備怠らないように」
 しんみりする気はないにしろ、やはり担任として言える最後の言葉を向けたい。
「頑張れよ。お前たちならちゃんと自分の力で未来を切り開けるから」
 3年間で一番真剣なんじゃないだろうか。
 そんなことを樹は内心苦笑しつつ思いながら、ひとりひとりの顔を見渡して言った。
 途端、すすり泣きがあちこちで漏れ出す。
 樹はふっと笑い、
「なーんてな。教師っぽい"贈る言葉"でした」
 軽く言った。
 "最後"というある種の緊張感のあった空気が穏やかになり、生徒たちは泣き笑う。
 そこでチャイムが鳴り出した。
(本当にこれで最後なんだな……)
 ざっとクラス中に、そして綾に視線を走らせる。
「じゃぁ、ホームルームはここまで」
 旅立っていく生徒たちを嬉しくも思い、少し寂しくも思い、いつものように"また明日"とでも言うように笑顔を浮かべ告げる。
「卒業おめでとう」
 そして学級委員長の、号令がかかった。着席、と声が響き終わると、一気に教室内は浮き足立つ。
 生徒たちがわらわらと樹の元へ駆け寄ってくる。
「先生、写真撮ってくださいっ」
「私もっ!」
「俺もおれも〜!」
「せんせー、花道のとこでも写真撮ってね〜!」
「私もー!」
 一斉に言われ、樹は微苦笑する。
「いいよ、めんどくさい」
 卒業するのだから写真くらいいいか、と思いつつも半分本音。
 自分でモテることを認めるわけではないが、一生分くらいの写真を撮られてしまいそうだ。
「めんどくさいって、ひっどーい」
「卒業するんだよ〜!」
「わかったわかった」
 女生徒たちの非難の声に樹は降参と苦笑する。
 仲のいい生徒たちグループが交代で樹の隣に来ては写真を撮っていく。
「次、私たちとねー」
 割り込むようにしてやってきたのは綾の友人の実花だ。すっと視線をやれば綾が実花に押しやられるようにして樹の横に来る。
 触れるか触れないかくらいの近距離。
 あと1センチ動けば触れれる位置にある綾の身体は緊張しているのか固まっている。
 その様子に笑みがこぼれそうになる。その笑みを教師然としたものに変えて浮かべながら、
「卒業おめでと」
 正面を向いたまま、さりげなく言った。
 直後「撮るぞー」と男子生徒が声をかけてきてシャッターが切られた。
「先生、元気でね〜」
 実花が笑って言ってきて、「伊崎もな」と笑い返した。
「広瀬も」
 顔をほころばせていた綾を見ると、目が合う。
「大学頑張れよ」
 "教師"として"生徒"である綾に声をかけるのは今日で最後。
「はい」
 軽く頭を下げて、綾は実花に引っ張られて去っていった。
 見送る間もなく、他の生徒たちとの写真撮影の嵐はしばし続いたのだった。












 花道で涙を流して「綾せんぱいぃぃ〜!!」と号泣するヒカルの姿を見かけた。
 花道を抜けてしまえば本当に卒業だ。
 もうホームルームをすることも、授業をすることも、なにもなくなる。
 花道が終わり校門前に辿りつき卒業という『別れ』を告げる。
 また写真撮影の嵐に巻き込まれながら、樹は生徒会メンバーたちと話をしている綾の姿をさりげなく見ていた。
 在校生の作った紙の花びらが舞う中、綾は楽しそうで、でも少し涙目で笑っている。
 もうこの学校の制服を着た綾には会えないのだな、というのを不意に実感した。
 もっと近くで今の綾を見ていたい。
 制服姿の写真―――は、ヒカルがきっと撮っているだろう。
 そんなことを思いならが感傷的に少しだけなった。
 綾が実花やほかの友人たちと校門へと向かいだしている。
 門を越えようとしたところで綾は立ち止まった。
 そして振り返る。
 何かを探すように見渡す綾を、樹は見つめる。
 少ししてようやく―――目が合った。
 驚いたように綾がわずかに目を見開いている。
 立ち尽くす綾に、樹は小さく笑い手を振った。
『じゃーな』
 と声には出さず。
 綾は答えるように軽く頭を下げていた。
 最後まで真面目な綾の所作に頬が緩まるのを抑えながら、視線を目の前の生徒たちに戻した。
『またあとでな』
 学校を去っていく綾に、胸のうちで呟いて。






 ***







「セーンセ」
 卒業式の余韻は残っているが、静けさを取り戻した校舎。
 職員室にいた樹のもとにやってきたのはヒカル。
「ついに卒業しちゃいましたねぇ」
「ああ」
 ヒカルの目は泣き腫らしたのか真っ赤だ。
「明日から寂しくなっちゃうなぁ〜」
「そうだな」
「なんかエラく素直でキモいんですけどぉ」
「………」
「まーでもいいですよねぇ。センセイは今日からラブラブだしぃ」
 じとっとした視線を向けてくるヒカル。
 樹は何も言わず、ほんの少し口元に笑みを浮かべる。
「あーあぁぁ」
 それを見たヒカルが、顔には似合わない低い唸り声を上げると、大きなため息をついて俯いた。
 だがほんの数秒で勢いよく顔を上げる。
「センセイ。綾センパイ泣かせたら、このヒカル様が承知しませんからねぇ」
 あっかんべー、とまるで小学生のように舌を出し、ヒカルはくるりと身を翻す。
 軽く手を振りながら、
「あとで綾センパイに今夜の件連絡しときますからぁ〜」
 言い捨てると職員室を出て行った。
 樹はデスクの上で片肘で頬杖をつき、「よろしく」と呟く。
 
 ようやく触れられる。
 だがもうこの校舎でその姿を見ることはなくなる。

 なんともいえない、らしくない、複雑な心境。
 それに苦笑し、樹は立ち上がった。
 3年半前、初めて綾と出会ったあの場所で―――煙草を吸うために。









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2009,7,3