『Limits-9』
バレンタインが終わり、冬休みが訪れ、新学期が始まる。
綾を当たり前のように自分の担任するクラスに入れ始まった1年間は本当にあっという間だった。
3年生の受け持ち=受験生たちを見るということ。
進学校だけあって、9割近くが大学や短大へ進むことになっていた。
とにかくやたらと忙しく、めまぐるしく日々は過ぎていく。
綾は1年生のころから変わらず希望していた大学に進学が決まり、他の生徒たちの進路もほぼ確定したころ、卒業式は間近に迫っていた。
そんなとある日、一通のメールが入った。
『今日メシ食うべ。たまには奢ってやるから、絶対来いよ』
6限目の授業を終えた頃、樹の携帯にメールを送ってきたのは司だ。
司のほうも仕事が忙しいらしく、ここ2ヶ月ほど顔を合わせていなかった。
仕事は立て込んでいるし、今日は帰りに寄りたいところもあるが久しく行っていない定食屋の味が恋しくなり、了解と返信した。
店の中に入ると、店主が「座敷で待ってるよ」と声をかけてくる。
怪訝に思いながら注文をして奥へと進み、襖に手をかける。
中から男女の楽しそうな話し声が聞こえてきて、嫌な予感に樹は眉を寄せ開けた。
「おっ、樹〜! 久しぶり〜!」
「センセイ、こんばんわぁ〜」
喋っていた男女は会話を止めて、笑顔を向けてくる。
樹は顔を引き攣らせて座敷に上がる。
「……なんで木沢がここにいるんだよ」
冷ややかに向けた視線の先には手を降るヒカルの姿。あの日の放課後から1年と少し、たまに『陣中見舞いです』と言って綾の写真を横流ししてきたヒカル。
学校で会話はもちろんするが、綾に関してなにか言ってくることはなく、写真以外ではあくまで一生徒という立場を守っていた。
それがなぜいまここにいるのか。しかも当たり前のように。
「ご飯食べに来てるにきまってるじゃないですかぁ!! ねー! 司くん」
「そーそー。ご飯大事だよねぇ〜。ヒカルちゃん」
どういう経緯で仲良くなったのか。司とヒカルが会うのは今日二回目じゃないのか?、と思うってしまう。
お互いを「くん」「ちゃん」と呼ぶ二人に怖気が走るのを感じながら樹は腰をおろした。この二人に関わるのがいやで、とりあえず一服する。
「けっむーぃ!!」
吐き出された煙に、すぐさま口を尖らせ睨んでくるヒカル。じゃー帰れ、と樹も睨み返す。
「はい、おまちどう」
少ししてそう言って襖を開けたのは店主。三人分の食事が運ばれてきた。
「わー! おいしそぉ!」
「今日はカレイの煮つけかー」
「「いただきまーす」」
弾んだ声で手を合わせ食事を始めるヒカルと司。
樹はため息をつき、煙草を消し箸を手にした。
美味しい食事に、しばらく黙々と食べる三人。
「はー、それにしても……、もうあと三日で卒業なんですねぇ」
口火を切ったのはヒカルだった。茶碗を持つ手を宙で止めて、箸を口元に当てて呟いた。
一瞬だけ樹は箸を止め、すぐにご飯を口に運ぶ。
今夜ここにヒカルがいるのはそのことでなのかもしれない、そんな気がした。
「ああ、もう学校で綾センパイに会えなくなるなんて」
「ヒカルちゃんって"綾ちゃん"ここと大好きなんだねー」
「はいー! だってぇ、頭よくって優しくってキレイでぇ、でもって純粋なところとか、もー可愛いんですよぉ」
茶碗をテーブルに置き、ヒカルは祈るように手を組み合わせて目を輝かせる。
「モテルのにスレてないしぃ。ほんとステキなんですよぉー! それなのに……」
じとっとした視線が樹に向けられる。
だがもちろん無視で食事を続ける。
「ねー、先生! いつ告白するんですかぁ?」
「ハァ?」
思わず低い声で返す。
だいたいにおいて生徒に素を見せるつもりはないが、樹の中でヒカルはすでに例外になっていた。
自称スパイの盗撮魔に教師として向き合うのがアホ臭く感じたのだ。
「やっぱ卒業式のあと? あと?」
そう声を弾ませて聞いてくるのは司だ。
黙れ、とばかりに眼光を鋭くして司をそしてヒカルをじろり睨む。
「なーなー、もしかしてさぁ、それって愛しの綾ちゃんへのプレゼントだったり?」
箸で樹の傍らに置かれたカバン、その横に隠れるようにある小さなペーパーバッグを指す。
「ヒカルも気になってたんですぅ! フォリフォリですよねぇ! なに買ったんですかぁ」
ヒカルが身を乗り出して覗き込もうとする。
樹は無言で背後に隠す。
「指輪? 指輪?」
司が興味津々で聞いてくる。
「えー! 付き合い始めすぐで指輪って早くないですかぁ?」
「そーなの? 嬉しくないの?」
「そりゃ嬉しいですけどぉ。でもなんか独占欲丸出しって感じしないですかぁ?」
「あー、樹がやったらそんな感じするなー!」
「ですよねぇ! センセーって意外にヤキモチ焼きっぽそーだしぃ」
「あはは! ありそー!!」
「ネックレス、だ」
止まらなさそうなトークに、もういい加減イライラしてきた樹は低い声で短く言った。
二人は一瞬キョトンとし、そして笑い出す。
「なーんだ、ネックレスかー」
「無難ですね〜。案外〜!」
どこまでいっても煩い二人のトークに、ドン!、と大きく茶碗をテーブルに置く。
「お前ら、黙ってメシ食え」
いい加減にしろ、と今まで以上に睨みを利かせて言うと、ようやく二人は大人しく食事を再開した。
黙々と食べ、樹と司はほぼ同時に食べ終えた。ヒカルはまだ3分の1ほど残っている。
一服しようと樹が煙草に手を伸ばすと、「まだ食事中ですっ!!」とヒカルが頬を膨らませた。
ため息をつき一服を見送る。とりあえずヒカルは放って置くことにして、司としばし雑談した。
職種は違っても仕事の忙しさや大変さなど、共有するものは多くある。
店主に焼酎を頼み、酒をかわしながら話していると、「ごちそうさまでしたぁ」とヒカルの声が聞こえてきた。
「さ! 本題ですぅ!」
熱いお茶を人のみして座りなおしたヒカルが樹に視線を向ける。
「……本題までが長いんだよ」
うんざりと樹は返す。
用件があるならいちいち食事などせずさっさと言って帰ればいいのに。
そう思いながら、早く言えと、目で続きを促す。
「いいじゃないですかぁ。ヒカルもここのご飯食べたかったんだもんー。で、本題はさっきも聞きましたけどぉ、センセイいつ告白するんですか?」
「木沢には関係ない」
「関係ないことないですよぉ! 卒業式の後ですかぁ??」
キンキン響くヒカルの大きな声に、樹はため息をつきつつ先ほどお預けになっていた煙草に火をつける。
"卒業"まで、そう約束した。
厳密に言えば3月末までは綾は"高校生"ではある。だがもう卒業式を越えてまで待つ気はなかった。
「そりゃ卒業式のあとだろう」
そう返事をしたのは樹ではなく司だ。焼酎の入ったグラス片手にニヤニヤ笑いながら続ける。
「もう3年以上待ってるんだからなー。いい加減限界だろ〜」
「そうですよねぇ。やっぱり卒業式後なのかぁ」
「………」
「しかしさぁ、まじで在学中一度も手を出さずに待つなんてスゲェよなぁ!」
「一度は手を出してましたよぉ!」
「えっ。そうなの? あー! あれかぁ、去年ヒカルチャンがここに来てたとき言ってたなあ」
「そうそう。放課後の廊下でですよ!? もしヒカル以外の誰かに見られてたらどうするんだろうって感じですよぉ!」
「まぁでもさー、キスくらいはしょうがねーよ。男としてよく我慢してると思う」
「そうですねぇ。センセイの過去の女性関係考えればスゴイ奇跡みたいなことですよねぇ!」
「ほんとほんと」
「………」
「でもだから逆に心配なんですぅ。がっつかないでくださいよねぇ! 綾センパイにぃ!!」
頬を膨らませて言ったヒカルの言葉に、一瞬樹と司は沈黙する。
樹は鋭くヒカルを睨みつけ、司は大声で笑い出した。
「そうだぞ〜! がっつくなよぉ、樹くん!」
ヒカルに向けていた睨みを司に向ける。
「ちょっとセンセイ!! ちゃんと会話に入ってくださいよぉ!」
バンバンとテーブルを叩き言ってくるヒカルを無視し、樹は忌々しい気分を収めるように煙草の煙を深く吸い込んだ。
「もー! センセイってば! 結局いつ告白するんですかぁ? 卒業式のあとは生徒会のメンバーで綾センパイたちの卒業祝のパーティするんですよぉ」
樹はゆっくりと紫煙を吐き出しながら、
「俺と広瀬はキャンセル」
短く告げた。
「キャンセルって!!」
ヒカルは頬を膨らませ、大きなため息をつく。
「……まぁでもいいですぅ」
予想外にあっさりと引き下がったヒカルに、思わず「いいのか」と聞き返す。
もちろん樹が卒業式後の計画をやめるつもりはなかったが。
「だってぇ、綾センパイだってずーっと待ってたわけだしぃ。早く幸せになって欲しいじゃないですかぁ」
それまでとは一転して、しんみりとヒカルが言った。
「優しいんだね、ヒカルちゃん」
「そりゃー大好きな綾センパイのためですもんー。寂しいけど、しょうがないですぅ」
それは本心からの言葉なのだろう。綾に対する想いに溢れていた。
樹はふっと口角を上げ、焼酎をゆっくり飲む。
「……で!! どうする予定なんですかぁ?」
再びいつもどおりのテンションに戻るヒカルをちらり見ながら、仕方なく樹は口を開いた。
「フレンチの店を予約している。夕方ごろ連絡して呼び出す予定」
「えー」
不満そうにヒカルは口を尖らせる。
「つまんなーい」
そう続けるヒカルに『なにがだよ』と視線だけを返す。
「だってぇ。せっかくの特別な日にするんだから、サプライズ的なことしましょうよ〜! 協力してあげようと思って今日わざわざ来てあげたんですよぉ」
頼んでねーよ、と思う樹の向かいで司が「優しいねぇ〜、ヒカルちゃん」とまた言っている。
「考えたんですけどぉ、卒業祝パーティの会場が変わるって言って、綾センパイをセンセイが予約しているお店に行くように誘導しますよぉ! で、そこにいきなりセンセイが来たら驚くでしょぉ!?」
「いーね、いーね! なんかロマンチックだな〜。いいなーいいなー」
「ですよねぇ! 綾センパイびっくりしちゃうんだろうなー。でも嬉しくって泣いちゃったりしそぉ〜」
頬に手をあて、その様子を想像しているのかヒカルの顔がにやけている。
(………ばか?)
言えば怒りそうなことを内心呟きつつも、樹は視線をさ迷わせた。
サプライズ的なことを考えなかったわけではない。だが実行に移すには協力者が必要で、それを頼む相手がいるはずもない。だからストレートに行くことにしたのだ。
「ねっ! センセイ、それで呼び出しはいいですよねぇ〜」
ヒカルに頼むなんて言語道断。あとで何を言われるかわからない気もする。
だが―――。
しばらく逡巡して、樹は舌打ちしてヒカルを見た。
「必ず借りは返す」
憮然とした口調で言う樹にヒカルと司は「「素直じゃないねぇ」」と顔を見合わせ言った。
「じゃぁ、そういうことで!」
よかったぁ、とヒカルは嬉しそうに笑った。
「あ、それともういっこ聞いておきたいんですけど。食事のあとってどうするんですかぁ……」
笑顔のまま、だが目は笑っていない状態でヒカルが聞いてくる。
「ま、まさかホテル取ってたり……」
口元を押さえ大げさな口調で司が呟く。
ヒカルが鋭い視線を向けてくる。
樹は心底うんざりとため息をついた。
「……んなわけねーだろ。―――大事な女なんだから」
目を伏せつつグラスを口に運ぶ。
言う必要もないことだが、綾を想うヒカルに御礼代わりに告げた。
「かっこいー」
からかうような、でも不快ではない声色で司が笑う。
ヒカルはじっと樹を見つめて呟いた。
「幸せにしてあげてくださいねぇ」
その言葉に樹はふっと笑った。
そんなのは―――、
「当たり前」
言われるまでもないこと。
樹は煙草を消しながら、三日後の卒業式のことを想った。
終わって、そして始まる日のことを。
そして樹とヒカルの談合は終わったのだった。
BACK TOP NEXT
2009,6,26
|