『Limits-8』





 それからの日々はとくになんの変化も表面的にはなかった。
 平凡な毎日。
 ただ綾の眼差しや態度があの日の放課後を境に柔らかくなったのは確かだった。
 それが樹に対してなのはもちろんなのだが、まわりにたいしても雰囲気が穏やかになっているのが内心複雑だった。
 なにせ綾は本人に自覚があるのか知らないが、もてる。
 そして綾の雰囲気が変わってから、一層注意を惹くようになっていることを樹は知っていた。
 綾の話をしている男子生徒を見かけると、柄にもなくその後姿に蹴りをいれそうになるのは………秘密だ。
「せーんせー」
 そういや、先日も卒業を間近に控えた三年の男に―――、と考えていると甘ったるい女生徒たちの声が響いてきた。
 いつもなら静かな職員室。それが今日はやたらと生徒たちの出入りが激しい。
「はい〜! これっ!」
 そう3人のギャル系女生徒がラッピングされた箱を渡してくる。
 今日はバレンタインだった。
「あー」
 いらない、と言いたいところだが、すでに樹のデスクの上にはチョコレートが山のように積まれている。
 勝手に置いていってしまうので、いまさら断ることもできない状況だった。
 バレンタイン禁止にすればいいのに。
 進学校なのに何故かバレンタインに寛大な樹の学校。
 甘ったるい匂いが充満していて、食べていないのに満腹感を覚える。
 仕方なく受け取り礼を言いつつ「ホワイトデーはないぞ」と釘をさしておく。
 えー、とブーイングしつつ女生徒たちは手を振り職員室を出て行く。
(準備室にでも避難するかなー)
 昼休み中、職員室にいるとゆっくり休めないような気がして、ぼんやり考えていると見知った女生徒二人が職員室に入ってきた。
 その二人がきょろりと樹のほうに視線を向ける。
 大きく手を振るのはヒカル。
 そして視線を泳がせているのは、綾だった。
 ふっと頬が緩みそうになって、それを止める。
 二人は樹のもとへ来ると、小さな黒いペーパーバッグを差し出した。中にはラッピングされた箱。
「センセイ、これぇ、わたしとー綾センパイで一緒に作ったチョコですぅ」
 ヒカルがにこにこと言う。
 綾は緊張しているのか、若干引き攣った笑みを浮かべている。
「手作り? へぇー」
 受け取りながら、思わず笑って言ってしまう。
 二人が一緒に作っている姿を思い浮かべ、綾はともかくヒカルが役にたったのだろうか、などという失礼極まりないことを考えてしまったのだ。
 言葉にからかいが含まれていることに気づいたらしい二人。
 ヒカルは頬を膨らませて、
「そうですよぉ! 手作りなんですからぁ! ありがたく思ってくださいよぉ!」
 と、上から目線で「ちゃんと味わうように!」と言ってくる。
 反して綾はヒカルの態度に小さく笑いながらも、どこかこころあらずな様子だ。
 隠しているつもりだろうが、時折ちらりとデスクに置かれたチョコレートの山を見ている。
 それを眺めながら、樹は内心ため息をつく。
 ヒカルが一緒でなければ。
 ここが職員室でなくて準備室だったら―――。
 と、不謹慎極まりないことを……考えながら、
「ま、ありがとうな」
「はーい! 義理ですから! 義理!!」
 にこにことヒカルが手を振り、「次があるんで、サヨナラ〜!」と綾の腕をひっぱり立ち去ろうとする。
「それじゃあ……」
 小さく頭を下げる綾と、目が合う。
 何か言いた気に、だが目を伏せて綾はヒカルとともに職員室を出て行った。
 樹は職員室のドアのほうを眺めたまま、綾の態度を思い返す。
 先ほどの態度は覚えがあった。それは去年のバレンタインの日。
 去年は今はもう引退した別の生徒会役員の女子たちが義理チョコを持ってきたのだ。綾も一緒に。
 そのときも綾は視線を泳がせていた。なにか、言いた気に。
 樹はクスリ笑いをこぼす。
「素直に渡せばいいのに」
 恐らくは別に綾自身がチョコレートを用意しているのだろう。
 だが去年は渡されてなく、今年もこのままだと渡してこないかもしれない。
(どーやって、渡させるかなぁ……)
 どんなことを考えながら綾とヒカルからのチョコレートを袋から取り出す。
 と、隠すようにして袋と同色の封筒が袋の底にあった。
 怪訝に思い手にすると、裏面に『ヒカルから☆ハッピーバレンタイン』と蛍光ピンクで書かれている。
 樹は眉を寄せ、封筒を開け―――。
「………出た、盗撮魔」
 思わず呟く。
 中には数枚の写真。それはもちろん綾で、またしても隠し撮り間違いないアングルのものばかり。
(あいつは……ほんとなんなんだ……)
 呆れて思いつつも、樹はその写真をしばし見つめていた。無意識に頬を緩めて。
 そしてそのあと向かいの席の老教師から突然話しかけられ、慌てて写真を仕舞ったのだった。












 なにか用事を適当に作って、綾を呼び出せばいい。
 と思っていたのだが、なにかと忙しく樹は綾と二人きりになることができず放課後を迎えてしまった。
 もう綾は帰ったかもしれない。いや、帰ってしまっているだろう。
 思いつつも、残っていたら、などと思い教室まで行ってみることにした。
 そんな行動をする自分に自嘲気味の苦笑がこぼれる。
 らしくないことをするのも恋の醍醐味だろう。
(にしても、まともにバレンタイン受け取れるの再来年かぁ?)
 来年もまだギリギリ在学中だ。
 今年ももらえないとなると、来年ももらえない可能性が高い。
 イベントにこだわるわけではないが、おそらく用意しているものが自分のもとへ来ないのはもったいなさすぎる。
 ぽんとさりげなく渡してくればいいのに、などと考えながら階段を上っていると、降りてくる足音が響いてくる。
 踊り場で鉢合わせたのは―――望んでいた女生徒。
「なんだえらく遅くまで残ってるな」
 思わず目を細めて、声をかけた。
「すみません、教室で本を読んでいたら遅くなってしまって」
 綾はカバンを隠すように後ろ手に持ち替え、苦笑いを浮かべる。
 隠さずに出せばいいのに、そう思いながら教師らしいセリフを吐く。
「ふーん。まー、まだまだ陽が落ちるの早いし用ないときは早く帰るようにしろよ」
「はい」
 素直に綾は頷く。そしてその唇が別れの挨拶を紡ごうと開きかけた。
「ところで、広瀬」
 あっさり帰っていきそうな綾を引きとめる。
 ここはこちらから多少強引にでも働きかけなければチョコはもらえなさそうだ。
「なんですか?」
 首を傾げる綾に、
「木沢と一緒に作ったってチョコ、なかなかだった」
そう笑いかける。
「そうですか? ありがとうございます」
 はにかむように綾は微笑した。
「で、余りないの」
 即座に切り返すと、きょとんとする綾。
「はい?」
「余り」
 樹は手を差し出した。
 綾は目をしばたたかせて、至極真面目な表情で口を開く。
「すみません、あのチョコ本当に人数分しか作ってなくって。もうみんなに配ったので―――」
 なんにでも気が利き、察しのいい綾。それが自分の恋愛事には鈍いのか、それとも天然なのか、樹の言葉の意味にまったく気づいた様子はない。
 面白くて可愛くて、思わず樹は吹き出してしまった。
 綾が呆けた様子で首を傾げる。
「先生?」
「ほんっと、お前面白いなぁ」
「なにがですか?」
 本当に困ったように視線を向けてくる綾に、笑いが収まらない。
「だから。ほら、余ってるチョコを渡すように言ってるんだよ」
 そう言うと、心底対応に困っているといった表情で綾が眉を寄せる。
 察しがわるいだけか、本当に用意していないのか。
 樹は憮然とした表情をつくる。
「なんだよ、まさかまじでないの?」
 あるよな?、という意味合いを込めて言うと、ハッとしたように綾が後ろ手に持ったカバンを握り締めた。 
 それを見て、樹は小さく笑う。
「あるなら出す」
 ぐいと手を差し出すと、まだなにか悩んでいるのか綾は視線を泳がせた。そしてようやくカバンを開ける。
 落ち着いた色合いのダークグリーンの縦縞の包装紙に鮮やかなブルーのリボン。あまり派手過ぎないシンプルにラッピングされた長方形の箱。
 綾はそれを手にし、迷うように視線を落としている。
 樹は内心ため息をつき、綾の手からチョコを奪う。
「ったく、没収」
「あ、あのっ」
 慌てたように綾が見つめてくる。
「なに」
「……美味しくないかも」
 不安からだろうか、珍しく上目遣い気味で、それが可愛い。
「―――開けていい?」
 ふっと口角を上げながら樹は問う。
「……はい」
 小さく頷く綾。
 樹はラッピングを解き、中を見る。ダークブラウンの箱に入っているのはトリュフ数種だった。
 市販で売っているような良くできたチョコレート。
 その一つを口に放り込む。
「んーー」
 見た目どおり、味もいい。恐らく甘くなりすぎないように気をつけたのだろう、苦味のあるビターチョコと、中身はリキュールの効いたチョコクリームだった。
「うまいんじゃない?」
 どうして渡すのをためらうのかと思うほど美味しい。
 にやり笑って言って、箱を閉める。
 もう少し喋っていたいが、放課後とはいえ部活動の生徒たちなどがまだ残っている。
 バレンタインだからと言って、長時間チョコを片手に二人きりでいるのはよろしくないだろう。
 それにどこで誰が見ているかわからないし―――。
 とある盗撮魔のことが不意に思い浮かぶ。
「気をつけて帰れよ」
 軽く手を上げ、教師としての言葉をかける。
「……さようなら」
 小さく小さく頭を下げる綾を見ながら歩き出す。
 教師と生徒という立場。
 まだまだそれが崩れる日がくるまでには長い月日。
 うんざりとそれを恨めしく思いながら、今日はバレンタインなのだから、もう一つくらいプレゼントをもらってもいいだろう。
 そんなことを考え、綾の横を通り過ぎる寸前、その唇に触れた。
 指で。
 そっとあの日キスを落とした唇をなぞる。
 瞬間、驚いたように硬直する綾を横目に見ながら、階段に足をかける。
「あーあ、あと1年か。なげーなぁ」
 ため息混じりに言った言葉は、独り言のようで、そうでないもの。
 それはあたりまえの本音で、そして綾に待っていることを示すためのもの。
 たまにはこうして釘を打っておこう。
 来年もチョコをもらうために―――。
 少しして後ろで微かに響いてくる階下へ降りる綾の足音を聞きながら、樹は綾からもらったチョコをもう一粒、口に放り込んだのだった。  









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2009,6,19