『第9話』





 まっすぐに舞台を見つめるのは、この夜を少しでもよいものにしようと集中するため。
 席についてから数分、ひたすらにワインレッドの重い緞帳を見つめるアルバーサ。
 ふと、その手にもう一つの手が重なる。
「―――――――初めてオペラへ行ったときも“椿姫"だったな」
 手から伝わる優しい暖かさに視線を向けると、ヴァスが微笑を浮かべていた。
 アルバーサは“あの日”のことを思い出す。
 記憶を手繰り寄せる必要もない。
 あの日の、ヴァス・ヴィリアーズという青年と初めて二人だけで出かけたあの夜は、とても特別なのだから。
 アルバーサは顔を綻ばせる。
 懐かしく、そして甘い思い出。
 微笑さえもあの時に戻ったような、少女のようなあどけなさを宿している。
「ええ。そうね…。とても素敵だったわ……」 
 あの当時もアルバーサは身体が弱く、外出することもめったにない少女だった。
 まだ14歳だったあの頃、アルバーサはヴァスと出会ったのだ。
 宝石商をしていた父親の取引先である貿易商の息子。
 アルバーサより5つ年上だったヴァスはあの頃すでに父親について仕事をしていた。
 静養地など田舎かほとんど家ですごすアルバーサに、ヴァスはいろいろな国の文化などを話し聞かせた。
 機知に富んで、優しく、若いながらに仕事で培われた責任感などが、彼をとてもたくましく魅力的にしていた。
 親の庇護のもと、大切に大切に育てられた世界を知らない少女が恋に落ちるのに、そう時間はかからなかった。
 だがヴァスは5つも年上で、アルバーサにとっては初恋。
 ヴァスは1〜2ヶ月に一度、アルバーサの屋敷に来ては、仕事で行った先の土産話とプレゼントを持ってきていた。
 だがそれが恋だとか好意をもたれているとはまったく、考えもしなかった。
 そうして1年たったある日、ヴァスが1枚のチケットを持ってきたのだ。
 椿姫のチケット。
『来週の金曜日は君の誕生日だったね。その日、よかったら一緒にオペラを見に行かないか?』
 驚き、嬉しさが広がる反面、どうすればいいかわからず戸惑うアルバーサ。
『大丈夫。君の父上には了解は取ってある。あとは君が体調を整えておけばいいだけだ。それとも行きたくないと言うなら話しは別だけど』
 言われて、アルバーサは慌てて、それまで出したことのない大きな声で、
『行くわ!』
 と叫び、その場にいたメイドに笑われてしまったのだった。
 オペラ当日は心臓が早鐘のように高鳴っていて、発作とは違う甘い苦しみに耐えるのに大変だった。
 メイドにこれでもかというほど着飾られ、ヴァスの目の前に立った時、彼は驚いたように目を見張り笑みをこぼしたのだ。
 とても素敵です、かしこまりそう言ってヴァスはエスコートした。
 初めてのオペラ、しかも恋するヴァスと一緒。
 すべては夢の中のようで、時間はあっという間にたった。
 素晴らしい歌声に酔いしれ、熱に浮かされたようにアルバーサはぼんやりしていた。
 帰りの馬車の中でも足元がふわふわするような感覚が続いていた。
 そしてその馬車の中で、もう一つの夢のようなことが起こったのだ。
 誕生日プレゼントだとヴァスが言い、アルバーサの手を取った。
 そして指にひんやりとした感触がしてアルバーサは驚いて目を落とす。
 左手の薬指にはめられたピンクパールと小さなダイヤをあしらった指輪。
 ただただ驚くアルバーサにヴァスはプロポーズをしたのだ。
 あの瞬間のことは今でも鮮明に思い出せる。
 信じられない思いが渦巻き、自分が求婚されたのだと嬉しさを感じるまでにはしばらくかかった。
 あの時はヴァスが困るぐらいに、泣き続けていた。
 そうして二人は婚約したのだ。
「一生忘れられない夜だわ…」
 アルバーサはうっとりと呟いた。
「私にとっても、あの夜は大変だったよ。泣いてばかりいるから、結局返事はどうなんだろうとハラハラしたからな」
 苦笑を浮かべるヴァスに、まぁ、と吹き出すアルバーサ。
 心が穏やかに、ゆったりとする。
 愛しい人のそばにいられるということが、どれほど幸せなことだろう。
 アルバーサはヴァスの手を握り締めた。





「いいわね、とても仲がよろしくて」
 和やかに語り合っているアルバーサとヴァスの様子を見ていたレアーナが言った。
「そうね。素敵。いつまでもあんな風にいられるなんて幸せでしょうね」
 マリスも微笑ましそうに頬を緩め頷く。
 そしてヴィクトールもまた優しい眼差しで見つめていた。
 その瞳に安堵と、だが切なそうな光が宿る。


 願うのは、幸せであって欲しいということ。


 ただ、それだけ。
 だが心の隅に寂しさがある。



 ヴィクトールはそっと目を閉じた。 




















 対面した青年と少女は無言で互いを見る。
 青年はゆったりと、少女はやや所在無さ気に立っている。 

(どうすればいいんだろ…)

 見つかるわけがないと思っていたから、あっさりと目の前にいる青年に、サラは戸惑うばかり。
 声をかけるべきか。
 逡巡して数十秒、
「あ、あの」
 ついに声をかけてしまった。
 とっさに後悔してしまうサラ。
「なにか?」
 耳障りのいいバリトンの声。
 礼儀的に浮かべられた笑み。
 整い、洗練された雰囲気を身にまとう青年。
 あと先考えずに声をかけたがいいが、さらにどうすればいいのか判らなくなってしまう。 
 だが声をかけた以上、この会話を終わらせることができるのもサラだけ。
「あ……の……今日は…お一人ですか…」
 言って、また後悔。
 こういうときレアーナだったらきっと上手く会話を続けることができるだろうに、と思ってしまう。
 いや、レアーナならこんなに無謀なことはしないだろう。
 なんにしろ自分は相当怪しいと思われていることは確かだろう。
 だが青年は笑みをたたえたまま、頷く。
「ええ。知人と来る予定だったのですが、急用のために私一人で来たのです」
 紳士的な態度で答える青年。
 知人と、という言葉に、もしやという思いが浮かぶ。
「……さっき…」
「はい?」
「あの私たちのことを見ていませんでしたか…」
 伺うように青年を見上げ、ようやくのことでサラは訊いた。
「私が、ですか?」
 首を傾げる青年に、頷く。
 青年は目を細め、照れたような笑みを浮かべる。
「すいません。実は私は絵描きの卵なんです。それで美しい建物や、美しい女性に出会うと、つい絵に描きたいという思いから、見つめてしまうという癖がありまして」
 だから、ついさっきホールにいたときも華やかな雰囲気の中でいろいろな方々を眺めてしまっていたのです、そう青年は苦笑いを浮かべて言った。
 青年の頬は微かに赤らんでいて、本当に恥ずかしそうに見えた。
 嘘とは思えない青年の態度に、サラもまた顔を朱に染める。
 自分の思い違いなのだろうか。
 だとしたら自分はとんでもないことをしたことになる。
 背中に冷や汗が流れていくのを感じながら、サラはここまで来たからには怪しいついでに、と口を開く。
「では……マリス・セービスタという女性をご存知ではありませんか?」
 青年の表情に変化がないかを必死の思いで見つめる。
 青年は怪訝そうな顔をする。
 困ったような表情で、
「マ……リスさん?」
 考え込むように、顎に手を当てる。
 青年の困惑の視線に、サラは違ったのだ、と血の気の引く思いで手を振る。
「あ、あのいいです。すみません…。あの…人違いだったようです」
 しどろもどろに言い繕う。
「ごめんなさい」
 頭を下げると、青年が優しい微笑を浮かべた。
「いいですよ、そんなに謝られなくても。あなたのように可愛らしいかたに声をかけていただいて、光栄ですし」
 はぁ、と顔を真っ赤にしてうつむくサラ。
「ところで、もうそろそろ席に行かれたほうがよろしいのではないですか?」
 青年が優しく声をかける。
「え? あ…」
 はっと我にかえる。
 サラはもう一度、青年に謝る。
「本当にすみませんでした」
「いえいえ。お互いに今日のオペラを楽しみましょう」
「はい…」
 あくまで紳士的に接してくれた青年に申し訳ない気持ちで一杯になりながら、サラは頭を下げる。
「それじゃあ……失礼します」
 青年もにっこりと微笑み、礼を返す。
 そしてサラは身を翻し、その場を立ち去った。













 遠のいていく少女の後姿を見やり、青年は笑みを消した。
 それまでの優しく礼儀的だった雰囲気を取り払うように、青年は首に手を当て、疲れたようにため息をつく。
 そして楽しげな光が目に宿る。
 少女の姿が見えなくなった瞬間、青年は笑いをこぼした。
「ほんっと…噂どおりに可愛いね」
 おかしそうについさっきまで目の前にいた少女の行動を思い出す。
 ホールでマリスの姿を見つめていた時、あの少女と一瞬目があった。
 しかしまさか少女が自分のことを追いかけてくるなど、夢にも思わなかった。
 青年はタイを緩め、夜景に視線を流した。
「とりあえず、マリスに恋人がいるということは…ばれてるわけだ」
 困ったようでもなんでもない口調で呟く。
「はてさて…だが俺を探しに来るとっていうのは…どういう意味を持つんだろうな」
 少女が自分のもとへと来、そしてマリスの名を知っているか尋ねた理由。
 ゆらりと視線を動かす。
 考えて数秒、浮かんだ答えに青年の口元に笑みが上る。


「まぁ……がんばってサラちゃん」


 楽しそうに、青年ラナルフ・ブラトリーは呟いた。