『第8話』
柔らかな亜麻色の髪にそっと櫛を通す。
丁寧に髪をまとめながら、その隙間から覗く横顔を見つめるサラ。
(……また少し痩せられたみたい………)
日毎に華奢になっていく母親の肩や首筋。
内心ため息をつきながら、サラはアルバーサの髪を結い上げていった。
「お母様、具合は悪くない?」
肩越しに聞くと、わずかに顔を上げ微笑を向ける。
「大丈夫よ。今日は久しぶりにあなたたちとのお出掛けですもの」
やつれてはいるがアルバーサの穏やかな笑みと、はっきりした口調に安堵を感じた。
「本当に久しぶり。それにお母様の大好きな椿姫だし、とても楽しみ」
金細工の髪飾りで結い上げた髪を留める。
細い肩に手を置くと、アルバーサもその手の上に手を重ねる。
ひんやりとした手。
サラはアルバーサの手をそっと握り締める。
「とても素敵な夜になるわ」
心の底から微笑んで言う。
ええ、とアルバーサも微笑む。
その時、扉がノックされた。
失礼します、という声に、母娘の顔に暗い影が過ぎる。
扉が開き、正装したヴィクトールが入ってくる。
サラは一瞬目を逸らす。
静かに深呼吸をするとヴィクトールを見た。
あのピクニックから3日。
どうしてもまともにヴィクトールの顔を見ることが出来なくなっていた。
マリスを想うヴィクトールのことを考えると辛くて呼吸もままならない。
『好きという気持ちは簡単には消えないでしょう?
辛いかもしれないけど、本当にダメだと思うときまでは、
想っていなさい』
ピクニックの次の日、レアーナが言った言葉を思い出す。
いつもなら笑ってからかうように励ますレアーナが、とても真剣な眼差しをしていた。
それほどまでに自分は落ち込んでいたということなのだろう。
「あと30分ほどで出発するそうです」
ヴィクトールが言った。
必死で笑顔を作り頷くサラ。
と、ヴィクトールの正装姿を見つめた。
どことなく古い印象を受けるデザイン。
サラの視線に気づいたヴィクトールが自分を見下ろし、はにかむように微笑む。
「これ、父のなんだ」
それまで顔を伏せていたアルバーサがちらり視線を向ける。
ダークブルーのフロックコートが目に映り、すっと青ざめる。
「お父様の?」
「ああ。たまには…着てみようかな、と思って。『椿姫』は父も好きなオペラだったから」
穏やかな声で淡々と言うヴィクトール。
アルバーサは食い入るようにその出で立ちを見つめる。
ふと一瞬、ヴィクトールとアルバーサの視線が合い、アルバーサは慌てて顔を背ける。
「とても似合ってるわ。ねぇ、お母様?」
この部屋に流れる微妙な空気を知ることのないサラは明るく母親に話しかける。
だがアルバーサはもう決してヴィクトールの方を見ようとしない。
サラは困ったように母親を見、そしてヴィクトールへ視線を流した。
目が合うとヴィクトールは『気にしないで』と小さく笑む。
「それでは、お支度中に失礼しました」
会釈し、ヴィクトールは部屋を出て行った。
扉が閉まる音が響いた瞬間、アルバーサが重いため息をついたが、サラは気づかなかった。
ただ母親のヴィクトールに対する、いつまでも和らぐことのない冷たい態度に内心困惑するだけ。
なぜあんなに優しいヴィクトールを煙たがるのか、と思うだけ。
鏡を見ているアルバーサの後姿を見つめてサラはそっとため息をついた。
そして、後ろ髪を惹かれるようにヴィクトールの立っていた場所を見つめる。
やはりヴィクトールが誰を想っていようと、自分は彼を好きなのだということが、痛いほど胸を締め付けさせた。
サラは持て余す想いを抱えながら、母親に微笑みかける。
「お母様、準備をしてしまいましょう」
今夜は、楽しい夜にしなければならない。
きらびやかに着飾った紳士、婦人たちが楽しい談笑をしている。
華やかなフロアー。
サラたちは大階段の側にいた。
ヴァスとアルバーサはすでに席についている。
「ああ、なんだか緊張してきたわ」
胸に手を当てて、マリスが言った。
「緊張?」
不思議そうにサラが見る。
「オペラはすごく久しぶりなの」
わずかに頬を染めるマリス。
その横でヴィクトールが、
「コルセットの締めすぎで、苦しいんじゃないのかい?」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、言った。
サラとマリスは顔を見合わせ「レディに対して失礼だわ」と声を揃えて抗議する。
ヴィクトールはクスクス笑いながら謝った。
「サラ!」
と、人ごみを抜け、パールホイトのドレスをまとったレアーナがやってきた。
軽く手を振る。
「どう? 楽屋のほうは?」
レアーナは今日の主役である母親の準備を手伝い、観劇はサラたちと一緒だった。
「いつもどおりよ、あの母君は。私が髪をセットしている間も優雅に紅茶を飲んで音楽を聴いているのよ?」
うんざりと、だが笑みを含みながら言うレアーナ。
各地を飛び回るオペラ歌手であり公爵夫人でもあるレアーナの母。
サラも数回あったことがあるが、性格はレアーナとよく似ている。
だがレアーナ以上にマイペースなのだ。
サラは思わず吹き出した。
「大変ねぇ、お嬢様」
自然に笑みを浮かべるサラ。
でしょう?、とレアーナが大袈裟なため息をついてみせる。
くすくす笑うサラとヴィクトールたち。
レアーナは笑顔そのままで、そっとサラの背をたたく。
ヴィクトールとマリスの間にいたサラの心中を想って。
目を合わせると、察したようにサラが微笑んだ。
『大丈夫』と言うように。
「さて、それじゃあそろそろ席にまいりましょうか?」
ヴィクトールが促すように行った。
少女たちは頷き、会場内へと足を向ける。
と、ふと視線を感じた。
立ち止まり、サラは何気なくあたりを見回す。
ホール端まで視線を流す。
そして戻そうとした時、一人の青年が目に入った。
エントランスちかくに佇むブロンドの青年。
深く黒味がかった藍色の目。
まっすぐにひたむきな眼差しは艶っぽく甘い雰囲気を漂わせている。
ヴィクトールと同じ歳ぐらいだろうか。
一瞬サラは彼が自分を見ているのだろうかと思った。
なぜその青年が目に入ったのかわからない。
だがその眼差しに、なにか感じたのだ。
サラは青年の視線を追うようにして、前を見る。
わずかに、目を見開く。
「どうしたの?」
立ち止まったサラに聞くのはレアーナ。
そしてその横にマリス。
そう、マリス。
あの青年の視線の終点。
サラは返事をすることもなく、もう一度青年を見た。
するとそこにはもうあの青年はいなかった。
「サラ?」
怪訝そうなレアーナの声に、サラはようやくレアーナを見た。
「あ、ごめん」
「どうしたのよ」
「う、ううん。なんでもない」
そう言いながら、歩き出す。
だが、後ろ髪を惹かれるような感じがする。
なぜか心がざわめく。
気のせいかもしれないのに。
ただの勘違いかもしれないのに。
あの青年がマリスを見ていたという確かなことはないのに。
それでも気になった。
ただの直感。
だけど確信。
とぼとぼと前をゆくレアーナたちの後ろをついていく。
そして席につく。
そしてレアーナがサラの顔を覗き込んだ。
「サラ」
言われて数秒、目の前にレアーナの顔があって、サラは驚いて腰を浮かせる。
「なに急にぼーっとしてるのよ? 本当にどうかしたの?」
あ、あのね、と言いかけてマリスがその隣にいるのを見て口ごもる。
「あ、あの……ちょっとお化粧室に…」
もじもじして言うとレアーナが眉を寄せため息をついた。
「もう、早くそれならそうと言えばいいのに。早く行ってきなさい」
「う、うん」
頷いて、サラは席を立った。
そして小走りでホールへと出て行った。
あの青年を見つけ出せるとも限らないのに。
軽い足取りで走っていったサラの後姿を見て、レアーナとマリスが笑いあう。
「ほんと可愛い」
マリスが頬を緩ませて言った。
「あらマリスのほうが可愛いわよ。ねぇヴィクトール」
「え? ああ、みんな素敵ですよ」
「もうっヴィックったら八方美人なんだから」
「ええ、そんな。僕は事実を言ったまでだよ」
困ったように、だが微笑むヴィクトール。
軽やかな談笑。
そしてそれを微笑ましそうに見ているヴァス。
ヴァスは横に座るアルバーサに視線を向ける。
「若い子達と一緒にいると、自分まで若返ったような気がしないか?」
「…………そうね」
楽しそうな夫を心配させないよう、アルバーサは無理やり笑みを浮かべる。
だがその目は笑ってはいない。
アルバーサはちらり、ヴィクトールの方を見た。
人格のにじみ出ているような優しい微笑を浮かべているヴィクトール。
その横顔が、今は亡き夫の親友に酷似していることに心臓が締め付けられる。
アルバーサはおぞましいものでも見るかのように、見つめ、逸らした。
心臓は不自然な音でアルバーサの命を刻む。
そっと胸に手を当て、吐息をつく。
早く幕が開き、ひと時の間でもすべてを忘れられればいいのにと思う。
隣にいる夫と、最愛の娘。
それだけで、あの青年さえいなければ、どれだけ今夜は楽しいものになったであろうか。
アルバーサは小さく首を振り、舞台に目を向けた。
エントランスホールへ出ると、さっきよりも人はまばらだった。
もうすぐ開演の時間ということもあり、みな席へついているのだ。
さきほどの青年もすでに席に行っている可能性が高い。
そうなると探すのは難しい。
それに第一探してどうするのだろう。
そう思いながらも、サラはあたりを見回す。
赤い絨毯がつづく大階段を駆け上がる。
ぐるりと円を描く廊下。
窓の外はすでに夜の帳が下りている。
すっ、と涼しい風が吹きぬけ、サラの髪を揺らした。
会場の中から人々の話し声が微かに漏れてくるだけで、不思議なほどの静けさに包まれていた。
人気のなさに、サラはぼんやりとして立ち止まり、席に戻ろうか悩みながら、なんとなく足を進めた。
廊下を突き進むとやや広いスペースの休憩所があった。
真珠色をした円形のソファー。彩のよい花を生けたヴェルサイユ調の花瓶が飾られている。
その奥にバルコニー。
外は暗くて、そのバルコニーに人がいることに、サラはしばらくしてようやく気づいた。
目を凝らし近づくと、足音に気づいたらしくその人影が振り向いた。
廊下の照明と外の夜闇のはざまにぼんやりと浮かぶブロンドのくせのある髪。
芯の強そうな、だがどこか憂いを含んだ瞳。
気だるげな眼差し。
―――――――青年は、ゆっくりとサラに視線を止めた。
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