『第10話』
月は空高く。
静まり返った薔薇園。
屋敷の窓にともる灯は少ない。
しんとみなが寝静まった中、ヴィクトールは薔薇園に人影を見た。
オペラがあまりにも素晴らしく余韻が残っている。
眠れずに散歩をしていたら、どうやら先客がいたらしい。
わずかな月光の中にうっすらと浮かぶ、見慣れた後姿にヴィクトールは愛しげに頬を緩めた。
そっと足音を立てないように近づく。
サラはベンチに座り、夜空を見上げていた。
気づく様子がない。
だがあと2、3歩のところでサラが首を傾けた。
目が合い、ぼんやりとしていたサラは間をおいて、呟いた。
「びっくりした……」
全然驚いた様子ではない口調に、ヴィクトールは吹き出しながらその横に座る。
「ビックリしてないみたいだけど?」
触れるか触れないかぐらいの距離。
動くとわずかに腕が触れ、その体温が微かに伝わってくる。
サラは首を傾げる。
「すごくびっくりしたわ。だって、こんな夜中だし」
「そう? で、サラはこんな夜中になにしてるの? 眠れないのかい?」
目を細め見つめると、サラは数秒ヴィクトールを見て、地面に視線を落とした。
「……うん。……なんだか余韻が残ってて……」
身を小さくするように肩をすぼめ、呟くサラ。
「そうだね。僕も、まだ劇場にいるような感じがしてて……眠れなかったんだ」
ヴィクトールは笑みをこぼし、言う。
サラは視線を落としたまま、「そう」と頷いた。
ヴィクトールはさりげなくサラの横顔を見つめる。
ここ数日、サラとの会話にどことなくぎこちないものを感じていた。避けられている、とまでは思わないが、それでも以前のようにただ純粋に笑顔を向けていたサラとは違う。
笑顔のあいだに時折浮かぶ、辛そうな表情。
自分がなにかしてしまったのだろうか、ヴィクトールはそう思いながらサラと同じように地面を見る。
サラと一緒にいて初めて感じる重い沈黙。
ヴィクトールは心の中でため息をつき、夜空を見上げた。
「サラは椿姫のシーンでどこが一番好き?」
いつものように、平静な口調を装って話しかける。
サラはわずかに視線を上げ、少し考えて口を開いた。
「やっぱり……ラストかな。アルフレードが戻ってきて…愛を誓って…。
ヴィオレッタは天に召されちゃうけど……でも」
すれ違った恋人たち。
だが最後には永久の愛を誓い合ったのだ。
そしてヴィオレッタはすべての痛みから解放され、天国へ昇った。
レアーナの母君の心を揺り動かすような透明な素晴らしい歌声。
舞台を思い出し、サラは目を潤ませた。
「すごく……素敵だった…」
ため息とともに呟きが漏れる。
ヴィクトールはサラを見つめる。
「………サラも」
途切れた声に、そっとヴィクトールを見る。
「あんなふうに、愛を誓いたい?」
いつものように優しい微笑み。
だが真剣な眼差し。
「……それは女の子なら……誰だって」
照れたように頬を赤らめるサラ。
ヴィクトールは目を細める。
くるくると変わるサラの表情を見ていると、楽しくなってくる。
いろんなことに反応して、怒ったり笑ったり。
素直な心だから、一緒にいると癒されるのだろうか。
自然に頬が緩んでしまう。
すべてを忘れられたら。
ヴィクトールの手が、サラの方へと伸びた。
長い沈黙と、視線を感じ、サラは顔が熱くなるのを感じた。
なにやら見つめられているような気がするのは気のせいでもなんでもなさそうだ。
眠れなくて薔薇園にきて、まさかヴィクトールと会うとは思ってもいなかった。
ピクニック以来の二人きり。
緊張しないわけがない。
長い間に、サラはヴィクトールを見た。
ヴィクトールの手が、伸びた。
ふっとサラの頬をすべり、髪に触れる指。
瞬間、身体が凍りついたかのように固まる。
と同時に頬は燃えるように熱くなる。
なにが起こっているのだろう、と頭が混乱する。
なぜヴィクトールが自分の髪を撫でているのだろう、と。
考えるよりも激しく脈打つ心臓の音に、支配される。
「……ぁ……の」
ヴィック?、そう声をかけようとした時、ヴィクトールが動いた。
すっと近づくヴィクトール。
甘い眼差しに、瞳が絡めとられる。
息をするのも、忘れてしまう。
胸が、これ以上ないほど高鳴り、ギュッと目をつぶった。
そして、ヴィクトールの唇が、サラに触れた。
「………………」
「眠くなるようにおまじない。なんだか急に眠くなってきたから、先に部屋に戻るよ。サラも早く寝るんだよ」
立ち上がり、明るい笑顔で言うヴィクトール。
「………う………うん…」
引きつった顔に笑顔を貼り付けるサラ。
軽く手を振り、ヴィクトールは去って行った。
夜闇に消えて行ったヴィクトールを見送って、サラはどっと息を吐いた。
「び、びっくりした……」
冷や汗が背筋を伝う。
そしてサラは額に手を当てた。
「キス…」
されるのかと思った…、顔を真っ赤にしたまま、心の中で呟く。
だが実際はキスではなく、額にオヤスミのキスだったのだ。
それでも、やはり動悸は激しくなる。
「な……なんだったの……」
戸惑うだけ。
自分を妹のように思っているだろうヴィクトールだから、深い意味はないのだろう。
だが……。
サラは胸に手をあて、気持ちを落ち着かせる。
「眠くなるようにおまじない…って…。これじゃ余計に眠れないわよ…」
複雑な思いで、サラは呟いた。
「なによ、その顔」
会った途端の第一声がそれ。
サラは眉を寄せているレアーナを見て、大きなため息をつく。
返事を返さずにレアーナの横を通り抜け、部屋へ入っていく。
高級ホテルの一等室。
その部屋にあるソファーはやはり高そうで、肌触りも座り心地もよかった。
ワインレッドのソファーに身を沈め、サラはまたため息をつく。
レアーナは怪訝な顔をしながら、サラに紅茶を渡した。
「なによ。来た側からそんな顔でため息ばっかり」
紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込み、サラはレアーナを見た。
「そんな顔って…失礼ね…」
「だってそんな顔なんだもの。すっごく崩れてるわよ」
崩れてる…、あまりの言い方にムッとするが実際鏡で自分の顔を見ているから黙り込む。
「うら若き乙女の目元にクマなんて許されないわよ、お嬢様? それに目も充血してるし」
「ああーもうっ、わかってるわよー。だって眠れなかったんだもんっ」
「なんで」
「だからオペラがあんまりにも素晴らしかったし、色々あったし、それで散歩してたらヴィックに会って……、色々あって、眠れない…」
ヴィック、というところで頬が赤らむ。
それを見逃すレアーナではない。
レアーナはサラの横にどっさり腰を落とすと、サラの肩に手を乗せる。
「なーにが色々あったの?」
にっこりと向けられた笑顔に引きつるサラ。
「……ひ………久しぶりにヴィックと二人きりだったから緊張して疲れちゃっただけっ」
「だけ?」
じろりと視線を向けるレアーナにサラは頭を抱え、再三のため息。
「ヴィックが……」
「ヴィックが?」
「眠くなるように額にキス……したのっ。それでぜんっぜん眠れなくなっちゃったのよっ」
完熟トマトのように顔を赤くして叫ぶ。
レアーナは一瞬呆けたようにサラを見た。
「おやすみのキス? 額に?」
「そうっ。ヴィクトールにとっては軽いものだろうけどっ。私は眠れなかったのっ」
そう叫ぶと、レアーナがじっとサラを見つめた。
そして、
「あはははははは」
と乾いた笑いをこぼした。
無表情でレアーナらしくない笑みに、サラはぽかんとした。
「あほらしい」
レアーナが真顔に戻って言った。
「…あほ!? な、悪かったわねー」
「え? 別にサラのことじゃないわよ」
「は? なにじゃあヴィック?」
「ヴィックしかいないじゃない」
「ちょっと! ヴィックのこと悪く言わないでしょっ」
「悪くも何も、鈍感だって言いたいの!」
ティーカップを優雅に口元に運びながら、レアーナは横目にサラを見る。
「確かにヴィクトールは優しいけれど、ちょっと恋愛関係には疎いわよね。そう思わない?」
「…………少し…」
「だってサラの気持ちに気づいていたら、そんな不用意なことするわけないでしょう?」
「…うん……」
小さく相槌を打つ。
レアーナは少し怒っているように見えた。
「ねぇ……。おやすみのキスって……深い意味ないのよね…」
上目遣いに見て、呟く。
レアーナは一瞬目を眇める。
そして肩をすくめた。
「さぁ。ヴィクトールのことだから深い意味なく、サラがぐっすり眠れるようにって本当に思ったんじゃないの」
あっさりとした言い方に、サラは「そうだよね」とやや暗めに頷く。
期待していたわけじゃない。
だがもしかしたらという気持ちがあったのも確かだ。
だがレアーナにそう言われると、やはり何の意味もなかったのだと納得して、そしてがっかりしてしまう自分がいた。
「――――――」
肩を落としたサラをそっと見つめるレアーナ。
内心ため息が漏れる。
ヴィクトールがサラに好意を持っていることは知っている。
だから深い意味がない、とは実のところ思わない。
だが―――。
安易にそれを告げるのははばかられた。
サラを応援したい気持ちと、だがそれを止めたいような気持ちもある。
妙な不安。
それは、あの時、から感じたもの。
考えれば考えるほどわからなくなっていく。
レアーナは大きく首を振ると、気分を入れ替えて声をかける。
「ねぇ、ところで、ほかに色々ってなにがあったの」
サラはきょとんとする。
「ほかに?」
「オペラが素晴らしく、さらに色々あったんでしょう?」
「色々……」
自分の言ったことだが、ヴィクトールのことのほうが大きすぎて、思い出すのにしばしの時間を要した。
記憶を巡らせ、「あっ」と漏らすサラ。
赤かった顔が一気に青くなる。
サラは笑顔を作って、首をかしげた。
「えーっと……憶えてないわ」
「憶えてない? あっ、て言わなかった?」
「……そう?」
「そう」
白状しなさい、とばかりに目で言うレアーナに、サラはオペラ劇場でとある青年に声をかけたことを報告した。
「―――――は?」
話が飲み込めないという風に目を細め、そして、
「はぁ!?」
と声が上がる。
眉間にしわを寄せて手を当てる、そしてレアーナは大きなため息をついた。
「ほんっとうに、そんなことしたの?」
サラはいたずらをみつかってしまった幼子のように、上目遣いにちらり見る。
「……ぅ…ん。…………だって…すっごく…気になっちゃって……」
レアーナは再び、今度はさらに大きく大袈裟にため息をつく。
「すごく気になったからといって、見も知らない男性に声をかけるものではないでしょう? サラさん?」
やや冷めた眼差しで、丁寧な口調。
サラは首をすくめる。
「……だから反省してるわよー。だってすっごい恥ずかしかったし」
「当たり前じゃないの。サラ、ぜったい変な女の子だと思われたわよ」
「…………ひどい…」
「ひどくありません。もう、だいたいね、もし仮にその人がマリスの恋人だったとして何する気だったのよ」
その問いかけに、きょとんとしてサラはレアーナを見つめる。
そして数秒、
「…何する気だったんだろう…」
ボソッと呟いた。
レアーナの白い目に気づき、視線をかわしながらも、首を傾げる。
「……マリスの恋人かなって思って…。追いかけて…それで…」
「それで?」
二人は視線を合わせ、しばし見詰め合う。
長い沈黙の後、にっこり笑みを浮かべる二人。
サラの笑顔がじょじょに困ったような色にかげる。
レアーナはしばらく笑顔のまま、そしてため息とともに真顔に戻った。
ぽん、とサラの頭に手を乗せる。
軽く撫で撫で。
「サラも大変だしね。たまにおかしな行動してもしょうがないわよね」
「うん」
うん、と頷くが、ん?、とも思う。
レアーナは立ち上がると奥の部屋から小箱を持ってきた。
ふたを開けると、甘い香りが零れる。
小箱の中にはさまざまな種類のチョコレートが入っていた。
「これお母様のファンの方が持っていらしたの。なんでもすごく人気があって美味しいんですって」
「うんっ。すっごく美味しそうよ」
嬉々とした声でチョコレートを見つめる。
「今日はこのチョコレートでも味わいながら、話し合いましょう」
チョコレートに手を伸ばしながら、
「話し合う?」
「そう。ヴィックのこととかいろいろゆっくり聞いてあげるわ。そして、淑女の立ち振る舞いについても、ね」
零れるような笑顔を向けるレアーナ。
淑女…、意外に仕来りだったり礼儀に厳しい性格だったということを思い出してサラは青ざめる。
見知らぬ青年に声をかけるということが、いかにはしたないことか。
家庭教師よりも厳しそうな美しいレアーナの笑顔に、ただただサラは顔を引きつらせた。
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