『第11話』
―――――目があった。
母親の準備の手伝いをしなくてはならないレアーナを劇場まで送って別れたのは、まだ日が暮れる前だった。
口の中に残る甘い香りと味。
チョコレート美味しかったなぁ、と思いながら、馬車から景色を眺めていた。
固い蹄の音と、リズム良く揺れる馬車にサラは欠伸を噛み締める。
昨夜は訪れることのなかった睡魔が強烈な勢いでサラを包んで行った。
うつらうつらとしていると、馬車が大きく揺れて止まった。
通りを渡る子供たちのために止まったようだ。
眠りから一瞬引き戻されて、外に目を向けた。
ちょうど正面にはパン屋があり、香ばしい匂いが漂ってくる。
流行のドレスを身にまとった貴婦人たちが談笑しながら歩いている。
なんとはなしに街並みを見ていると一組のカップルが視界に入った。
洋服店らしい店から出てきた二人。
ブロンドの髪をした青年。
その横顔をどこかで見たことがあるような気がして、窓からわずかに顔を出し、見る。
「…………あ」
昨夜、オペラ劇場で出会った青年だ。
驚いきに漏れた声が青年に届くわけはない、それなのに青年がサラのほうを見た。
目が、合った。
向こうも驚いたらしく、わずかに目を見開いてサラを見る。
と、青年が慌てたように横を向く。
青年の影になっていた女性が、姿を現した。
亜麻色の髪をした、優しそうに微笑んでいる女性。
女性と青年がにこやかな笑顔で話している。
そしてサラの乗っている馬車に背を向け歩き出す二人。
その一瞬、青年がサラの方を見た。
にっこりと笑みを浮かべて。
「――――――」
ガタン、とまた馬車が揺れ、動き出す。
サラはしばし固まったまま。
そして数秒後、目が覚めたように叫んだ。
「な、なにっ!!??」
揺れる馬車の中、立ち上がり御者に声をかける。
「すぐに止めて! 買い物をしていくわ。先に戻っていてっ」
急停止する馬車。
お待ちしていましょうか、と問う御者に返事もせずにサラは馬車から飛び降りた。
二人が去っていったほうへと走る。
きちんとした身なりの少女が息せき切って走る姿は一目を引く。
もしレアーナが見ていたならば怒られること間違いないだろう、と頭の端で考えつつ、青年たちの姿を探す。
曲がり角を曲がり、立ち並ぶ店々を見ていく。
と少し先に一台の馬車が止まっていた。
その馬車の前に探していた青年。
馬車の窓から顔を覗かせ青年と喋っている女性。
サラは立ち止まって、様子を見る。
二人のところへ行くかどうか迷っているうちに馬車は走り出した。
遠のいていく馬車にようやく足が浮く。
一歩踏み出したとき、馬車を見送った青年もまたサラのほうへと振り返った。
サラと青年の距離が近づいていく。
青年が目の前に立った時、サラは怒ったような表情で呟いた。
「うそつき」
小さく漏れたその言葉は聞き取れるか聞き取れないかぐらいのものだったが、青年は聞こえたらしく、口の端に笑みを浮かべた。
「昨夜お会いしたお嬢さん。奇遇ですね?」
にっこりと昨日と同じように爽やかに微笑み青年は言った。
昨日は紳士的に見えたのに、今日は白々しく思える。
サラは憮然とした表情のまま、
「本当に偶然ですね」
言って、じっと青年を見つめた。
「あの、あなた」
「はい?」
なんでしょう、とでも言うように微笑む。
「昨日…マリスという女性のこと、知らないって言いませんでした?」
大袈裟に驚いてみせる青年。
「さっき、あなたと一緒にいたのマリスですよね」
青年は怪訝そうに首をかしげ、厳しい表情をしたサラを見る。
しばし会話が途切れる。
「なんで、嘘ついたんですか?」
困った顔をしている青年に、サラはやや気を緩めて言った。
と、青年の顔から笑みが消えた。
青年は切なげに視線を揺らし、顔を背ける。
辛そうな様子に、サラはハッとした。
彼がマリスに婚約者がいると知っているんだったら、自分の存在を言えるわけがない。
彼もまた辛い立場にいるのだ。
そう考えると、いま自分が突っかかるように話していることに罪悪感を覚えた。
昨夜一度話したとはいっても、ほとんど初対面。名前も知らないのだ。
それなのにこんなにぶしつけな態度を取っている自分はいったいなんなのだろう。
サラは一気に青ざめる。
青年は重い表情のまま口元に手をあて、そんなサラの様子を見ている。
「あの…」
伏せ目がちにサラは呟いた。
「ごめんなさい…。私…あの」
青年が顔を伏せた。
わずかにその肩が震えている。
「あの…?」
どうしたのだろう、と驚いていると、ちらり青年が視線を向けた。
そして吹き出した。
さっきまでの紳士的さとはまったく違う雰囲気の笑い声。
可笑しくてたまらないといったように青年は笑いながら、サラを正面から見つめた。
「サラちゃんってほんと表情豊かだね。ちなみに言っておくけど、俺はマリスのことを知っているとも知らないともいってないから」
がらりと変わる態度。
にっこりと向けられた笑顔は、今の状況を楽しんでいるような、なにかクセのあるもの。
サラはただ口を開けて、青年を眺める。
青年ラナルフ・ブラトリーは目を細め、
「まあ立ち話もなんだから、お茶でも飲まないかい? 美味しいケーキ屋さんに案内してあげるよ」
言って踵を返した。
サラはしばらく呆けていたが、一人さっさと歩き出したラナルフを慌てて追いかけていった。
「チョコトルテが絶品だよ」
入ったのは質素な、小さな店だった。
こじんまりとした装飾もなにもない店内。
だが目の前にある数種のケーキやチョコレートはどれも美味しそうだった。
(……なんだか今日甘いものばっかり食べてる…。太らないかしら…)
今の状況も忘れ、思わずそんなことを考えてしまう。
「なに、甘いもの嫌い? まさかな」
ケーキを見たまま固まっているサラに、問いかけ否定している。
まさかなってまさかもあるかもしれないじゃない、と思いつつ、ラナルフが絶品と言ったチョコトルテに目は釘付け。
「決まった?」
「………えーっと…」
言って数十秒の沈黙。
「チョコトルテとブルーベリータルトを2つ」
店員へ注文。
目を点にしてサラはラナルフを見上げる。
ポケットからサイフを取り出し、定員にお金を渡している。
店員とは顔なじみらしく、一言二言話していた。
店員がケーキを茶色の袋へ入れる。
そこでようやくラナルフが視線に気づき、サラを見た。
「どうした?」
「………私まだどれにするか言ってない…」
ケーキ二つを注文したのはラナルフだったのだ。
恨みがましい眼差しに、ラナルフはにっこりと、だが冷たく笑う。
「残念、タイムアップ」
と短くそれだけ言った。
店員からケーキを受け取り、店を出て行くラナルフ。
その後姿を見ながら、サラは憮然とした表情でついていく。
店を出てからずっと黙り込んでいるサラ。
それに気づいたラナルフが小さな笑みを浮かべ、覗き込む。
「なんだ、ケーキ選べなかったから怒ってるのか?」
ムッとして顔を上げる。
「そりゃ、ブルーベリータルトよりもミルフィーユのほうが良かったけど…。イチゴがたっぷり入ってて美味しそうだったし」
「ああ、ブルーベリーは嫌いだった?」
「え? そんなことはないわ。美味しそうだったし。ただミルフィーユのサクサク感を味わいたかったような気が……」
しただけ、と言い終わらずにサラは眉を寄せ、口をつぐむ。
なにをベラベラ普通に喋っていたのだろうと思ってしまう。
サラは気を入れなおして、
「私はただ、あなたは紳士だと思っていたから、こんなにも礼儀がなってなくてすごく驚いていただけです」
精一杯の嫌味を込めて言った。
口を結んで、ぎっと視線を向ける。
ラナルフは一瞬目を点にして、目を細めた。
「俺は紳士だと思うよ? 十分に。俺のほうこそ、サラちゃんがこんなにも…」
そう言って満面の笑みを向ける。
だがそれっきりなにも言わずに歩くラナルフ。
「………………」
こんなにも、の続きが気になる。
だがこれ以上なにか言っても、同じことの繰り返しのような気がして黙っていることにした。
それになぜ会ってまだ2回だけの人とこんなにも言い合っているのだろうと、そんな思いもよぎる。
サラは急に疲れを感じて、大きなため息をついた。
しばらくしてラナルフは大通りから外れた小さな通りへと歩を進めていった。
アパートメントの立ち並ぶ裏通り。
子供たちの遊び声や、威勢の良い婦人たちの笑い声が響いている。
と、ラナルフが立ち止まった。
サラも続いて止まり、目の前の建物を見上げる。
赤茶のレンガの古い建物。
3階建てのアパートメント。
「俺のアパート」
肩越しにサラを見て、ラナルフが言った。
一瞬普通に頷きそうになり、慌てて声を上げる。
「えっ!?」
目を瞬かせ、無意識のうちに一歩後退りする。
ラナルフは目を細め笑う。
「取って食ったりしないよ。近所のカフェはあいにく知り合いばかりでね、ゆっくり話すには俺んちが一番かなと思ってね」
小首をかしげ、
「それに君みたいな可愛い子を連れて歩いていると色々うるさいし。というわけなんだけど、イヤ?」
からかうような口調でサラの瞳を覗き込む。
内心引きながらも、精一杯強がって微笑む。
「いいえ、どこでも構いません」
「あっそ」
笑いながらラナルフは古いアパートメントの階段を登っていった。
ラナルフの部屋は三階の一番奥だった。
古い建物の床はギシギシ軋み、生活の匂いがそこかしこに染み付いている。
中流家庭で育つサラにとっては初めての場所だった。
物珍しげに建物の内部を見ながらラナルフのあとをついていく。
部屋の鍵を開けている後姿を見ながら、もじもじと指を動かす。
(………マリスの恋人とはいえ…一度会ったばかりの男の人の部屋にはいるなんて………………絶対、レアーナに怒られちゃう)
今日のことはレアーナに話すだろうし、そう考えると背筋を冷や汗が伝った。
こげ茶のすす汚れたドアを開け、中に入るラナルフ。
どうぞ、と声をかけられおずおずと続く。
足を踏み入れると、なにか匂いが鼻をついた。
二間続きの部屋。
食器棚と3人ほどしかかけられなそうなテーブル。その上には食べかけのパンと果物が乗っていた。
それをわき目に見ながら吹き抜けの隣の部屋をのぞく。
部屋の奥にはもうひとつ扉があり、そこが寝室らしい。
そして部屋には匂いのもとがあった。
西日のさす部屋の中に小さなテーブルが一つあり、絵の具やらパレット、筆が所狭しとのっている。
テーブルの横にはイーゼルとキャンバス。
「――――――絵描きの卵っていうのは本当だったんだ…」
ぽつりと呟く。
絵の具の上に無造作に置かれたクロッキー帳をめくる。
中には風景、そしてマリスが多く描かれていた。
優しい絵。
美術的なことなどなにもわからないが、描かれていたマリスはとても穏やかで優しい微笑を浮かべている。
描かれる側と描く側の強いつながりを感じた。
「紅茶でいいかい?」
呼びかけられて振り向くと、ラナルフがやかんに火をかけ紅茶の缶を手にしていた。
「春摘みのダージリンを近所のカフェのおばさんから貰ったんだ」
「あ、うん」
ラナルフはクリーム色のポットに茶葉をいれる。
皿とフォークをテーブルに並べると、うやうやしく頭をさげた。
「さ、お嬢様、お座りください」
わざとらしい口調は楽しげ。
からかわれていることはわかっていても、男性の部屋へ入ったことが初めてのサラは緊張してしまい、素直に席に着く。
ラナルフはケーキを皿にのせ、差し出した。
お礼を言って受け取る。
目の前に並んだチョコトルテとブルーベリータルトを見つめて数秒、ふとラナルフを見た。
「あれ…? あなたの分は?」
「甘いものはあまり好きじゃなくてね」
「…ふぅん……。それなのによく美味しいケーキ屋さんを知っているのね」
サラは素直な気持ちでそう言った。
頬杖をつき、ラナルフが小さく笑う。
「女の子は甘いものが好きだろう? 来客のさいには用意しておくのが紳士だろ?」
笑みをこぼし言うラナルフに、マリスもこの椅子に座っているのだと実感する。
やかんがカタカタと揺れる音が響いてきて、ラナルフがキッチンへ立つ。
茶葉を入れておいたポットに熱湯をそそぎ、ポットとティーカップを両手にもち、戻ってくる。
「サラちゃん砂糖は? ミルクかジャムはいるかな?」
「え……っと…砂糖だけでいいです」
了解といって、椅子に座ったままテーブル横の棚から砂糖のはいった壺を取る。
その様子を見つめ、ぼんやりサラはケーキに視線を落とした。
(…私、なに和んでるんだろう……)
知り合ったばかりの名前も知らない青年。
幾度となくつっかかりはしているものの、結局のせられているような気がしないでもない。
それにゆっくり腰を下ろして見れば、そんなに悪い人ではないように思えた。
「食べれば?」
じっとケーキを見つめ黙り込んでいるサラに笑いながら声をかける。
「え、あ…」
ちらっと顔を上げ、目が合い恥ずかしさにわずかに頬を染める。
(………私絶対…食い意地がはってる女の子だって思われてる…きっと…)
フォークを手に取り、チョコトルテの端を少し削る。
「……いただきます」
口の中にケーキのかけらを放り込む。
ふんわりとしたショコラスポンジとチョコレートムースの甘さがいっぱいに広がった。
頬が思わず緩む美味しさ。
甘い、だがしつこい甘さではない。
生チョコのクリームがムースとスポンジの間にはいっていて、濃厚な3種のチョコレートの味を感じさせる。
「……美味しい…」
呟きが漏れる。
「お気に召したかな、サラちゃん?」
「うん…」
素直に頷き、もう一口食べる。
優しい眼差しでラナルフがサラを見つめ微笑んだ。
そして紅茶を注ぐ。
暖かな湯気とダージリンのほのかな香りが甘い香りの中に混じる。
「甘いものは苦手だけど、そのチョコトルテはなかなか美味しいと思うよ」
砂糖壺と紅茶をサラに渡し、熱い湯気のたつカップの水面に息をふきかけ笑いかける。
「…すごく美味しい…。マリスもこれ好きなの?」
いつのまにか向ける口調、言葉遣いは自然なものになっていっていた。
「まぁね」
ストレートティーを口に運ぶラナルフ。
サラは二、三口ケーキを食べる。
そして甘い口の中を紅茶でさっぱりと潤す。
暖かい紅茶にほっと息が漏れる。
大人しくケーキを食べているサラを見ていたラナルフがふと吹き出した。
フォークを口に入れたまま、顔を上げるサラ。
きょとんとした眼差しを向ける。
「ん、ごめん。いやサラちゃんってすごくいい子なんだなぁ、としみじみ思って」
「それ…素直に受け取っていいのかな……」
「いいんじゃない?」
「…ところでそのサラちゃんっていうのやめてほしいんですけど」
「え? ダメ? じゃあ、サラさん?」
真面目な口調。だが笑みを含む瞳。
サラは今度は突っかからず、ラナルフのペースに巻き込まれないようにとにっこり微笑む。
「サラ姫で」
ラナルフがぽかんと口を開ける。
なぜか、ラナルフに勝ったような気がして、笑みが大きくなる。
だがすぐにラナルフは大きな声で笑い出した。
「サラ姫ね、了解」
敬礼するように言って、しばらく笑い続ける。
サラは余計なことを言わなければよかったと思いつつ、もう放っておこうと黙々とケーキを食べだした。
数分してようやく部屋の中はしずかになった。
サラはすでにブルーベリータルトにフォークを入れている。
「ところで」
紅茶を一飲みし、椅子にもたれかかりラナルフが声をかけた。
食べながら顔を上げる。
「お姫様は、なぜ俺を追いかけてきたのかな?」
「…………」
言われて数秒、サラはハッと我に返り、食べる手を止める。
何度となく何をしているのだろうとは思っていたが、本当に目的を忘れていた。
サラはフォークを皿に置き、ラナルフを正面から見た。
「…それは……」
言いかけて、黙り込む。
(……そういえば…なんで追いかけたんだっけ…。この人がマリスと一緒にいるの見て…嘘つかれてることに気づいて…。だからとっさに追いかけちゃって…。だから………)
サラは凍りついたように固まる。
やや青ざめた様子でうつむいた。
ラナルフはそんなサラを見て、口の端に笑みを浮かべる。
おそらくは突発的な行動だったのだろうと、予測はついた。
昨夜自分に声をかけてきたのも衝動的なものだったのだろうし。
「マリスとのことを聞きたかったんだろ?」
「え?」
驚くサラ。
「あ、うん…そう」
あっさりとマリスのことを自分から持ち出したラナルフにわずかに気が抜ける。
緩んだ表情のサラにラナルフがにっこりと、だが冷たく言い放つ。
「でも、なぜ君にそんなことを話さなきゃいけないのかな?」
「え……」
それはまったくその通りで、言葉がなくなる。
自分はマリスの知り合いではあるが、だからといってその私生活を詮索する権利はないのだ。
「………それは…」
ヴィクトールの婚約者であるマリスがこの青年とどういった付き合いをしているのかを知りたい。
だがそんなことは言えず、モゴモゴと口を動かす。
ややして沈黙が、優しく破られる。
ラナルフが「なんてね」と笑顔を向けた。
「いいよ、別に話してあげても」
不思議そうにサラは顔を上げる。
「そのかわり」
すっと長い指をサラに向ける。
「君の絵、描いていい?」
サラは目をしばたたかせる。
「絵?」
「そう。ただ似顔絵みたいなかんじでだけだけどね」
「………それは…別に構わないけど」
「良かった」
そう言って、ラナルフは隣室からクロッキー帳を取ってきた。
パラパラと開き、椅子の背に深くもたれかかり、サラを見つめる。
「それと、サラって呼んでいいかな? そして今更だけど、俺の名前はラナルフ・ブラドリー。よろしくね」
気さくな笑顔で、ラナルフが言った。
そう言えば名前も聞いてなかったのだ、とその時になってようやくサラは気づいた。
カリカリと鉛筆が紙の上を滑る。
描き始めたとたんに、その眼差しは真剣なものになった。
さっきまでの軽い印象とは真逆な声をかけるのさえはばかれるような空気をまとっている。
サラは緊張して、まだ半分ほど残ったケーキに手をつけれない状態だった。
「そんな固くならないでいいよ。肖像画を描いているわけじゃないからね」
ふと眼差しを優しく和らげ、ラナルフが笑う。
「うん…」
緊張を解きほぐそうと、紅茶を飲む。
手を動かしながら、
「聞きたいことがあったら、なんでも言っていいよ」
ラナルフが言った。
サラは口元に手をあて、視線を宙にさまよわせる。
少し逡巡する。
「………あの…ラ…ラナルフとマリスは恋人同士なのよね…?」
とりあえず当たり前な質問をしてみた。
恋人同士でないなら、自分はとてつもなく意味のない行動をしているのだから。
「付き合ってそろそろ2年になるかな」
「2年?!」
予想外の長さに思わず声をあげる。
ラナルフは小さく笑いながら、話し出した。
「俺が初めてマリスと出会ったのは彼女の誕生日だったんだ。彼女の友人がパーティを開いてね、知り合いの知り合いっていう感じで居合わせたわけ」
「へえ…」
「で、俺は絵描きの卵っていうふうに紹介されて。ああ、その時は俺もマリスの住んでいるブライトンで学校に通っていたんだ」
半年ほど前に、古い知り合いのいるこっちに越してきてね、言って少し手を休め紅茶で喉を潤す。
「絵描きっていうのが珍しかったみたいだよ。いろいろ話したからな、あの時」
当時を思い出し、自然と笑みがこぼれる。
純粋、育ちのよさをそのまま現したような大人しい少女、それがマリスに対する第一印象だった。
「それで誕生祝に、今みたいにマリスの絵を描いてあげたわけ。そしたらひどく気に入ってくれたんだ」
『素敵』
15の誕生日を迎えた少女は食い入るように絵を見ていた。
そんなに嬉しいのだろうかと思っていると、零れるような笑顔で少女が言った。
『ラナルフさんはきっと素晴らしい絵描きになりますわ。だってこんなに優しくてとても惹きこまれる絵を描くのだもの』
恋に落ちたのはどちらが先だったのだろうか。
それは必然的なことだったのだ。
出会いも、そして愛し合うことも。
「それから友人たちと一緒に数度遊ぶことがあって、しばらくしてマリスが自分の絵を描いてほしいと頼んできたんだ。デッサンではなく、肖像がとしてね」
たまたまマリスを家へ送るときがあり、その時頼まれたのだ。
ひどく緊張した面持ちで、恐る恐るといった感じだった。
あの時は驚いたことをラナルフは思い出す。
マリスが自分からなにか発言なり頼みごとをするのを見たことがなかったからだ。
『俺でいいの?』
『はい…。ラナルフさんにお願いしたくて…。あのちゃんとお金は払いますから』
『うーん、そうだなぁ。画材代だけ出してもらえばいいよ。描くのは勉強にもなるからね』
そう言うと、マリスはほっとしたように頬を緩めた。
『じゃあ、いつから描く? 俺が君の家に行ったほうがいいのかな』
『え………あの…』
どうやらそこまでは考えていなかったらしい。
マリスの家は母親の実家が銀行家で父親は開業医をしているという、なかなかの資産家だった。
もちろん家も厳しい。
『じゃあ、俺の家でいい?』
『―――――――はい…』
それから1週間に一度の割合で、二人は会いだした。
「その…絵を描くようになってから、自然と…付き合うようになったの?」
懐かしい記憶に手が止まっていた。
ラナルフはサラの声に現実に引き戻され、また描きだす。
「まぁそんなものかな」
「……どっちが好きになって……。告白をしたの…」
聞きにくそうに、サラがさりげなくラナルフを見ながら言う。
「んー? 俺かな」
笑うラナルフ。
「………ラナルフは…」
フォークでブルーベリータルトを触りながら、言いよどむ。
「なに?」
「あの…ヴィック……。婚約者がマリスにいるってことは知っていたの?」
「ああ、見たことあるし。最初から知ってた」
あっさりした口調に、サラのほうが戸惑う。
なぜ婚約者のある女性と付き合うのだろう、と。
「誕生日パーティに彼もいたからね。兄のような存在だと、みんなに紹介していたよ」
苦笑が浮かぶ。
マリスが彼を見る眼差し。ヴィクトールが彼女を見る眼差し。
婚約者なのだと、そう友人に聞かされた時、違和感を感じたのを覚えている。
互いに向ける愛情が、確かに存在することはわかった。
絵を描く、もの見る職業柄か、初対面でもその相手がどういう性格をしているのかは見て取れた。
だが、婚約しているというマリスたちの間にある愛情は、恋愛ではないようだった。
親が決めたというから、そんなものなのだろう。
あの時、ラナルフはそう思ったのだ。
「――――まぁ」
真意がわからないといった表情で自分を見つめるサラに、微笑をこぼす。
「サラと一緒だよ。親が決めた婚約者。二人のつながりが家族愛的なものだったら、自分が入り込む隙間があるのじゃないか、と思ったのさ。実際、今付き合っているしね」
笑いながら言われた言葉に、ギョッと目を見開くサラ。
いまこの青年は『サラと一緒』と言ったような気がする。
それは……。
青ざめるサラにラナルフが声をたてて笑った。
「マリスから、サラのことやヴィクトールさんのことはよく聞いているよ。家族が増えたみたいで楽しいっていつも話しているからね」
青から赤へと、顔を染め替えていくサラは、恥ずかしさを紛らわせるようにタルトを食べる。
「……じゃあ、昨日…会った時…」
フォークを口の中に入れたまま小さく呟く。
ラナルフはにっこり満面の笑顔を向ける。
「君が誰かは知ってたよ。君がなぜ俺を追いかけてきたのかも、すぐ気づいたし」
「…………」
サラは顔を覆って、がっくりと肩を落とした。
すごく自分が恥ずかしい人間のような気がして、顔が上げられない。
「そんな気にしないでいいよ。いかに君が素直で可愛い子かよ〜くわかったしね」
「………」
ラナルフは笑いながら、うつむいたままだと描けないよ、とからかう。
サラはため息をつきながら顔を上げた。
「ヴィクトールさんのこと好きなんだろう? 頑張ってるの?」
サラの気を和まそうと、優しく声をかける。
「……好き…だけど」
チラッと視線をあげると、目があった。
相変わらず楽しんでいるような笑みはあったが、その眼差しは暖かい。
「もう…ダメかなって…」
「なんで?」
「なんで…って…。ヴィックが……」
言いかけて、ハッと口を塞ぐ。
マリスのことをいかにヴィックが想っているか。
そんなことをラナルフに言って、彼が心中穏やかでいられるはずもないだろう。
サラは口ごもって視線を逸らした。
「なに、ヴィクトールさんがどうしたんだ?」
「…なんでもない…」
自分のことを気にしている様子のサラの態度に、
「なに『マリスが一番大切』みたいなことでもサラに言ったの?」
当たらずとも遠からず。
ほとんど図星の言葉に、上目遣いにそっとラナルフを見る。
「………………」
だがラナルフはいたって気にしていない様子で笑った。
「ふーん。サラにとってはキツイね」
「……ラ……ラナルフは…」
「ん?」
「心配じゃないの…?」
「なにが」
「なにがって…。だって…親が決めただけとはいえ、婚約者は婚約者だし。ヴィックはマリスを大事に想ってるし」
重く呟く。
「それが恋愛感情ならね」
軽く呟く。
「え?」
「なんでも」
「………? ラナルフは不安にならないの」
怪訝に思うも、気を取り直して訊いてみた。
「不安……か。まぁ不安はあるよ。だけど相手を想う気持ちはどうしようもないだろう?」
どうしようもない。
その言葉が胸をついて、切なくなる。
「…じゃあ…私も…ヴィックのこと想っていて…いいのかな…」
「いいんじゃないか。本当にダメだと思うまでは」
サラはわずかに目を見開いた。
「……それ親友にも言われた…」
そう、とラナルフが静かに笑う。
サラはまじまじと、だが不躾にならないようにラナルフを見た。
(…………そういえば…なんだか…性格レアーナに似てるのかも…)
そう考えれば、ここまで自分が打ち解けているのも解るような気がした。
「ハッピーエンドだといいねぇ」
他人事のようにラナルフが言った。
だがその瞬間ラナルフに浮かんだのは暗い影。
一瞬のことにサラは気づくことなく、そうね、と相槌を打った。
会話が途切れ、サラは残りのケーキを食べ終わった。
しんと静かな空気が流れる。
再び鉛筆のすべる音だけ。
「そういば…ラナルフっていくつなの?」
「19」
ヴィックより一つ下なのだ、と驚く。
「なにもっと老けてる?」
「…そんなことはないけど」
最初は軽い性格に不信感を抱きもしたが、話しているうちに意外に大人なのかもしれないと思ったのだ。
ティーカップを両手で包み込むようにして持ち、ラナルフを見ながら飲む。
熱心な視線に気づき、苦笑が漏れる。
「あまり見つめないでくれる?」
やんわりと視線を流すと、サラが頬をそめて視線を逸らした。
「サラって一人っ子だろう?」
「うん」
「そんな感じ」
眉を寄せるサラ。
そんな感じとはどんな感じなのだろうと真剣に考えてしまう。
「………ラナルフは…? 一人っ子?」
「いや、妹がいるよ。16歳」
「私と一緒だわ」
「ああ、そっか。だからか!」
手を打って、ラナルフが頷く。
サラはきょとんとした。
「いや、俺の妹もおてんばというか元気が有り余っているというか…。だからそういう世代なんだなと」
「………」
白い目を向ける。
それに気づきラナルフは首をすくめてみせた。
「もうすぐ出来るよ」
細かな箇所に陰影をつけながらラナルフが言った。
それから数分して、大きなため息が漏れた。
指を鳴らし、描き終えた紙をクロッキー帳から破る。
ラナルフは少し離して出来上がりを眺め、
「ご期待にそえるかは微妙ですが、よかったら貰っていただけます?」
と差し出した。
「いいの? ありがとう」
受け取り、視線を落とし、数秒後顔が赤らむ。
明るく、暖かな笑顔をした自分が描かれていた。
思っても見なかった絵に気恥ずかしさを感じながらも、嬉しくて心が弾む。
「あなたって、きっと素晴らしい絵描きになるわ」
自然と零れる笑顔。
今日初めての笑みは、絵に描かれた笑顔と同じだった。
ラナルフはかつて恋人が言った言葉と同じ言葉に目を細める。
大きく背伸びをして、立ち上がった。
「それじゃあ、そろそろ送りましょうか?」
サラも慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい、長居しちゃって」
「いいよ。俺も楽しかったし」
アパートメントを出ると、やや日が翳っていた。
二人は談笑しながら表通りまで向かった。
ラナルフが馬車を止める。
馬車へ乗り込むサラ。
「ああ、サラちゃん」
ラナルフが思い出したように声をかけた。
口元に人差し指を当て、微笑む。
「今日のことは二人だけの秘密、な」
いたずらっぽく片目をつぶるラナルフに笑って頷く。
「うん、わかった」
「じゃ、また機会があったら、お会いしましょう、お姫様」
わざとらしい口調で言い、お辞儀するラナルフ。
サラは思わず吹き出した。
ラナルフは微笑む。
「すいません、お願いします」
ラナルフが御者に出発を促す。
動き出す馬車。
そして二人は別れた。
馬車が走り出し見送って、ラナルフはアパートメントへと戻った。
サラに向けていた笑顔は消え、無表情に帰る。
サラに話したことにより、まざまざと甦ってきた思い出に心が飛ぶ。
マリスとの出会い。
そして、あの日。
マリスと心を通わせた日を思い出す。
あの日のことは、なぜか甘く重く、心を締め付ける。
マリスから頼まれ2ヶ月ほどたったころ、肖像画ができあがった。
週1回が週2〜3回のペースにかわっていっていたので、予想よりも早く描きあがったのだ。
今日で終わり。
それを告げたとき、悲しそうにマリスが顔を歪ませた。
『じゃあ、また』
ドア先まで送る。
マリスがドアノブに手をかけたまま、固まったように動かない。
うつむいて、黙り込む。
ラナルフは心の中でため息をつき、じっとマリスを見つめた。
婚約者のいる少女。
彼女が自分に好意をもっていることはとうに気づいていた。
そして自分もまた…。
どうしろっていうんだ?
そう自嘲する。
しばらくの重い沈黙のあと、うつむいたままマリスが『……ありがとう…。また…』
小さく呟く。
カチャ、とドアノブが回る音が響いて、今度は大きくため息をついた。
そしてマリスの頬に触れた。
身をすくめ、驚いたように顔をあげたマリスの唇に、唇を重ねる。
ほんのわずかに触れただけで離れたが、マリスは泣きそうな顔でラナルフを見上げた。
『嬉し泣きしかだめだよ』
そう囁いて、マリスを引き寄せ、抱きしめた。
細い肩が震えていたのを今でも憶えている。
自分の胸の中で、暖かい涙が流れていったのを思い出せる。
なんとかなる、そう思ったわけでもなんでもなかった。
だが、止められなかったのだ。
それからは絵を描くという、建前はなくなり、二人は純粋に逢瀬を楽しんだ。
部屋に戻り、後手にドアを閉め、寄りかかる。
「――――――必然…。ぜんぶ必然」
正面の窓をぼんやり見つめ、呟く。
その声は重く、切ない響きをもっていた。
「おかえりなさい」
馬車から降りると声がかかった。
ビクッとして見るとマリスが立っていた。
「私も今、用事から帰ってきたの」
笑顔をむけてくる。
柔らかい花のような微笑に、サラはなんとなく視線をそらし絵を隠すと、笑顔を返した。
「私も…レアーナのところから…」
「そう」
今日ラナルフと会ったことは秘密だ。
だがどうしてもすべてを知ってしまったから、マリスの本心に思いを巡らせてしまう。
彼女は、どうするのだろう。
これから先。
ぼんやりと立ち尽くし、思う。
「サラ?」
顔を上げると不思議そうにマリスが笑った。
「中に入らないの?」
「え…ああ。うん」
頷き、頭の中のさまざまな考えを取り払う。
そして他愛のない会話をしながら、屋敷へと入っていった。
|