『第12話』
頬が緩む。
愛しそうな眼差しで手の中にある皮製の写真入れを見つめている。
写真の中にはブロンドの髪をした青年と自分。
マリスはそっと写真を撫で、微笑を浮かべた。
幸せな一時。
穏やかな瞬間が、ドアがノックされ打ち破られる。
マリスは慌てて写真を隠し返事をした。
メイドが入ってきて、手紙が来ていましたよ、と渡した。
礼を言いながら封筒の裏を見る。
両親からの手紙だった。
この屋敷に滞在してもう3週間近くたとうとしている。
懐かしい字に頬を綻ばせ、封を切った。
一枚目は母親からで、楽しんでいるか不便はないか体調は悪くないかと心配ばかりが連なっていた。
母の優しい気持ちが文面から溢れていて、ふと切なさがこみ上げる。
そっとため息をつき、2枚目を見ると父からだった。
母親と同じくマリスの身を気遣う文面から始まっていた。
そして近況。
読み進めていくうちに、マリスの手に力が入る。
『ヴィクトールとは仲良くしているかい。
そちらのヴィリアーズ氏との関係は良さそうか?
お前の滞在は2ヶ月ほどとなっているが、帰ってくるときにヴィクトールも一緒に連れてきなさい。
もうかれこれ半年ほど会っていないからね。
それにヴィリアーズ氏には大変お世話になってはいるがヴィクトールもいずれは私の息子となる青年だ。
いろいろと進めていかなければならない話もあるからね。
お前も17歳。もうじき18になる。
そろそろ正式に―――――――――』
大きく手が震え、次の瞬間音を立てて、手紙が握りつぶされる。
正式に―――――。
心臓が激しく動いて目眩がした。
忘れているわけではない。
ヴィクトールが婚約者だということを。
いや、忘れているのだろうか。
この街には愛するラナルフがいる。
そのことがいつでもマリスの心を幸せに満たしている。
そしてヴィクトールは兄のように、そばにいて当たり前の存在だから。
だから――――。
クシャクシャになった手紙を落とし、両手で顔を覆う。
ふと、いつの頃からか父母が言っていた言葉が思い出される。
『お兄様などと人前で言うものではないよ。ヴィックはいずれお前の伴侶となるのだからね』
言われるたびに、マリスの心を締め付けていたのは焦燥感と困惑。
幼い頃から自分のそばにいて、姉の代わりに兄のような存在となってくれたヴィクトール。
大切な存在だ。
だが。
思いため息をつき、マリスは便箋のしわを綺麗に伸ばし始めた。
返事を書かなければいけないと思うと気が重くなる。
マリスは手紙をきちんと折りたたみ封筒にしまうと、再び写真を取り出した。
返事を書く前に、少しだけ。
少女は切ないため息を吐き、写真の中の青年を見つめた。
青年の唇から切なげなため息がもれた。
椅子にもたれかかり、机に手紙をおき、天井を見上げる。
ついさっきメイドに届けられたのは亡き父の友人であり、婚約者マリスの父親からの手紙。
そこには亡き父親と開く予定だった病院のことと、マリスのことが書かれていた。
マリスとの結婚の準備をそろそろ始めようという内容のこと。
父親の死がなければ今頃は病院を開き、マリスとの結婚の準備もスムーズに進んでいたことだろう。
だが父親の死をきっかけにすべては思いもかけない方向へと道を変えたのだ。
それは古き親友ヴァス・ヴィリアーズの葬儀への参列から動き出した。
黒い上等なスーツを身にまとった、厳格さを漂わせたヴァス・ヴィリアーズと初めて会ったあの日。
彼の、自分を見つけたときの、複雑な眼差しは、鮮明に思い出せる。
マリスの父親よりも古い付き合いだったヴァス。
その彼が、なぜ十数年疎遠だったのか。
なぜ、父親の死とともに、姿を現したのか。
ヴィクトールは目を閉じる。
「あと1年…それとも2年…」
呟きは細い吐息とともに漏れる。
「それより何十年長くなってもいい。だから、今だけ」
自分の存在を認め、そしてこの屋敷に招いてくれたヴァスとの『秘密』を噛み締める。
長い時ではない。
長くて2、3年。
この屋敷で、共に過ごすと決めたのだ。
終わりが来ず、自分が出て行く日が、来ればいい。
そう、祈る。
それは青年の切なる願い。
たとえ『あの人』が自分を見ようとはしなくても。
『あの人』の終わりが、遠い日であるように。
それだけを祈った。
雪の降る夢を見た。
あれはいつだっただろう。
たしかもう姉はいなかった。
雪を踏みしめ、頼りない足取りで歩いていた。
深い雪に足をとられ、転んでしまった。
『大丈夫?』
慌てて走ってきたのは兄だった。
いや、違う。
兄のような存在のヴィクトールだった。
あの頃、ヴィクトールは隣の家に住んでいて、ほとんど一緒に過ごしていた。
だから、自分にとってはヴィクトールは兄そのものだったのだ。
たまに家へと帰るヴィクトールの後姿を見てはなぜ帰るのだろう、と不思議に思ったこともある。
彼には父親がいたのに。
だが幼い、まだ4、5歳の頃は本当に兄だと思っていたのだ。
『おかしな話よね』
そう昔話を話聞かせたとき、『彼』は穏やかな瞳で、しずかに微笑んでいた。
私がする話はほとんど家族のことや友人のことに終始していたが『彼』はいつもそばにいて黙って聞いてくれていた。
だけど『彼』の瞳にときおり不思議な光が宿ることがあった。
切なそうな、哀しそうな、光。
それはほんの一瞬よぎるだけだったけど、ふとした瞬間、思い出すことがあった。
私にはそれがなんの感情なのか、読み取ることはできなかったが。
マリスは額に手をあて、ぼんやりと目を開いた。
薄暗い部屋の中。
なにか夢を見ていたような気がする。
雪が降っていた日のことだったろうか。
いや、雪が降っていたことを話す夢だったろうか。
いずれにせよ、浅い夢はもやがかかったように霞んでつかめない。
寝返りをうち、枕に顔をしずめ、再び眠りの中に入ろうとする。
静かな部屋の中に時計の針の音がやけに大きく響いている。
目が覚めきったわけでもないのに、眠ることができなかった。
数度寝返りをうって、ため息をつき起き上がった。
時計を見るとまだ午前1時ぐらいだ。
眠りについて数時間しかたっていなかった。
マリスはガウンを羽織ってのろのろとベッドから出た。
ベランダに行ってカーテンを開ける。
満月よりややかけた月が浮かんでいた。
月を見上げ、再度ため息が漏れる。
ここ3日ほど、この調子で深夜に目覚めてしまうのだ。
それからは朝方まで眠れず、かといって朝寝坊できるわけもなく寝不足がつずいていた。
思えばそれは両親からの手紙が届いてからのことだった。
こめかみのあたりを抑えながら、夜風に頬をあてる。
わずかに冷気をふくんだ風は心地よかった。
ベランダの端へと移動し、少し身を乗り出すと薔薇園が見える。
花の色など識別できないがそれでも見ていると気持ちが落ち着いた。
しばらくベランダにたたずんでいたが、余計に目が冴えるばかりで部屋に戻る。
なにか暖かいものが飲みたくなり、しばらく逡巡するとベッド横のランプをとり食堂へと向かった。
廊下はあたりまえのことながら静まり返っていて少し恐さを感じた。
急ぎ足で食堂のある1階へと階段を下りる。
食堂へと進む廊下の角をまがった途端、突然なにかにぶつかった。
「ぃっ…たーい」
マリスではない声が小さく響く。
手にしたランプの光が大きく揺れ、その中で相手を見る。
「…サラ」
驚きに胸を抑えていたマリスがほっとしたように呟いた。
サラもまたマリスを見て、苦笑をもらす。
「マリスだったのね。びっくりしちゃった。ごめんなさい。ぼーっとしててランプの光にも気づかなくて突進しちゃった」
「私こそ」
言ってお互いに顔を見合わせて笑う。
「サラも眠れないの?」
「マリスも?」
「ええ」
ため息混じりに頷くと、サラが心配そうに覗き込む。
「大丈夫? そういえば最近顔色悪かったもの」
「そんなにたいしたことはないのよ。少し眠れないだけだし」
微笑を浮かべて言うが、サラは自分の目の下を指差してみせる。
「でもクマができているわ。乙女に睡眠不足は大敵よ」
真剣な口調の言葉に、思わず笑いが漏れる。
「そうね。でもサラこそ眠れないんでしょう?」
「…うーん。でもそんなに毎晩じゃないし…。たいてい暖かいミルクでも飲めば眠くなるの」
はにかむようにサラが笑った。
可愛らしい少女の笑みにマリスは心が穏やかになるのを感じる。
「マリスはなぜ眠れないの」
躊躇いがちにサラが尋ねた。
マリスはふと考えを巡らせる。
何故だろう。
理由はわかっているはずなのに、よく考えると何故だかわからなくなった。
首を傾げ、「なんででしょうね」と小さな笑みをこぼす。
サラはじっとマリスを見つめると、なにかを思いついたように踵を返した。
「マリスに特別にいいものをあげる」
言って歩き出すサラ。
「いいもの?」
肩を並べながら問い返すと、サラは唇に指をあて、内緒よ、と微笑んだ。
そしてサラはアルバーサの部屋のほうへと向かった。
そっとドアを開いて入ったのはアルバーサの部屋の一つ手前。
部屋自体は物置のようで、小さな机が一つと棚があるだけだった。
「ここは?」
「薬部屋」
「薬部屋?」
「そう。お母様のお薬とか、怪我の薬とか薬草とかがいろいろ置いてあるの」
サラの言葉にマリスは物珍しそうに部屋を見回した。
サラは机の引出から一つの瓶を取り出す。
それを小さな匙に一欠けらだけすくいとって紙に包んだ。
二つ包みを作って、一つをマリスに渡す。
「これは?」
サラは誰もいないのにきょろきょろとあたりを見回して囁く。
「お母様の使っている睡眠薬なの。強いお薬だからほんの少しだけでもすごくよく効くの」
マリスは白い包みに視線を落とした。
「お母様がのんでいる3分の1だけだけど、よく眠れると思うわ。もし明日明後日ってずっと眠れない日が続くなら、試してみるといいわ」
でも、内緒ね。
そう念を押してサラはマリスを促して部屋を出た。
マリスは包みを袖の端に忍ばせ、そっとサラを見つめる。
「アルバーサ様はもうずっとお薬を飲まれているのでしょう?」
サラの横顔がわずかに曇る。
「そう…。毎日、すごくたくさんのお薬を飲んでいるの。胸焼けを起こしそうなぐらい」
苦笑を浮かべてみせるが、サラの眼差しは母を想って辛そうだった。
「ほんとうに代わってあげれたらいいのに」
しみじみとした呟き。
いつも元気で明るいサラの哀しげな表情に、マリスは胸をつかれる想いでそっと肩に手をのせる。
「サラがいつもそばにいてあげているから、アルバーサ様はきっと元気になられるわ」
微笑んで言うと、サラはしばらくマリスを見つめ、
「そうね。ありがとう、マリス」
マリスの気遣いが嬉しくて、満面の笑顔が浮かべて言った。
「そういえば…マリスはどこに行こうとしてたの?」
ふと思い出して訊くと、マリスもふと思い出し笑う。
「暖かいものが飲みたくなって食堂に行こうとしてたの」
その言葉に、サラはそういえば食堂近くでぶつかったのだと思い出した。
「それじゃあ私が暖かいミルクを作ってあげる」
見上げるサラに、小さく首を振る。
「ううん。サラと会って、すこし喋っていたらなんだか気がまぎれて眠れそうな気がしてきたわ」
「そう?」
「ええ」
微笑み合う二人。
「じゃあ、ゆっくりと眠れますように」
祈るように呟いて、サラは笑顔を向けた。
「おやすみなさい、マリス」
「おやすみなさい、サラ」
手を振って、それぞれ自室へと戻っていった。
マリスはベッドに入ると、袖に入れていた包みを引き出しにしまった。
わずかな眠気を感じ、目を閉じる。
しばらく時間はかかったが、やがて眠りについた。
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