『第5話』





「おやすみなさい」
「おやすみ」
 名残惜しそうに亜麻色の髪をした少女は青年を見つめる。
 青年はそっと少女の髪に触れ、そして頬へと指を滑らす。小さな笑みを口に浮かべ、そっと少女の唇へとキスを落とした。
 少女はうっとりと目を閉じ、それを受ける。
「ゆっくりおやすみ」
 青年が言った。
 少女はその声に促されるように待たせてある馬車へと乗る。
 だが青年の手を離すことが出来ない。
「会おうと思えば、またすぐ会えるさ。君はこの街にしばらく滞在するんだから」
 少女はその言葉にようやく手を離す。
 二人は別れを惜しむように見つめあい、そして青年が御者に出発するよう告げる。
 御者が馬に鞭をいれる。
 ガタン、と馬車が揺れ動き出す中、青年が甘い眼差しで言った。

「愛してるよ、マリス」
















「なんだ、例の婚約者は出かけてるの」 
 レース織のハンカチーフを振りながら、ソファーに身を沈める少女。
「うん。知り合いのところに出かけてる。でももうすぐ帰ってくるんじゃない?」
 窓の外はすでに青い夕闇に包まれている。
 長旅からようやく到着した少女に紅茶を淹れて上げながら、サラはそう言った。
 透き通る赤茶の水面にジャムを落とし、お疲れモードの少女・レアーナは綺麗な顔に意味ありげな笑みを浮かべる。
「知人ねぇ。案外密会してたりして」
 ぎょっとしてサラがレアーナを見ると、レアーナは不思議そうに視線を返す。
「だって他に好きな人がいるかも、ってこの前の手紙で書いてきたじゃない」
「そうだけど。……そっかぁ」
 レアーナに言われるまで気が付かなかった、とぼんやり呟く。
「でもいいじゃない。そのマリス? に他に好きな人なり恋人なりいるんだったら」
「そう?」
「そうでしょ。だって誰だって好きな人と一緒にいたいものでしょう? 放っておいてもそのうちマリスが婚約解消を言ってくるんじゃないの」
「そう?」
 レアーナの言葉に目を輝かせ、思わず身を乗り出すサラ。
 あまりに期待に溢れたその眼差しに、レアーナは目を細める。
「まぁその可能性もあるかもしれないってことよ。早々と決め付けるのはよくなくってよ」
 たしなめられてサラは大きなため息をつきながら、
「そう…ね」
と呟き、レアーナの横に腰を下ろした。
 しばし無言でレアーナのお土産のチョコレートを頬張る。
 マリスがこの屋敷へきてすでに1週間以上がたった。その間何度か一緒に出かけもしたし、同じ屋敷で過ごしているから仲良くはなっていた。
 だがあのマリスとの薔薇園でのこと、マリスがあきらかにヴィクトールではない誰かのことを話していたこと。
 それについて未だにマリス本人にはなにも聞けずにいた。
「マリスって純情そうなんだけどなぁ」
 ぽつり呟くサラ。
 優しく清楚。印象そのままの内面をしたマリス。
 そんな彼女が婚約者以外に恋人がいたとして、遊びとはとうてい思えなかった。
「まぁ、私はまだマリスのこと見てないからわからないけど。でもマリスに恋人がいようが、いずれ婚約が解消されようが、ヴィックがサラのこと好きじゃなきゃ意味がないんじゃないの?」
 あっさりと痛いところをつくレアーナにサラは顔をしかめる。
「そんなのわかってるよ〜」
「この前、来た時にちゃんと進展しておくこと、って言ったでしょ」  
「だってそのあとすぐにマリスのことがわかったんだよ?」
「そんなの関係ないわよ」
「えええーだって婚約者だよ?」
「愛は奪うもの、よ」
 真剣な眼差しでレアーナは言った。
 言葉を失くすサラに、次の瞬間笑い出すレアーナ。
「な〜んてね」
「……なーんてね!、じゃないっ」
「そうねぇ。実際奪わなきゃならないしね」
「そういう言い方やめてよっ」
「そういう言い方も何も、恋愛は戦いなのよ」
「……そうだけど」
 頭の回転で、言い合いでレアーナに勝てたためしなどない。
 サラはわずかに頬を膨らませて、紅茶を飲む。
(恋は…戦い……かぁ…)
 ヴィクトールに自分のことを見て欲しい。自分のことだけを見て欲しい。
 そうなるためには、恋敵と戦うほかはない。
 だがマリスにほかに好きな人がいるなら、その戦いは楽にも思えた。
 まぁレアーナの言うようにヴィクトールに自分のことを好きになってもらわなければならないのだが。
 黙り込んだサラを優しい微笑を浮かべたレアーナがそっと見守る。
「ねぇ。マリスが来てからヴィックと二人で出かけたりした?」
 サラはゆっくり首を上げ、横に振る。
「マリスと三人で出かけるか、マリスとヴィックが二人で出かけてる」
 仲良く二人で出かける姿を見るのは、どうしようもなく寂しく苦しいものだった。
 溜め息が漏れる。
「それじゃあ、二人っきりになれる時間を作らなきゃね」
「んー……」
 まったく二人でいる時間がないわけではないが、あきらかにマリスが来る前よりは減っている。
 どんなことでも話していた。
 どんなことでも一緒に笑っていた。
 改めてヴィクトールとの時間が減ったことを実感して、再度溜め息が漏れる。
 そんなサラの肩を力強くレアーナが叩いた。
 見ると、満面の、だがなにか裏ではさまざまな計画を考えていそうな笑みを浮かべている。
「まぁ。今日明日は私も泊まっていくし。1週間近くは滞在できる予定だから、私に任せておきなさい」
 にっこりと言われ、サラは微妙な表情で小さく頷く。
「絶対に、私が帰るまでに進展させてあげるから」
 頼もしいような、なにか恐ろしいような。
 サラはやや引きつった笑みを浮かべた。 
















 夕食もすみ、ヴィクトールの部屋では楽しげな笑い声が響いていた。
 ヴィクトールにサラ、レアーナ、そしてマリス。
 夕食直前にマリスは帰ってきていた。
 夕食で初対面したレアーナとマリス。そしてその流れで若者たちは会話に花を咲かせているのだ。
「まぁ、マリスはヴィクトールのことをお兄様、って呼んでいたの?」
 マリスは笑みを浮かべ、頷く。
「今でもたまにそう呼んでしまうときがあるの」
 ねえ、とマリスがヴィクトールを見る。
 ヴィクトールは優しい微笑で「兄妹のように育ったからね」と言う。
 レアーナは大きな笑みを浮かべ、ちらりサラを見た。
 その目がなにを言いたいか、だいたいの予想がつく。サラだって今日までマリスがヴィクトールのことを『お兄様』なんて呼んでいたことを知らなかったのだ。
 婚約者、というよりは、本当に家族愛で繋がっていそうな二人。
「ああ、そう言えば、レアーナ。お母君の公演はいつだったかな?」
 ヴィクトールが思い出したように言った。
「5日後よ。演目は『椿姫』なの。アルバーサ様、お好きだったわよね?」
「うん。お母様も楽しみにしてるわ。最近は体調もすこしいいようだし。多分皆で行けるんじゃないかしら」
 家族揃って出かけることなど滅多にないので、とても今度の観劇が楽しみだった。
「席は一番の席を取ってもらってるから」
 そうウインクするレアーナ。
 一人会話に入れないマリスにヴィクトールがレアーナの母親がオペラ歌手であることを教える。
「お母様がオペラを? まぁ! 素敵ね」
 マリスが感嘆すると、レアーナが笑顔を向ける。
「マリスの分も席をとっているから、楽しみにしてらしてね」
 ありがとう、と笑顔を返すマリス。
 あと5日かぁ、と呟き、ポンと手を叩くヴィクトール。
「せっかくだからオペラの前に食事でもしていきたいね」
「賛成! お母様の大好きなレストランを予約してもらうようにお父様に言っておこうかな」
「それじゃあ、私はその日のためにドレスを新調しようかしら」
「レアーナ……。今日着てるのも新しいドレスって言ってなかった?」  
「いいじゃない。女の子はおしゃれをするものよ」
 会話はどんどん弾んでいく。
 その中でマリスだけが、打って変わって無表情に宙を見ていた。
 その様子に気づいたサラが声をかける。
「マリス? どうかした?」
 マリスはビクッとして、そしてキョトンとする。
「え?」
 レアーナが笑いながら「ボーっとしてたわよ?」と言う。
 マリスはわずかに頬を染める。
「ごめんなさい。『椿姫』のストーリーを思い出してたら、ぼんやりしちゃって」
 恥ずかしそうに微笑んだマリスに、
「マリスは夢見る少女だから、たまにぼうっとしてることがあるんだよ」
 ヴィクトールが笑いながら言った。
「まぁ、そんなことないわ」
「いやいや、小さい時もよくぼうっとしてたよ」
「そうだったかしら」
「そう」
 目をしばたたかせ、マリスはクスクス笑った。
 サラは幼なじみである二人の関係を羨ましく思いながら二人の会話を聞いていた。
 二人からそっと視線をそらすと、ちょうどレアーナと目があった。
 レアーナは意味深に笑顔を作る。
「………?」
 不思議に思うサラ。
 なに?、と尋ねるように視線を向けると、レアーナは扇子で口元を隠し欠伸を噛み殺し言った。
「もうそろそろお開きにしましょうか」
 サラはなんだ眠いだけか、と思いながら相槌を打つ。
「そうね。レアーナも旅でつかれているだろうし。マリスも今日は出かけてたしね」
 また明日ゆっくりお話しましょう、とレアーナが立ち上がった。
 サラも、マリスも続いて立ち上がる。
 ヴィクトールも少女たちを送り届けようと立ち上がったが、レアーナに止められた。
「ヴィックもゆっくりお休みになって。明日から私たちのエスコートを頑張ってもらわないといけないから」
 艶やかに笑うレアーナにヴィクトールは苦笑し、少女たちに「おやすみ」と言った。
 ヴィクトールの部屋をあとにし、部屋へと戻っていく3人。
 廊下はしんとしていて足音だけが静かに響いている。
「ヴィックってほんと、お兄様って感じよね」
 唐突にレアーナがマリスに話しかけた。
 マリスは微笑を浮かべて頷く。
「ええ、とっても優しくて、いつも気を配ってくれるし」
 レアーナもまた親しげに微笑みながら、相槌をうつ。
「そうね。それにマリスとヴィックって笑顔も雰囲気もよく似てるし、本当の兄妹みたいよね。ねぇ、サラ」
 視線を投げかけられて、「そうね」と言うとマリスはさらに頬を緩める。
「そう、ありがとう」
 レアーナは相変わらず笑みを浮かべたままマリスを見つめる。
 話している間にマリスの部屋の近くまできた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 軽く会釈するマリス。
「「おやすみなさい」」
 サラとレアーナは声を揃えて言い、手を振る。
 部屋へと向かうマリスの背に、レアーナが声をかけた。
「ねぇ、マリス」
 マリスはきょとんと振り返る。
「5日後のオペラ観劇だけど、なにか予定とかは入っていなかったかしら?」
 にっこりと訊くレアーナ。
 ランプに照らされた廊下。薄暗い中、マリスの顔がわずかに強ばる。
「いいえ…。なにも予定はないわ。『椿姫』楽しみにしてます」
 明るい声で答え、それじゃあ、とマリスは部屋へと入っていった。
 それを見送ってレアーナは歩き出した。
 サラはレアーナと肩を並べ、彼女の横顔を見る。
 その横顔には先ほど見た意味深な笑み。
「なに、どうかしたの?」
「オペラ観劇…」
 レアーナは立ち止まり、サラに視線を向ける。
 「マリスには日程が悪かったようね」
「なんで?」
「なにか大切な用があったんじゃないかしら。こちらの予定を優先させなきゃいけないと思ったから、残念すぎてぼーっとしてしまったみたいだし」
「え? そうなの??」
 レアーナは小さく含み笑いをする。
「なんとなくそう思って、さっき予定のことを訊いてみたの。彼女の顔色が変わったの見た?」
「暗くてわからなかった」
「ちょっとだけだけど、変化があったわ。あれは逢引の予定でもはいっていたわね」
「そうなんだ」
 レアーナの観察力のよさに、素直に驚くサラ。
 レアーナはそんなサラにため息をつく。
「サラ……。もうちょっとライバルのことをよく見てなさいよ。まぁでもマリスに恋人がいるっていうのは確定みたいだし。ヴィックのことも本当に兄のように慕っているようだし。マリスに関してはそう気をつけなくてもいいかもしれないわね」
 ぶつぶつ呟くレアーナ。
 サラはふとレアーナを見つめた。視線を感じて、レアーナは眉を寄せる。
「なによ」
「レアーナって」
 真剣な眼差しをふっと和らげ、サラは微笑を浮かべるとレアーナに抱きついた。
「頼りになるわ! 頑張ってね!」
 レアーナは目を点にする。そして吹き出した。
「がんばるのはあなたでしょ」
 そう言って、二人は顔を見合わせて笑いあった。
 静かな廊下に楽しげな少女の声が明るく響き渡る。
 














 マリスはバルコニーに出て、目を閉じ夜風を感じていた。
 ため息がもれ、憂鬱そうに空を見上げる。
 薄雲にかかった三日月が、ほのかな光を発している。
「椿姫…」
 5日後の観劇。
 その日は『彼』と会う約束の日だった。
 一家で出かけるのに自分ひとりがいかないわけにはいかない。
 だが、『彼』との逢瀬がなくなるのはひどく辛かった。
 再度深いため息を漏れる。
 マリスは『彼』との別れ際のキスを思い出し、そっと唇に触れた。

 ずっと一緒にいられたらいいのに。