『第4話』




 扉の前にくると、明るい談笑する声が聞こえてきた。
 よく知った男性の声に混じって知らない女性の声。
 サラは大きく息を吸い込んで息を止める。
 そしてノックした。
 部屋の中からヴァスが入ってくるよう声をかける。
 サラはゆっくり扉を開けると中へ入っていった。
 まず目に入ったのは父ヴァス。
 その斜め向かいにヴィクトールが座っている。
 振り向き、いつものように優しい笑顔を向けるヴィクトール。
「サラ、待ってたよ」
 そう声をかけ立ち上がるヴィクトールと一緒に、横に座っていた一人の少女もまた腰を上げた。
 さらりと流れる亜麻色の艶やかで、性格をそのまま表すかのようなまっすぐな髪。
 ダークブルーのドレスを身にまとった少女は清楚な雰囲気を持っていた。
 控えめだが身にまとった気品と、すっと伸びた背筋は育ってきた環境のよさをうかがわせる。
 チョコレイト色の瞳は柔らかな微笑をたたえサラを映している。
「初めまして、マリス・セービスタです」
 にこりと笑みを浮かべるマリス。
(この人……)
 サラはその笑みに、思わず目を奪われる。
「……サラです。初めまして…」
 軽くお辞儀をすると、マリスもまた軽く頭を下げた。
 二人の対面を満面の笑みで見つめていたヴィクトールが声をかけた。
「サラも座ったらどうだい?」
「うん……」
 頷き、空いている椅子に腰掛ける。
 ゆったり椅子に座っていたヴァスが、
「サラは君より一つ年下になる。明るく元気だけがとりえだが、仲良くしてあげてくれ」
 と、マリスに視線を向けた。
「しかし、マリスはサラと一つしか歳がかわらないとは思えないな」  
 笑いながら言った父親の言葉の端々に引っかかるところを感じ、サラは思わずむっとする。
 ヴィクトールが吹き出し、サラは軽くにらむように目を向ける。ヴィクトールはさっと視線をそらせた。
 サラは頬を膨らませると、「どうせ、私は子供です」と小さくつぶやいた。ふいと顔を背けると、マリスと目があった。
 穏やかに優しく笑いかけるマリス。
 サラはわずかに頬を赤らめ、視線を伏せる。
「明るく元気で可愛らしいなんてとてもいいお嬢様ではないですか。私のほうこそどうぞ仲良くしてくださいね」
 優しい眼差しを向けられ、「こちらこそ……」と小声で返す。
 確かに一歳しかかわらないが、とてもマリスは落ち着いた雰囲気をしている。
 ヴィクトールとマリス。穏やかな空気を持つ二人が並んでいると、とてもお似合いに見える。
 胸が締め付けられ、そっとサラは吐息をこぼした。
「ああ、でもマリスもなかなか抜けたところがあるからね。おっとりしすぎてて」
 いたずらっぽい笑みを浮かべ、マリスを見ながらヴィクトールが言った。
 今度はマリスが微かに眉をよせる。
「まぁヴィックったら、ひどいわ。ヴィックよりはきちんとしてるわよ。だって昔……」
 マリスが反抗するように、思い出の一コマを喋りだす。
 変なことを言うのはやめてくれと焦るヴィクトール。
 可笑しそうに笑うヴァス。
 サラだけを取残して、会話は楽しく盛り上がっていく。
 なにも聞きたくない。
 自分の知らないヴィクトールの話など、聞きたくなかった。
 それでも笑顔を作り、聞いてるふりをする。  
 早く部屋に戻りたかった。

















「可愛らしい方ね」
 陽もすでに落ちかけた夕方。
 庭園を散策していたマリスが、隣を歩くヴィクトールを見上げた。
「サラ?」
「そう。とても明るくって楽しそうな子」
 微笑を浮かべ言うマリスに、ヴィクトールは頬を緩めながら頷く。
「ああ、すごくいい子だよ」
「仲良くなれるかしら」
「すぐなれるよ」
 ヴィクトールは安心させるようにそっとマリスの肩を抱く。
 マリスは「そうね」と微笑む。
 比較的大人しい性格のマリスだが、元気溢れるサラならばすぐに打ち解けることができるだろう、とヴィクトールは思っていた。
 しばらく歩いていくと前方に薔薇園が見えてきた。
「まぁ! すごく綺麗」
 目を輝かせ、アーチ状になった薔薇の門をくぐるマリス。
「君の部屋に薔薇が活けてあっただろう? あれもここの薔薇で、サラが摘んでくれたんだよ」
 マリスは薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、微笑む。
「そうなの。あとでお礼を言わなきゃ」
 それにしても本当に綺麗、と呟きマリスは薔薇園を進む。
 やがてふとマリスがなにかに気づいた様子で小走りに駆け出した。
 そして薔薇園の一角で腰を屈める。
 ヴィクトールは笑みを消して近づき、そしてマリスの眺めている薔薇の蕾を目を細めて見る。
 ほんの数本だけついた黄色の蕾。
「なぜここだけ黄色なのかしら」
 マリスは不思議そうに言いながら蕾にそっと触れた。
 ヴィクトールはなにも答えず、視線を逸らす。
 薔薇を見ているマリスはそんなヴィクトールに気づくことなく、楽しそうな笑みを浮かべている。
「私、黄色の薔薇って大好きなの」
「……白薔薇が好きじゃなかった?」
「もちろん白も赤も好きよ。ただ黄薔薇は花言葉が素敵でしょう?」
 小さな沈黙。
 ヴィクトールの不思議そうな声が訊く。
「黄色の薔薇は…嫉妬…とか美、とかじゃなかったっかな…」 
 マリスは笑いながらヴィクトールを見上げた。
「花が大好きなヴィックでも知らないのね」
「………」
「黄色はね広く知られてるのは『嫉妬』とかだけれど、もう一つ、すごく素敵な花言葉があるのよ」
 マリスは邪気の無い笑みを浮かべる。
 そしてうっとりと夢見るように言った。


「恋の告白」
 
 
「……………」
 少しの間をおき、ヴィクトールがマリスを見、そう、と小さく微笑んだ。
「黄色い薔薇の花束を贈られたら、きっと素敵でしょうね」
 一瞬、遠くを見るように視線を彷徨わせ、マリスは呟いた。
 静かな風が流れる。
 ほんの数秒、二人はそれぞれの存在を忘れる。
 ヴィクトールはじっと黄色の薔薇を見つめていた。 


『恋の告白』


 ヴィクトールはわずかに自嘲するように頬を歪める。そしてため息をつくと、いつもの優しげな笑みを浮かべてマリスを見た。
「そろそろ戻ろうか」
 そっとマリスの手をとって、促す。
 母屋へと足を向けながら、黄色の薔薇の蕾をちらりと見た。 


 花が綺麗に咲くように。
 
 彼女のための薔薇が――――。





















 「おはようございます」
 優しい声はまだ知り合ったばかりの馴染みの無いもの。
 一瞬誰だろう、と思いつつ振り返った目に朝日を背にしたマリスが映った。
 亜麻色の髪を綺麗に結い上げて、昨日とは打って変わった明るい淡いグリーンのドレスを身にまとっている。
「おはようございます」
 薔薇の入った籠を地面に置き、サラは立ち上がって会釈した。
 マリスは籠を見て、サラに微笑みかける。
「薔薇を摘んでいらしたの?」
「はい…。毎朝の日課なんです」
 病弱な母親のために毎朝薔薇を摘んでいるのだ。
 朝露のまだのこるような色鮮やかな薔薇が母親の気分を少しでもよくしてくれるよう、願って。
「そういえば、きのう私の部屋にいけてあった薔薇もサラさんが摘んでくれたのよね」
 柔らかな笑顔は陽の光のように明るく輝いて見える。
(ああ……やっぱりこの人の笑顔って…ヴィックの笑顔とよく似てる。とても優しい笑顔……)
 サラはそっと息をつき、小さく微笑んだ。
「ええ。薔薇を摘むのは私の仕事なんです。あと、私のことはサラって呼んでいいですよ」
 マリスは小首を傾げ、そして嬉しそうに頬を緩めた。
「じゃあ、私のこともマリスって呼んでくださいね」
「ええ、マリス」
 にっこり笑顔をかわす二人。
 ヴィクトールの婚約者である彼女への複雑な気持ちはある。
 だがそう単純に冷たく出来るわけでもなく、それに優しいその人柄に好感が持てた。
「きのうこの薔薇園を見たときも思ったんだけど、本当に素晴らしい薔薇ね」
「この薔薇園は、私が生まれる前、私の父が母のために作ったんです。母は薔薇が好きだったから」
 サラは屈みこみ、再び薔薇を摘みながら言った。
「そうなの、とても素敵ね」
 微笑を浮かべながら、マリスは薔薇を見つめる。
「自分のためだけにこの薔薇園が造られた、なんて、お母様はさぞ嬉しかったでしょうね」
「ええ。この薔薇園が出来上がって、ここでプロポーズしたそうですし」
 サラの生まれるまえ、両親がこの場所で愛を誓い合った。サラにとってもそれはとても素敵で幸せなこと。
 マリスもまたうっとりと目を輝かせている。
「好きな人から大好きな薔薇に囲まれて愛を告白されるなんて、とてもロマンチック……」
 思わずため息をもらしながら、マリスはわずかに頬をそめて呟いた。
 落ち着いて見えるマリスのその表情がとても可愛らしく見え、サラは頬を緩める。
 誰だって恋には憧れを持つものだ。
「……私も……そんな素敵なことをされてみたい」
 サラは微かに表情を曇らせる。
 ヴィクトールとマリスがこの場所で愛を誓うなど、想像しただけで苦しくてたまらなくなる。
 サラは内心ため息をつき、だが明るさを心がけて言う。
「……優しいからしてくれるんじゃないですか?」
 自分のために黄色い薔薇を育ててくれたヴィクトール。
 彼なら婚約者のためにならそれ以上のことだってしてあげるだろう。
 考えると心が憂鬱に沈んでいく。
 対照的にマリスは明るい笑い声を上げる。
「そうね優しいから頼めばしてくれるかも。だけど意外とロマンチックさにかけるところがあるから」
 零れるような笑顔。
「そうです?」
「ええ。現実的な人だから」
 現実的?、と違和感を覚える。
「でも抜けてるっていうか、天然だと思いません?」
「天然? 私のほうが彼に天然って言われることが多いかも。彼は私よりはるかに大人だし」
「………確かにヴィックは年上だけど」
 サラは薔薇を摘む手を止めて、マリスを見た。不意に浮かび上がった疑問に不躾なほど、見つめる。
「そう年…上……」
 言いかけてマリスの笑みがすっと消えた。
 マリスは逃げるようにサラから視線を逸らせ、顔を強ばらせる。
 重い沈黙が流れる。
『誰のことを話していたの?』
 声の無い、だがそうサラは視線で問いかける。
 食い違っていた会話。
 恋をする目で呟いていたこの女性はいったい誰からの薔薇を、愛の誓いを夢見たのか。
 突き刺すようなサラの眼差しの中で、マリスは目を伏せ、そして蒼白な顔で小さな吐息を漏らす。
 そして無理やり笑顔を作ると、サラのほうを見ずに上擦った声を出す。
「……そういえば…ヴィクトールはこの薔薇園を初めて見たとき……すごく感動したでしょうね」
「…………」
 しばらくの沈黙の後、サラもわずかな笑みを浮かべた。
「そりゃもうすっごく」
 初めての出会いの日を思い出しながら、重い空気を取り払うようにサラは明るく笑う。
「ヴィックが小さい頃、蜜蜂になりたがってたって、マリスは知ってました?」
 なにも聞かないサラにマリスは少しづつ緊張を緩める。
「ええ…。私がまだ3つぐらいの時、毎日のように言ってたことがあるの」
「そうだったんだ。ほんとヴィックって面白い」
 声を立てて笑うサラ。
 マリスもようやく自然に微笑んだ。
「そうね、ヴィックって天然よね」
「ええ」
 話の食い違いなど無かったのだ、そう言うように、二人はヴィクトールのことについて話し出した。 
 薔薇の上を蜜蜂が飛んでいった。 











 マリスと別れ、母屋に戻ると侍女がサラに声をかけた。
 一通の手紙がその手には握られている。
「お嬢様、レアーナ様からお手紙が来ておりますよ」
「レアーナから!?」
 飛びつくように、侍女から手紙を受け取る。
 喜ぶサラを微笑ましそうに見つめる侍女にお礼をいい、サラは自分の部屋へと走りかえった。
 ヴィクトールに婚約者がいる、ということを伝えたその返事。
 レアーナは一体どんなアドバイスをくれるのだろうか。
 急いで封を開けて、文面に目を走らせる。
 ワクワクしながら見たその手紙の中身はあっけに取られるほどの短いものだった。
 真っ白な便箋の真ん中に大きく一言。


『前進あるのみ』


 そしてあとは10日後にはまた来訪するということと、署名だけ。
 サラは目を点にして、しばらくの間手紙を見つめた。
「………ふっ……」
 小さな笑い声が漏れ、次の瞬間、サラははじけるように笑い出した。
「もう〜っ!! レアーナったら!」
 笑いながらソファーに腰を下ろし、しみじみとレアーナの一言を眺める。
「前進あるのみ、よね」
 気合を入れるように呟く。
 その声は楽しさと、そして期待に溢れていた。
 ヴィクトールの婚約者マリス。
 彼女にはもしかしたら他に好きな人がいるのかもしれない。
 そうだとしたら……。
 サラは薔薇園でのマリスのことを思い出し、手紙をぎゅっと握り締める。
「頑張らなくっちゃ」
 励ますように呟く。
 と、かぶさるように響いたノックの音。
「は、はい」
 慌てて手紙をテーブルに伏せると、ドアからヴィクトールが顔を覗かせた。
「おはよう」
「おはよう」
 にっこり、にっこり、と笑みを交わす。
「なぁに、ヴィック。こんな朝から。食堂までエスコートしてくれに来たの?」
 冗談っぽく言うと、ヴィクトールは声を立てた笑う。
「まぁ、エスコートしてあげてもいいけど。…いや、昼ぐらいからマリスと買い物に行くことになったんだけど、サラも一緒に行かないかな、と思って」
「私も行って、いいの?」
 そう訊くサラに、
「なんで? だめなの?」
 と、聞き返すヴィクトール。
「婚約者と二人っきりのほうがいいんじゃないの?」
 小さな強がりと、小さな弱気の入り混じった言葉。
 ヴィクトールはきょとんとして微笑む。
「そんなの気を使わなくっていいよ。マリスだってサラと仲良くしたいだろうし。それにサラがいたほうが楽しいし」
 さらりと言われた言葉に、サラは目を瞬かせる。
「私がいたほうがいい?」
 思わず素直に聞き返すと、ヴィクトールは目を細め、優しく微笑む。
「もちろんだよ。だって…」
 胸が高鳴るサラ。
「だって、マリスと僕って和やか系だろう? サラみたいにちょっと元気すぎるくらいの子がいないと平和すぎてね」
 満面の笑顔で言ったヴィクトールに、笑みを浮かべていたサラの顔が凍りつく。
「……なーによ、それ〜??」 
 むっと頬を膨らませる。
 ヴィクトールは可笑しそうに吹き出す。
 もう失礼なんだから、とそっぽを向くサラに優しい声で謝るヴィクトール。
 優しく微笑むヴィクトール。
 その笑顔を見るだけで、幸せになれるのだ。
 むっとしたって、そんなのは全部フリ。 
 どんな会話であろうと、ヴィクトールと一緒なら全部幸せなのだから。



 ねえ、ヴィクトールの中で、私は何番目ぐらいに大切な存在?