『第6話』





 朝の日課の薔薇摘みを終え、母屋に戻るとなにやら忙しそうにメイドたちが動き回っている。
 食堂のほうからは香ばしいお菓子の匂い。
 不思議に思って食堂を覗き込むと、数種のお菓子とサンドイッチがバスケットに詰め込まれている。
「どうしたの?」
 近くにいたメイドのシアに声をかけると「おはようございます」と笑顔を向ける。
「レアーナ様が今朝早く、お昼前からでかけるのでランチとお菓子の用意をしてくれ、と仰られまして」
「レアーナが?」 
 頷くシア。
 出かけるってどこに?、と首を傾げる。
 シアにお礼を言ってサラはレアーナの泊まっている部屋へと向かった。 
 ノックを数回。
 だが何の反応もない。
「レアーナ? いないのー?」
 少し大きめの声で呼びかけると「開いてるわよ」と叫ぶ声。
 中に入るとリビングにレアーナの姿はなかった。
 奥の寝室のドアが開いていて、レアーナの後姿が映る。
「おはよう」
 言いながらそばに歩み寄ると、レアーナはベッドの上に並べられた数枚のドレスを見つめている。
「何してるの?」
「着ていくのを選んでいるの」
 顎に手をあて、真剣な眼差しでドレスを見つめているレアーナ。
「右端の薄いブルーのドレスと、レース多めのピンクのドレスどちらのほうがいいと思う?」
「んーどっちも似合うと思うけど」
「そうね」
「…………………ブルーのほうがいいんじゃない?」
「そうねぇ、今日は素晴らしい青空だし、空の色に合わせてブルーにしようかしら」
 言って、にっこり「決めた」と他のドレスを片付ける。
 サラはドレスに合わせて帽子を選んでいるレアーナに話しかける。
「ねぇ、出かけるの?」
「そうよ」
「なんだー。せっかくゆっくり遊べるって思ってたのに」
 サラはため息をついた。
 するとレアーナがきょとんとして目を向ける。
「なに言ってるの、サラも行くのよ」
 あっさりそう告げるレアーナにサラもきょとんと視線を返す。
「どこに」
「ピクニック」
 微笑むレアーナ。
 眉を寄せるサラ。
「それ、いつ決まったの」
「え? きのう寝る前に思いついたの」
「……それで自分だけ用意してるわけ?」
「そう」
「………」
 憮然とした表情でレアーナを見つめる。
 レアーナは「ああ」と思い出したように笑う。
「そういえばサラには言ってなかったわね。早く用意しなさいね、朝食食べたあと出かけるから」
 言って手を振るレアーナ。
 サラは、「もうっ。なんで早く言わないのよー」と言いながら部屋をあとにしようとする。
 慌てているサラの後姿にレアーナが呼びかける。
「あとヴィックとマリスも誘っておいてね。頼んだわよ」
 自分で誘え〜!、と振り向くも、レアーナはすでに自分の準備にだけ専念している。
(もうっ! マイペースなんだからぁ)
 ぼやきながら、急いでヴィクトールの部屋へと向かう。
 急に慌しくなったが、それでもいつのまにか足取りは軽くなり、楽しげな笑みが浮かんでいた。















「ヴィックー、早く敷いてちょうだい」
 真っ白な日傘をさし、木陰に佇んでレアーナが言った。
 ヴィクトールは苦笑を浮かべて荷物からベージュ地に薔薇の刺繍のほどこされた敷物を取り出す。
 手伝おうとしたサラを笑顔で制して、ヴィクトールは広い敷物を風にのせて地面に広げた。
「さぁさ、どうぞお嬢様方」
 うやうやしく頭をさげるヴィクトール。
 少女たちはお礼をいって、スカートを広げ座る。
 お菓子やお茶をだしたりと小まめに動くヴィクトールの姿を見て、サラはレアーナのを肘でつつく。
「もうっ、ヴィックをこき使わないでよね」
「レディの付き添いなんだから、動いて当然でしょう」
「もうっ」
 ヒソヒソと言い合う二人。
 ヴィクトールが笑顔を浮かべ、二人にクッキーを差し出す。
「「ありがとう」」
 ひと時の間、大人しくなる二人。
 クッキーを頬張っている間にヴィクトールは手早くお菓子やランチを並べていく。
「ほんっと、ヴィクトールってマメねぇ」
 ぼそっとレアーナが呟く。
 ムッとするサラの横でマリスが可笑しそうに声を立てて笑う。
「昔からヴィックはとても気が利いて優しい紳士だったわ」
「ああ、想像できるわ」
 レアーナがしみじみと頷く。
 サラもぼんやり想像してみて、微笑む。
「お嬢様方? そんな話よりももっと楽しい話でもしたらいかがですか?」
 苦笑を浮かべヴィクトールが話しに入ってきた。
「そんなことありませんわ、楽しいですわよ」
 レアーナがにっこり言う。
 ヴィクトールが困ったように笑う。
「マリスはどんな子供だったの?」
 ヴィクトールの子供時代にも興味はあるが、このままだとレアーナにからかわれまくってかわいそうに思え、サラは話を逸らした。
 ヴィクトールは切り分けたアップルパイを少女たちに渡しながら、懐かしむような眼差しをマリスに向ける。
「マリスも、今とほとんど変わらないね。子供の頃から大人しくて素直で」
 そうかしら?、と微笑むマリスと笑顔のヴィクトール。
 二人の間に流れる穏やかな空気。
 サラの唇から思わずため息が漏れる。
 知らずそれは大きなため息でみんなの視線を集めた。
「どうかした?」
 ヴィクトールが優しい目でサラを覗き込む。
 サラはアップルパイの刺さったフォークを口に入れたまま、なんでもない、と大きく首を振った。
 その横でレアーナが内心ため息をつきながらにこやかな微笑を浮かべて、
「ほらサラは一人っ子だから、兄妹のように仲の良いヴィックたちの子供時代が羨ましいのよね」
とサラを見た。
 それは事実当てはまるので、アップルパイを飲み込みながら頷く。
 一瞬、切なげな眼差しでヴィクトールがサラを見つめた。 だが誰もそれに気づくことはなく、すぐにいつもの柔和な笑みが浮かぶ。
「じゃあ、今は毎日楽しいだろう? 兄も姉も出来て」
 その言葉にきょとんとするサラにヴィクトールは自分を、そしてレアーナとマリスを指差す。
 レアーナは声を立てて笑う。
「そうねぇ。よかったじゃない、サラ」
 そしてマリスもまた頬を緩めてサラを優しく見つめる。
 暖かで穏やかな空気にサラは顔を綻ばせた。
 だがじょじょにその表情が不思議そうになる。
「でもーヴィックやマリスは年上だからお兄さんでもお姉さんでもいいけど、レアーナは同い年だから妹とかでもいいんじゃない?」
 と、明らかに不満そうにレアーナが眉を寄せる。
「私がサラの妹!? それはないわ。確かに誕生日は2ヶ月ぐらい私のほうが遅かったけど、どう考えてみても私のほうが大人っぽいし、知的だし、レディだし」
「……そこまで言う?? 私だってレディだし、大人っぽいわよー」
「え? 誰がですって?」
 そう聞こえないフリをして顔を背けるレアーナ。
「あのねー」
 レアーナのほうに身を乗り出して反抗しようと口を開くと、兄姉が吹き出す。
 ヴィクトールは楽しそうにサラとレアーナを見つめる。
「本当に二人は仲いいよね。僕とマリス以上に姉妹のようだよ」
 からかうような口調。
 とっさにサラとレアーナは声を揃えて、
「「私が姉よ!」」
言って、互いに顔を見合わせる。
 さらに笑い声が響き渡る。
 マリスは目の端に涙を滲ませて、ヴィクトールに視線を向ける。
「ほんとうに家族みたいね」
 柔らかな、心から溢れるような笑顔。
 ヴィクトールはそっと笑顔で頷く。
 しばしじゃれあっていた姉妹はマリスによって配られたサンドイッチを食べることによって休戦を迎えた。
 風を感じながら、静かに食事をする4人。
「ああ〜外で食べるのって、なんかすごく美味しく感じるのね」
 自然に頬が緩んでしかたないサラは弾む声で言う。
「そうね。空気も綺麗で美味しいし」
 レアーナは空を仰いで呟くと、突然手早く空になったランチボックスをまとめた。
 そして日傘を広げて立ち上がる。
「ねぇマリス、散歩してきましょう」
 マリスが頷きかけて、サラを見る。
 サラもレアーナを見上げる。
 レアーナは微笑を浮かべると、
「マリスお姉さまとゆっくりお話したいと思っていたの。だから」
 視線をサラに向ける。
「元気一杯の妹はここでお兄様とお留守番か、散歩でもしててね」
 その眼差しに含まれた意味ありげな光と言葉。
 二人きりにしてあげるから頑張るのよ、とその目が言っている。
 サラは目をしばたたかせる。
 そして気合をいれるように微笑を浮かべ、軽く手を振った。
「は〜い、お姉さまいってらっしゃい」
 それじゃあと戸惑い気味にレアーナと散歩へいくマリス。
 談笑して離れていく二人を見送ってサラはそっと視線を向ける。
 そこにいるのは微笑んだヴィクトール。
 爽やかな風がサラの髪を揺らす。
 いつも見ているその微笑が、いつもよりもさらに優しく見えるのは太陽の光のせいだろうか。
「じゃあ僕たちも散歩でもいく?」
 ヴィクトールが立ち上がってサラに手を差し出す。
 これ以上ないぐらいに頬を緩ませ、サラはその手を取った。
















「やー! いったいー!!」
 半べそ状態で地面に座り込み、涙目でサラは叫んだ。
 木漏れ日を背にして、ヴィクトールが心配げに、だが笑いを耐えながらサラを覗き込む。
「大丈夫? 怪我しなかった?」
 ヴィクトールと二人で散歩している途中、サラは木々の中に小さな花を見つけた。
 久しぶりにゆっくり二人だけの時間だったので、はしゃいでいたサラは花のほうへと走っているさいに、小石に躓いて転んでしまったのだ。
 元気のよい転びっぷりに、ヴィクトールは瞬間、吹き出してしまった。
「大丈夫……」
 すりむいた手のひらを見つめながら、ため息混じりに呟く。
 ヴィクトールはハンカチを取り出すと、さっとサラの手に巻く。
「気をつけないとダメだよ」
 優しい言葉。
 だがサラは上目遣いにヴィクトールを見上げて、頬を膨らませる。
「ねぇ、私がさっき転んだ時、笑ったでしょ」
 口を尖らせて言うと、ヴィクトールは視線を泳がせる。
 そして苦笑しながら謝った。
「ごめんごめん。ただ見事な転びっぷりだったから…。さすが元気が取り得のサラだな〜って」
「なにーそれっ。褒めてるのかけなしてるのかわかんないわよー」
「褒めてるんだよ」 
 くすくす笑いながらヴィクトールは手を貸してサラを起き上らせる。
 サラはスカートについた泥を左手ではたいた。
 右手はヴィクトールが握ったまま。
 いつまでもその手が離れないから、頬を膨らませたままだったサラもきょとんとしてヴィクトールを見た。
 ヴィクトールは目を細め、優しい微笑みを浮かべる。
「元気のありすぎるお嬢様を従者としては一人で歩かせるわけにはいかないからね」
 からかうような口調。
 心に沁みるような笑顔。
 顔が熱くなるのを感じて、サラは顔を背けて平静を装いながら口を開く。
「そんな小さな子供じゃあるまいし」
 そう言いながらも、内心は飛び上がりそうなほど嬉しかった。
 手のひらから激しい動悸が伝わってしまわないかと不安になってしまう。
 そうして二人は手をつないだまま、散歩を再開した。
 咲きほこる花々に足を止めては、ヴィクトールに花言葉やその名を尋ねる。
 ヴィクトールは丁寧に優しくサラの質問に答える。
 穏やかな時間。
 笑みは絶えず、いつまでもこの時間が続くような気さえしてくる。
 しばらく歩いて、二人は休憩しようと木陰へと入った。
 眩しい陽射しを手をかざして見上げる。
 透き通るような青空を見つめ、ほっと息を吐く。
「いいお天気ね」
「そうだね」
 他愛のない言葉。
 だけどそれだけでも心が癒されるのはなぜだろうか。
 少しの間、静かな時が流れる。
 苦痛ではない沈黙。
 そして、ぽつりヴィクトールが静かに口を開いた。
「サラは―――――寂しかった?」
「……なにが?」
 ヴィクトールを見ると、サラのほうは見ておらず、正面の草花を眺めている。
「……兄弟がいなくて。子供の頃は寂しかったかい?」
 ああ、と呟いてサラはわずかに微笑む。
「確かにたまにお友達のお姉さんだったり弟だったりと仲良くしてるのを見れば、羨ましいな、って思ったりしたこともあったわ。でも私にはお母様もお父様もいるし、大切にされてたし、寂しくはなかったわよ」
 そこでようやくヴィクトールがサラを見た。
「それに、レアーナとも知り合ったし、ヴィックとも出逢えたし。とっても幸せよ」
 笑顔でそう言うと、ヴィクトールも顔をほころばせた。
 暖かな眼差しでサラを見つめる。
「僕はサラの兄のような存在になれればなって思ってたんだけど、役にはたってるってことかな?」
 兄のような、サラはそんなことを考えていたのか、と内心ため息をつく。
 それは自分がヴィクトールにとって恋愛対象と見られてない、ということなのだろう。
「ううーんお兄様??」
 サラは思わず苦笑いを浮かべる。
 自分の気持ちをかけらでもわかってほしい。
「私…ヴィックのことを兄のようだとか、そういう存在でいてほしいとか、思ったことないわ」
 平静を装うとして、強い口調になる。
 瞬間、ヴィクトールの目から笑みが消えた。
 かわりに宿るのは切なげな光。
 じっとサラを見つめるヴィクトール。
 これまで見たことのない、その眼差しと真剣な表情に、サラは困惑する。
(……私、傷つけちゃったのかな…)
 ヴィクトールが自分のことを思ってそういう発言を、考えを抱いていたのだったら、それを安易に拒否するようなことを言わなければよかった、後悔が胸を締め付ける。
 後ろめたくて、でもヴィクトールの目から視線をはずせない。
 切なげなその眼差しはどこか熱を孕んでサラを絡めとる。
「サラは……」
 吐息とともに漏れる言葉。
 だがその続きは紡がれることなく、風の中に埋もれる。
 息苦しい空気。
 今までなかった空気に、サラは必死で笑顔を作って壊す。
「やーね、ヴィック落ち込んでるの?」
 からかうような口調を意識する。
 明るくしようとして、わずかに上擦る声。
「だってヴィックって優しいけど、頼りがいもあるけど、なんだか弟ってかんじなんだもん。お兄さんとは呼べないわ」
 精一杯の笑顔を向ける。
 その言葉に、夢から覚めたかのように、ヴィクトールの目に笑みが浮かんだ。
「なんだ…弟なんだ」
 可笑しそうに笑うヴィクトール。
「そうよ、姉よりちょっと出来のいい弟、って感じかな」
「ちょっとだけ?」
 屈託のない優しい笑顔はいつもどおり。
 サラはホッとして、ようやく自然に頬を緩めた。
「そ、ちょっとだけね!」 
 ヴィクトールは大きな声で笑う。
 そして微笑を浮かべサラを見つめた。
「ほんとに……サラはいい子だね」
「え?」
「とても優しい子だな、って思って」
 顔が赤くなるのを「もう、お世辞ばっかり言って!」と笑ってごまかす。
「お世辞じゃないよ。マリスもとても優しくて明るいいい子だって言ってたよ」
 二人だけの空間に、恋敵の名が出てきて、サラはわずかに笑みを崩す。
「そう?」
「ああ。だいぶ癒されてると思うよ。サラはシーラに似てるところもあるし」
 聞き覚えのない名前。
「シーラ?」
 ヴィクトールは短く、
「マリスのお姉さんだよ」
と告げる。
「マリスにお姉さんがいるの?」
 ヴィクトールはしばらく逡巡するように視線を揺らし、頷いた。
「マリスには2つ上のお姉さんがいたんだ。シーラっていう」
 サラには話しておいてもいいかな、とヴィクトールは切り出した。
「僕と同い年で、僕とシーラでマリスのお守りをしてたんだ」
 姉がいた、過去形の言葉に、サラは顔を曇らせる。
「マリスのお姉さんって……」
「……うん。マリスが3歳のとき、僕達が5歳のとき、死んだんだ」
「そんな幼くして?」
「ああ…。シーラはサラみたいにとても元気で明るくってね。とってもお転婆で好奇心旺盛な女の子だったよ。両親に注意されても男の子のなかに混じって遊ぶことも多かったし」
 遠くを見る眼差しは、遠い過去を見つめるもの。
「マリスはそんなシーラのあとをちょこちょこついてまわってたな」
 思い出し笑みが零れる。
「そしてある日、マリスの家と僕と父とで湖の別荘へ遊びに行ったんだ」
家族ぐるみで仲の良かったことが伺える。
「湖のそばには子供だけで近づいたらだめだ、って注意されてたんだけど、僕とシーラはそんなことお構いなしに湖のほとりで遊んでた。マリスはちょこんと座って僕達のこと見てて」
 ヴィクトールの表情がじょじょに暗くなっていく。
「それで…その時…強い風が吹いて、マリスの帽子を湖に飛ばしていった」
 予想が出来てきて、胸が苦しくなる。
「シーラはそれをとろうとして湖に飛び込んで…。そして溺れた。僕は…大声で親たちを呼んだけど、シーラはそのまま沈んでいったんだ」
 呼吸が重くなる。
 サラは目が潤むのを感じながら、震える声で訊く。
「ヴィックとマリスは…死んでいくのを見ていたんでしょう…。辛かったでしょ…」
「ん…。とくにマリスがね…。自分の帽子を取ろうとしての出来事だったから…。まだ幼かったけど相当ショックは大きかっただろうね。それに」
 ため息が漏れる。
「それからかな。もともとマリスはおとなしかったんだけど、その事件のあとは親の言いつけは絶対に守る、さらにおとなしい子になったかな。……シーラも親の言いつけを守らずに湖で遊んでいたから」
 自分のせいで死んでしまった姉。娘を亡くした両親。
 両親を安心させるため、マリスは従順な少女へと育っていった。
 親の言いつけは絶対に守る、娘へ。
「………」
 サラはなにか思った。
 だがそれは言葉に出来ず、だがもやもやと心にかかる。
「だから僕は少しでもマリスが楽になれるように、寂しくないように、シーラのかわりに兄のようになれるように、と思ってたんだ」
 そう言うヴィクトールの表情はとても慈愛に満ちていて優しかった。
「マリスのこととても好きなのね」
 それはすんなりとサラの唇から漏れた。
 ヴィクトールは目を細め、柔らかな笑顔で頷く。
「ああ。僕が幸せにしてあげたいと、思っている少女だからね」
 胸に突き刺さるのは刺じゃなく、磨かれた剣だろうか。
 激しく、まるで肉体的に傷を負ったかのような痛みが、全身を駆け巡る。「そう」
 笑みを伴う、言葉。
「私も……マリスともっと仲良くなりたいって思ったわ」
 笑顔。
 なぜ自分は笑えているのだろうか、不思議に思う。
 痛みに感覚が麻痺しているのだろうか?
 ありがとう、とでも言うようなヴィクトールの笑顔を見つめ、サラは「そろそろ戻らない?」と声をかける。
「そうだね」
「私、お腹すいちゃった」
 お腹を抑えて言うサラにヴィクトールは声を立てて笑う。
「はい、お嬢様。まだまだお菓子はたくさんありますから、たくさんお食べになってくださいませ」
 優しいヴィクトール。
 いつも笑顔をくれるヴィクトール。 




 だけど、自分の入り込む隙間など、ないのだ。