『第21話』





 白い棺が、いやに鮮やかで、浮いてみえる。
 少女の母が今にも倒れそうな様子で泣いていた。それを支える父親。
 10数年前にも、娘を亡くしたのだと、参列者の一人が隣人にそう囁く。
 だから大切に大切に育てていたのに。
 可哀想に、そう参列者たちは同情の涙を流す。
 少女と仲の良かった友人たちは互いに肩を寄せ合い、声を上げて泣いていた。 


 可哀想に。
 しかも、今度は自殺かもしれないそうだよ。


 どこからともなく、そんな言葉が耳に入り込む。
 背筋がぞっとして、鳥肌が立つ。
 握り締めた拳がわずかに震えた。
 青ざめきった表情。
 そんな青年の背を、隣の男がそっと叩く。
 青年は固い表情のまま、大丈夫です、と小さく頷く。



 項垂れ、悲しみに暮れる少女の両親。
 14年前のあの時は、同じように項垂れ嘆く両親を、父親に手を繋がれて見ていたのだ。
 そう同じように。
 なにも出来なかった、今と同じように。
 

『ヴィー』
 そう、あの女の子は自分を呼んでいた。
 とにかく元気で、大人しく女の子の後を付いてまわる少女とは対照的だった。
 まだ幼かった少女の手を握り締めて、女の子と一緒に遊びまわっていた。
 すべてが輝いていた。
 だけど、女の子は死んでしまった。
 事故。
 それを言葉にするには簡単。
 だがなすすべなく、沈んでいった女の子を見ていた青年と少女にとって、あの時の記憶は簡単には口には出せないもの。
 子供だけだったから。
 女の子の両親は青年を責めることなく、ただ娘の死に絶望していた。
 そして残った少女をとてもとても可愛がった。
 そして青年も死んだ女の子のかわりに、と『兄』のように、近しい者として少女の傍にいた。


 幸せにしたい、と思っていた。





「ヴィック、大丈夫か」
 そう心配そうに言ったのは、傍らにいる男。
 あの時の父親と同じように気遣い、自分を心配してくれている眼差し。
「――――――ええ。すみません、おじさん…」
 微笑を浮かべようとするも、引きつるだけ。
 無理をするな、とヴァスが言い、ヴィクトールは頷くようにうつむく。


 幸せにしたい、思っていたのだ、本当に。


 薔薇の中で眠るように死んでいたマリスの顔が脳裏から離れることはない。
 いつも一緒にいた。
 まるで本当の家族かのように思ってもいた。
 いつも傍に、見守っていたから、だから。
 まるですべてを知っているかのように思っていたのだろうか。


 幸せにしたい、と思っていた?


 睡眠薬の多量摂取による呼吸停止。
 まさしく眠るように、眠ったまま、マリスは死地に立ったのだ。
『私のせいよ』
 そう感情なく、繰り返し呟いていたのはサラ。
 いつも元気で明るい笑顔を浮かべていたサラが目を虚ろにさせ、呟いていた言葉を思い出す。
 最近眠れない、と言っていたマリスに睡眠薬を渡したのは自分だ。
 だから、『私のせい』とサラは言っていたのだ。


 だが、違う。


 最近眠れない?
 そんなことを知りさえしなかった。
 幸せにしたいと、思っていた。
 だからどうだというのだ?
 彼女の悩みなど、本当の想いなど知りもしないで、なにを幸せに、などと思っていたのだろう。
 心は他の少女を―――見ていたというのに。
 その少女を自分の手で幸せにすることは、できないから。
 だから“決められた”、いつも傍に居る、愛情など当たり前になっていた彼女を幸せにしようと、思っていた。


 なんという、傲慢。
 なんという、思い違い。


 再度娘を亡くしたマリスの両親がその遺体に泣き縋った時、マリスの母が『何故』とヴィクトールに叫んだ時。





 なにも自分は知らなかったのだと気づいた。







『目にゴミが入っただけなのよ』
 言い訳と知りつつ、それ以上なにも問い詰めなかったのは何故だろう。
 彼女を一人の女性として見なかったのだろう。
 いつまでもその手は小さいものではない。
 そばにいたのは自分の影に隠れるような幼い少女ではない。
 彼女もまた、彼女の人生を歩いていたはずなのだ。 


 神父が聖書の一説を読み上げる。
 そして、参列者は白百合を手に、棺の元へ集う。
 白い棺の中に眠る少女。
 その眠りは永久のもの。
 化粧を施された顔はまるで生きているかのように頬がほんのり赤い。 
 だが、少女の目が開くことはもうない。
 白百合をそっと少女の傍らに置く。
「―――――マリス」
 ヴィクトールは小さく囁きかけた。
 返事がないことはわかっている。
 それでもヴィクトールは呼びかけ、マリスの頬に触れた。
 ――――冷たい。 
 もう、そこには、彼女の中にはなにも、存在しないのだ。
 不意に涙が零れる。
 泣く資格などないのに。
 手の甲で強くぬぐいながらヴィクトールは目を伏せ、体温を持たないマリスの手を握り締めた。
 何を語りかければいいのか。
 これで最後なのだと思うも、なにも言葉に出せない。
 さようなら、と唇だけを動かし、ヴィクトールは棺から離れる。
 うつむき、前を見ることが出来ずに、参列者とぶつかる。
「………すいません…」
 そう少しだけ顔を上げ、ブロンドの髪の青年に謝る。
 いいえ、と通り過ぎていく青年の手にも白百合。
 皆、手にしている白百合が、白い棺の中を埋め尽くしていく。
 そして、出棺の時が訪れた。





 白い棺に釘が打ち付けられる。
 もう会えないのだ。
 もう、その声を聞くことも、笑顔を見ることもできないのだ。
 堰を切ったように、その場は嗚咽と涙で溢れる。

 重く哀しい釘を打ち付ける音が静かに、だが大きく心に響いていった。



















 葬儀がすんだ翌日、ヴァスは屋敷へと戻って行った。
 ヴィクトールは一人残った。
 マリスの両親との会話は少ない。
 信頼されていた。
 ヴィクトールがそばにいるのだから、と長期の滞在も安心して送り出したはず。
 だから、この思いもよらない出来事が信じられない。
 言葉に出さずとも、ヴィクトールを責める空気は漂っている。
 ヴィクトールは自分の居場所の無さを感じながらも、マリスと過ごした思い出の場所を毎日歩いていった。
 葬儀から10日ほどたって、ヴィクトールはヴィリアーズ家へ戻るため、マリスの家を出た。
「おじさん…おばさん、また来ます」
 どこで間違ったのだろう。
 マリスの両親は何も言わなかった。
 ヴィクトールはぼんやりとした面持ちで駅へと向かった。
 父が死に、ヴィリアーズ家へと行くためにこの駅のプラットホームへ立ったのはいつだっただろう。
 つい昨日のような、とても昔のような気さえする。
 大切な人の亡骸を残し、また自分は旅立つのだ。
 汽車が大きな音を立ててホームへと入り込んでくる。
 ヴィクトールは重い荷物を持ち、汽車に乗った。
「ヴィック……、ヴィクトール!」
 自分を呼ぶ大きな声に驚いて振り返ると、マリスの母ミルアが走りよった。その後ろからはゆっくりとミルアの夫ディールが歩いてきている。
 わずかに目を見開き、息せき切って目の前へと来たミルアを見つめる。
「どうしたんですか、おばさん」
 ミルアは乱れた呼吸を必死で整えながら、まっすぐヴィクトールを見た。
 そしてヴィクトールの手を取る。
「絶対に――――また帰ってきなさい」
 震える優しい声に、ヴィクトールは驚いたように息を止める。
 ミルアはしっかりとヴィクトールの手を握り締め、強く言う。
「また帰ってくるのよ。もう私たちに残された子供はあなただけなのだから」
 唐突に目がかすんだ。
 ごめんなさいね、とミルアは言った。
 マリスを失くした哀しみに、まるですべての責任があなたにあるように接してしまった。
 そう、ミルアは目を潤ませる。
「ディールも私も、あなたのことを愛しているわ」
 だから絶対にまた帰ってくるのよ。
 ヴィクトールの頬にキスをし、ミルアは優しく微笑んだ。
 どうしようもなく涙が溢れてきて、ヴィクトールはうつむき、ただただ頷いた。
「行ってきます――――」
 いつかは本当の家族となるはずだったセービスタ夫妻に笑顔を向け、ヴィクトールは汽車へ乗った。
 そして2週間ぶりに屋敷へと戻った。
  
































 薔薇は何事もなかったかのように、美しく花開いている。
 遠目に薔薇園を見つめ、屋敷にはいった。
 メイドの出迎えをうけ、久しぶりの屋敷の空気を吸い込む。
「おじさんは部屋かな? 戻った挨拶をしておきたいんだけど」
「旦那様は奥様のお部屋のほうにいらっしゃいます」
 アルバーサ。
 そういえば元気になった姿をまだ見ていなかったのだ、そう考える。
「そう、ありがとう」
 荷物をあずけ、アルバーサの部屋へ行った。



 部屋に入るとベッドの側にヴァスが座っていてアルバーサは身を起こし紅茶を飲んでいた。
 ヴィクトールの姿を見て、お帰り、とヴァスが言った。
 アルバーサは一瞥して顔をそむける。 
「ただ今戻りました。今回は本当にご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる。
 ヴァスは気遣うように柔らかな眼差しを向ける。
「色々と疲れただろう。ゆっくりと休むといい」
 労わるように言うヴァスに反してアルバーサは口をつぐんだまま。
 はい、と小さく頷く。
「ただ……」
 ヴァスがアルバーサを気にするように、わずかに目をふせた。
「…休む前に…少しサラの様子を見てきてくれないか」
 翳った表情に、動悸が速くなる。
 マリスの死を最初に発見したのはサラだった。
 あれから2週間たつ。
 ヴァスは眉を寄せ、重いため息をついた。
「実は…あれからろくに食事もとらず、部屋に篭りきりなんだ」
 アルバーサの横顔がサラの身を思って険しくなる。
「……ずっと…ですか」
 胸が苦しくなり、声がかすれた。
「あなたのせいよ」
 低い声で、アルバーサが顔を背けたまま発した。
 すっとヴィクトールは顔を強ばらせる。
「アルバーサ!」
 ヴァスがとがめるように見る。
 いいんです、そうヴィクトールは首を振る。
 それは事実なのだから。
 もっと責めの言葉を言われても、なにも反することはできない。
 重い空気が流れる。
「…それじゃあ、サラの様子…見てきます」
「ああ。頼んだよ」
 そうして2週間ぶりに会うサラのもとへと向かった。 
 






















 ノックするが返事はない。
 ヴィクトールは逡巡し、扉を開けた。
「―――――サラ…」
 暗い部屋。
 締め切られたカーテン。
 サラの姿を探しながら、奥の寝室へと入る。
 微かな風が頬を撫でた。
 見るとカーテンが小さく揺らめいている。
 窓はわずかに開き、バルコニーに座り込む後姿が見えた。
 近づきながら、その歩みが止まる。
 サラの部屋のバルコニーの下は、薔薇園なのだ。
 あの場所を見ているのだろうか、そう思うとわずかに鳥肌がたった。
 それを振り切るように頭を振ってカーテンを開ける。
「サラ」
 ネグリジェにガウンを羽織っただけの少女に呼びかける。
 だが返事をすることも振り向くことも無い。
 ただ肩に広がった髪が風になびいているだけ。
 がらんとした空虚感を感じる。
「………久しぶりだね…」
 サラの横に腰を下ろす。
 そっとその横顔を見つめる。
 膝をかかえ、うつむいているから表情ははっきりと読み取れない。
 ヴィクトールもまたうつむき、唇を噛み締めた。
 重い沈黙が流れる。
 しばらくしてそれを打ち破るように、ヴィクトールは深呼吸してサラを見た。
「明日…、久しぶりに買い物にでもでかけようか」
 微笑を作り、向ける。
 だがサラはヴィクトールを見ようともしない。
「サラ…?」
 躊躇いがちにそっと手を伸ばす。
 肩に指が触れ、はっきりとサラは身を強ばらせた。
 いっそう顔を伏せる。
 ヴィクトールは笑顔を強ばらせ、宙に浮いた手を下ろした。
「……………………ご…めんなさ…い…………」
 細く震える声が胸に突き刺さる。
「……サラ…」
「お願い……」
 掠れる声が交差する。
「―――――お願い……一人に…して」
 サラ…。
 そう唇が微かに動く。
 だが声はなく、ヴィクトールはしばらくサラを見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
 バルコニーから部屋へ足を踏み入れながら、小さく声をかける。
「また…あとで来るよ…」
 返事はない。
 ヴィクトールは自分の無力さを噛み締めながら部屋をあとにする。
 そして、部屋のドアが閉まる音が響いて、少ししてからため息が漏れるように嗚咽が零れた。 


 





 ごめんなさい。





 ただただ呟く声が、何度も何度も、風の中に吸い込まれていった。