『第20話』
「――――どうしたの?」
思わずそう声をかけてしまい、はっと気づく。
夕食のさい、マリスの疲れた表情に驚いた。
目が真っ赤に腫れていた。
その場では聞くことが出来ず、部屋に戻るところを呼び止めたのだ。
小首をかしげ、マリスが小さく微笑む。
「目にゴミがはいったみたいで、涙が止まらなかったの」
笑顔はいつものように静かで優しくて、だから逆に胸が苦しくなった。
なぜ泣いているのだろう、と。
マリスはラナルフのプロポーズを受けなかったのだろうか、と。
「恥ずかしいわ。こんな兎目になっちゃってて。部屋に戻ったら少し冷やしておこうかしら」
「………そうね…」
なんと言えばいいのかわからず、ただ相槌をうつ。
「それじゃあ、おやすみなさい」
マリスはそう言って歩き出した。
サラはその後姿を見つめ、とっさに声をかける。
「マリス!」
きょとんとして振り向くマリス。
「あ…あの……なにか…あったら私…その…相談にのるから」
マリスは一瞬笑みを消した。
だがすぐに微笑み頷く。
「ええ。ありがとう、サラ」
ううん、と首を振る。
「おやすみなさい……」
気になりつつも、踵を返した。
「私ね、酷い女なの」
不意に静かに声が廊下に響いた。
驚いて振り向くが、マリスはすでに自室へと歩いていっていた。
サラはしばらく呆然と、立ち尽くしていた。
ドアがノックされ、開けると見慣れた笑顔があった。
「大丈夫?」
ヴィクトールが言った。
「え?」
「目、真っ赤だよ」
マリスは苦笑しながら、目をこする。
「さっきもサラに心配してもらったのよ。でもね、ただゴミが目に入って涙が止まらなかっただけなの」
「そう?」
「ええ」
ヴィクトールは目を細め、そっとマリスの頭を撫でた。
「なにかあったらすぐに僕に言うんだよ」
優しい優しいヴィクトール。
マリスは微笑を浮かべる。
「ええ、わかっているわ。―――――ヴィック」
「なんだい?」
ずっと傍に居た。
それが当たり前だった。
だからこの想いが家族愛なだけなのかどうか、わからない。
でもその想いもかけがえの無いもの。
「いつも傍にいてくれてありがとう」
心から出た言葉。笑顔。
ヴィクトールは一瞬きょとんとして、すぐに頬を緩める。
「いえいえ」
大好きよ、お兄様。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
笑顔のまま。
さようなら、と扉を閉めた。
手の中にある愛しい人の写真。
マリスはそれをぼんやりと見つめ続けていた。
やがて緩慢な動作で写真を持つ手に力を込める。
そして、破いた。
小さく小さく、破いた。
小さな欠片となった写真を、またじっと見つめる。
涙が流れる。
そっと、愛しそうにその欠片にふれる。
切ないため息が漏れた。
「――――――好き…」
呟く。
そして笑い声が零れる。
なんて滑稽で、馬鹿なのだろう、と笑ってしまう。
哀しい笑い声が、哀しく宙に消えていく。
ひどく、疲れを感じた。
いや、ひどく胸のあたりが寒かった。
大きな空洞があいたような、かんじ。
昨日まで、確かに手の中にあった幸せが、ぜんぶすり抜けてしまった感触。
「………っ……ふ…っ」
笑いはやがて嗚咽に変わり、唇を押さえ、泣き崩れる。
どうしようもない喪失感。
だけど。
だけど。
一番辛いのは―――――。
彼を、傷つけてしまったこと。
なぜこうなってしまったのだろう。
なぜ受け入れられなかったのだろう。
後悔。
だが彼の元へ戻ることは出来ない。
だが現実を見つめることも出来ない。
彼を失った喪失は、想像を絶する辛さだから。
ああ、眠りたい。
なにも考えないでいいぐらいに、深い眠りに。
マリスは視線を彷徨わせ、そして引き出しに止めた。
その中に、この前サラから貰った白い包み紙があったことを思い出す。
引き出しを開け、包みを取る。
『お母様の使っている睡眠薬なの。強いお薬だからほんの少しだけでもすごくよく効くの』
サラが言った言葉を思い出す。
確かアルバーサが飲んでいる量の3分の1だといっていた。
マリスはうつろな眼差しで包みを見る。
「――――――どれぐらい飲めば……………」
深く、眠れるのだろうか。
* * *
朝は否応なくやってくる。
サラは重いため息をつき、いつものように毎朝の日課である薔薇積みに薔薇園へ向かう。
真っ青な青空が、ここ数日きつくてたまらない。
何度となくため息をつきながら、のろのろと歩いていた。
ふと薔薇園の石畳に小さな茶色のビンが落ちているのに気づく。
なんだろう、と屈んで手にする。
サラは微かに眉を寄せた。
地面に白い粉が散らばっている。
怪訝に思いつつ、そのビンを見る。
表情がわずかに強ばる。
「……………なんで…これが……」
呟き、数歩行く。
そして、目を見開いた。
いつもと変わりなく薔薇たち。
柔らかく芳しい香り。
血のように赤い花びら。
だけど――――。
不自然なものがひとつだけあった。
いや、不自然だけども、とても美しく、サラは息を飲んだ。
咲き誇る深紅のベッドの中に、彼女は眠っていた。
赤いドレスを着、そこに在った。
まるで、薔薇のように。
食い入るように見つめ、そして悲鳴が聞こえた。
それは自分自身の叫びだったのに、サラは気づかなかった。
身体中が震えた。
心臓が異常なほど速い。
頭を軋ませる、強い頭痛。
狂気な耳鳴り。
身体の奥から嗚咽とともに吐き気がこみ上げてきた。
自分の身体が自分のものではないような気がする。
気を失いたいのに、意識は冴え渡り、瞳は閉じることなく薔薇の中の『物』を見つめていた。
薔薇園に行くサラの姿を眺める。
毎朝の日課の薔薇摘み。
そしてその様子を見るのも、またヴィクトールにとっては日課のようなものだった。
ヴィクトールはぼんやりとテラスからサラを見つめた。
だが、薔薇園に入ったところで、立ち尽くしているサラ。
怪訝に思うも、遠目だから表情までは見えない。
そして、悲鳴が、小さく響いた。
一瞬眉を寄せ、地面に座り込んだサラを見て、ヴィクトールは部屋を飛び出した。
「――――サラ!!!!」
薔薇園へと走り、叫ぶ。
涙に濡れ、蒼白な表情のサラがぐらりと視線を向ける。
激しい焦燥に、必死で駆け寄る。
「サラ!? どうしたんだ!?」
倒れこんだサラの肩を抱き寄せる。
激しく震えている身体。
サラは見開いたままの目を、薔薇へと向ける。
ヴィクトールも、それを追った。
目の前にある光景を認めるのに、しばしの時間がかかった。
「―――――――――マ………」
言葉は、続かなかった。
眠っているかのような、だがそこに生命を感じさせない少女が、薔薇を棺にして、眠っている。
ずっと一緒にいた少女。
妹のような、大切な少女。
『いつも傍にいてくれてありがとう』 笑顔が浮かぶ。
なぜ、何故、ナゼ?
少女が、答えることは、もうない。
『さようなら、お兄様』
風が、囁いた。
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