『第22話』





 屋敷へ戻って数日が過ぎた。
 毎日サラの様子を見に行くが、相変わらずろくに食事もとらず喋ることもしない。
 また来るよ、と何度言ったことだろうか。
 今日もまたそう言ってサラの部屋を後にした。
 ヴィクトールは重い気持ちで廊下を歩く。
 マリスの死になにもできなかった自分。
 そしてそのことで笑顔をなくしたサラにも、なにも出来ない。
 どうすればいいのか、ずっと考えるも答えはでない。
 ぼんやりした視界の中、階下の玄関におろおろとしたメイドの姿が見えた。
 メイドの前にはブロンドの髪をした20歳ぐらいの青年が立っている。
 階段を下りながら、誰の客人なのだろうと視線を向ける。
 と、足音に気づいたらしい青年が顔をあげた。
 目があう。
 青年は一瞬真剣な眼差しでヴィクトールを見つめ、小さな笑みを浮かべて会釈した。
 それに気づいたメイドが振り返り、助けを求めるようにヴィクトールを見る。
 ヴィクトールも青年に会釈しながらメイドの側に歩み寄った。
「お客様?」
「は、はい。……お嬢様にお会いしたいと…」
「サラに?」
 怪訝そうに青年へと視線を移す。
「お嬢様は体調が優れないので、ご遠慮していただきたいと申し上げたのですが…」
 小声で言って、メイドはちらりと青年を見た。
 青年は微笑を浮かべる。
「ラナルフ・ブラトリーといいます。どうしてもサラさんにお会いしたいのです」
 聞いたことのない名前。
 自分と同じ年くらいに見えるラナルフという青年とサラとの接点が見当たらず戸惑うヴィクトール。
「最近サラさんと知り合ったのですが、明日パリへ行くことになったので挨拶をと思いまして」
 ラナルフは真っ直ぐにヴィクトールを見た。
 眼差しは真摯で、だがどことなく影がある。
 なぜか逸らすことが出来ない。
「………サラは…最近知人の不幸がありまして…体調を崩しているんです」
 瞬間、物憂げな光がラナルフの瞳に宿る。
 哀しげにわずかに目を細め、小さな吐息を漏らす。
「少しでいいんです」
 引き下がりそうのないラナルフの態度に、
「わかりました。ご案内します」
と、メイドには自分が案内するとつげた。
 

 


 どこかでこの青年と会ったことがあるような気がした。
 だが思い出すことはできず、気のせいだろうかと思いつつ前を行く。
 ここ数日と同じようにサラの部屋のドアをノックし、返事を待たずに中へ入る。
 そうしていつもと同じようにバルコニーに佇んでいるサラに声をかけた。
「―――――サラ。お客様だよ」
 反応はない。
 ヴィクトールはすまなそうにラナルフに視線を流す。
 誰が来ても同じなのだ。
 そう無意識に思う。
 ラナルフは憂えた眼差しでサラの後姿を見つめ、近づいていった。
 サラの隣に立つ。
「やぁ、サラ」
 軽い口調で呼びかける声に、瞬間傍目にわかるぐらいサラの身体が震えた。
「久しぶり、元気してた? というか、あまり元気そうじゃないね」
 冗談ぽく小さな笑みをこぼす。
 サラは身体中に力をこめ、うつむいた。
「………」
 なにも言わず、ぽん、とサラの頭に手を乗せる。
「今日はお礼に来たんだ」
 そっと頭を撫でる。
「知らせてくれてありがとうって」
 優しい声が響き、そして次の瞬間サラが顔を上げた。
 目にいっぱいの涙をためラナルフを見上げる。
 大きく首をふって、ようやく聞き取れるぐらいのか細い声が漏れた。
「ごめんなさい」
 ラナルフは目を細め微笑んだ。
 優しくサラの頭をたたく。
「ばかだね、サラは」
 その声は穏やかすぎて、優しすぎる。
 次の瞬間、サラはラナルフに抱きつき、嗚咽を上げ泣きだした。
 そんなサラを優しく抱きとめるラナルフ。







 そして呆然と、ヴィクトールは立ち尽くしていた。
 自分がどれだけ話し掛けても顔を上げることはなかったのに。
 見知らぬ青年が突然現れ、サラを抱きしめている。
 心臓のあたりが急に痛む。
 言葉にできない、正体のわからない想いが駆け巡り、息苦しくなる。
 泣きじゃくるサラを受け止めているのは自分ではない。
 困惑と―――――歯痒さ。
 見たくないのに視線をそらすことができず、不躾なほどに凝視していた。




 目が合う。




 ラナルフが不意に視線を向けた。
 心の底を見透かされるような眼差し。
 思わず息を呑んで、二人の青年は対峙する。
 それはほんの数秒のこと。
 ややしてヴィクトールは顔をそむけ、軽く会釈をすると部屋を出た。
 後ろ手にドアを閉め、もたれかかって天井を意味なく見上げる。

 誰なのだろう。
 サラにとってあの青年は……どういう関係なのだろう。
 
 ぐるぐると頭の中で不安にも似た感情が渦巻く。
 知らず拳を握り締め、そして不意に眉をよせその拳を壁へと叩きつける。
 だがぶつかる寸前で止め、大きなため息をついた。
 なにをしているのだろう。
 なにを考えているのだろう。
 自分には婚約者がいたのに。
 マリスを死なせてしまったのに。 

 なにを自分は――――しているのだろう。
 ぐっと唇を噛み締め、ヴィクトールは目を閉じた。































 泣きじゃくるサラの髪をあやすように撫でる。
「ごめんなさい」
 そう何度となく呟く声に、ラナルフはため息まじりに笑う。
「サラが謝ることはなにもないだろ」
 しゃくり上げながら首を振るサラ。
「……って…だって………。私が……薬を渡さなかったら……」
 あの夜。眠れないからといって部屋をでなければ。
 マリスに会わなかったら。
 睡眠薬などを渡さなければ。
「………それは善意からだったんだろう? サラはマリスのことを思って渡した。そしてそれを使うかどうかはマリスの意志で、サラの責任でもなんでもない」
 でも、と涙に濡れた瞳で見上げる。
「睡眠薬を多量に摂取すればどうなるか。冷静に考えればわかることだろう」
 その口調は静かだ。
 だが逆に苦しさを感じる。
「――――――そしてマリスにその冷静さをなくさせたのは…俺だろう…」
 だから……、途切れた言葉にサラは涙を止める。
 小さな笑みを浮かべるラナルフの眼差しは哀しげにサラを見下ろしている。
「………でも……ラナルフは…………パリに行くことを…告げた…だけでしょう…」
 サラの涙を拭いてあげながら、ラナルフは一瞬目を伏せた。
「俺が、急ぎすぎたんだよ」
 二人になにがあったのか、知ることはない。
 だがお互いは想い会っていたはず。
 でもマリスは―――――死んでしまった。
 黙って見つめるサラの眼差しにふと笑みをこぼす。
 微笑を見れば見るほど、逆に切なさがつのる。
「とにかくサラが謝ることなんて、なにもないんだ」
「………でも」
「それに。お礼を言っていいぐらいだし」
 思い出すのは白い棺。
 その中に眠った愛しい女性。
「サラが、俺にすぐ知らせをよこしてくれたから、葬儀に参列することができた。
 最後にマリスに会うことができた」
 あの日。サラの使いの者からマリスのことを聞いたときの絶望とやるせない思いは忘れることができない。
 だがそれでも、最後にマリスを見れてよかったと、そう思った。
「ありがとう、サラ」
 サラは唇を震わせ、首を振りながら涙が流した。
 マリスの死はショックで呆然としつづけていた。
 だが、ラナルフにだけは知らさなければ、と従者に言伝を頼んだのだ。
「ありがとう」
 ラナルフの言葉に涙は溢れるばかりで、すべての想いを洗い流すようにサラは泣き続けた。























「ご飯、食べてないだろ」 
 ようやく落ち着いてきたサラにラナルフがとがめるように言った。
 サラは目をしばたたかせてうつむく。
「……あんまり食欲なくって…」
「だめだよ、ちゃんと食べないと。皆心配するよ」
 ベランダに二人並んで座っていた。
 久しぶりに気持ちが穏やかになっているのを感じる。
「ヴィクトールさんに心配かけたくないだろ」
 サラは深いため息をつく。
「―――――ヴィックの顔見れないの…。ラナルフにとっても…ヴィックにとっても一番大切な人を亡くした……。ラナルフは私のせいじゃないって言ってくれたけど…。
 でも…やっぱり……って思っちゃう…。それに…」


 薔薇の中に眠るマリスを見たヴィクトールの顔を忘れられない。
 愕然と、深い傷を負ったかのように苦しげに顔を歪めていた。
 庇うようにサラの肩を抱いていた手がずっと震えていたことを知っている。


 また泣き出しそうになっているサラに、それでも、とラナルフは微笑みかける。
「サラは元気に笑ってたほうがいいよ。辛いかもしれない。でもヴィクトールさんのためにも、ご両親のためにも、俺のためにも―――笑ってて。そして―――マリスのぶんまで」
 胸の奥が熱くなる。
 目頭も熱くなるが、必死で涙を耐え、ややして小さな笑みを浮かべた。
「うん」
 愛する者を亡くしたラナルフがどんな思いで自分を励ましているのか。
 ヴィクトールだってそうだ。
 毎日毎日自分を心配して様子を見に来てくれていた。
 罪悪感を感じるのだったら、償わなければならない。
 これ以上、心配をかけるようなことをしてはいけないのだ。
 みんな、辛いのだから。
 手で顔を覆い、ゆっくりと深く息をはく。
「ラナルフ――――。ごめんね…………ありがとう」
 悲しみはいまだ残ったまま。
 頭の中の後悔という名の靄もかかったまま。
 だけど、微笑んだ。
 ラナルフも微笑んだ。
「………そういえば…パリには…」
 予定ではもう出発していたはずだろう。
「明日発つよ」
「明日?」
「ああ。―――――いつか、パリに遊びにおいで。案内してあげるから」
「うん」
 零れるのは笑み。
「じゃあ、そろそろおいとましようかな。サラの笑顔も見れたし。あまり長居したら彼も気になってしょうがないだろうし」
 最後のほうは独り言のようで、きょとんとするサラ。
 なんでもないよ、と立ち上がる。
「あ、見送りはいいよ。今も明日も。サラは少し眠ったほうがいい」
 ラナルフはにっこりとやや意地悪そうな笑みを浮かべ、サラの目元を指差した。
「乙女にはあってはならない、おっきなクマができてるからね」
 一瞬目を点にして、吹き出す。
「わかったわ。少し寝る」
「それがいい」
 真剣な、だが軽い口調で頷く。
 どんなときでも明るく相手を気遣っているラナルフ。
 不意に別れるのが寂しく感じた。
「――――またね…」
「ああ、また」
 ラナルフが身をひるがえす。
 その後姿を見つめ、そして呼び止めた。
「ラナルフ!」
 振り返るラナルフに、しばし逡巡し、口を開く。
「――――――マリスは…あなたのことほんとに愛してたと思うよ…。こんなことになったけど、きっと…」
 きっと―――、と声が消える。
 ラナルフは、知っているよ、と頬を緩めた。
「俺もずっと愛しているよ」
 だがそれを受ける少女はいない。
 かわりにサラが目を潤ませて、その言葉を受け取った。


























 サラの部屋を出ると、階段近くの窓辺にヴィクトールが佇んでいた。
「ヴィクトールさん、どうもお邪魔しました」
 声をかけられ、慌てて姿勢を正すヴィクトール。
「あ、いえ」
 微かに笑みを浮かべるものの、その視線はサラの部屋を気にしている。
「…………サラの様子は…どうでした?」
 ラナルフはその問いには答えずに、ヴィクトールを見つめた。
「ヴィクトールさん」
「…はい…?」
「サラを支えてあげてくださいね」
 眉をよせ、怪訝な表情を向ける。
 ラナルフは微笑した。
「あなたなら、サラを守ってあげれますよ」
 それは――――どういう意味なのだろうか。
 問い返したいと思うもなぜか言葉が出てこなかった。
 強ばり、黙り込むヴィクトールにラナルフが頭を下げた。
「失礼します」
 あ、はい、と戸惑うように頷く。
 そして去っていくラナルフを見送った。
 屋敷の門を出て行く姿を窓から見、ふと気づいた。
 自分が彼に名乗っていなかったことに。
 だが彼は自分の名を呼んでいたような気がする。
 サラに聞いたのだろうか。
 ヴィクトールはしばらくその場に立ち尽くしていた。