secret 90  愛する人

世界中の音が消えてしまったような感覚。
数メートル先に佇むスーツ姿の男性は、見間違うはずなくゆーにーちゃんだ。
キャリーケースを傍らに置いて、立っている。
バタン、ドアの閉まる音がして、我に返った。
それはゆーにーちゃんが乗ってきたらしいタクシーのもので、タクシーは走り去っていった。
「ただいま、実優」
固まって動けないでいる私に、笑いかけるゆーにーちゃん。
その笑顔は半年前、最後に空港で見たものと同じ。
そしてずっと、ずっと見てきたものと同じ。
優しくって、暖かくって、私を包み込んでくれる、笑顔。
「……ゆー……に……ちゃ……んっ!!」
ゆーにーちゃん、だ。
「ゆーにーちゃんっ!!!」
私は駆け出して、勢いよくゆーにーちゃんの胸に飛び込む。
そっとその腕が当たり前のように私を抱きしめてくれる。
「ゆーにーちゃん、ゆーにーちゃん」
「うん」
馬鹿みたいに繰り返すしかできない私に、ゆーにーちゃんは優しく頭を撫でてくれる。
その暖かさが現実のものなんだって、実感させてくれる。
香水をつけてなくっても、ゆーにーちゃんの匂いを感じる。
「ゆーにー……ちゃん」
一気に目頭が熱くなって、これえきれずに涙がこぼれてしまった。
ぽんぽんと背中をあやすように軽く叩いてくれるゆーにーちゃん。
「実優……。ちょっとだけ落ち着ける?」
「……ん…っ」
ぐずぐず鼻をすすりながらゆーにーちゃんを見上げると、ゆーにーちゃんは少しだけ眉を下げて笑ってる。
「あの、あちらの方は? 知り合いなんだろう?」
「………え……?」
ゆーにーちゃんが視線を向けた先を、私も振り返って見た。
「………」
すっかり、忘れてた。
車のそばに立つ先生は―――いつのまにかメガネをかけてた。
「あ、えと……」
なんて、説明すればいいんだろう。
ついさっきまで先生のマンションにいたことを思い出して、足がすくむ。
セフレ、なんて言えるはずないし。
そんなこといったら―――軽蔑されるに決まってる……。
どうしよう。
混乱する中で、先生がゆっくり私たちのほうに歩いてきた。
そして私たちの近くで立ち止まると、爽やかな笑みを浮かべて会釈する。
「はじめまして。私、橘くんの学校で古文を教えている松原といいます」
自己紹介をはじめた先生に、私はただ立ち尽くすことしかできない。
そんな私の身体からゆーにーちゃんが離れ、会釈を返した。
「先生でしたか。はじめまして、実優がお世話になっています。私は叔父の佐枝と申します」
「いえ。今日は橘くんと他数名の生徒たちで私のところに勉強に来ていまして。それが終わり、今順番に送っているところだったんです」
「そうですか。わざわざ申し訳ありません」
にこやかに言葉を交わしているゆーにーちゃんと先生。
大人の2人のやり取りに私はなにも言うことができない。
「それじゃあ、失礼します。―――橘、宿題忘れないようにな」
ゆーにーちゃんにまた頭を下げて、先生が私を見る。
その先生は―――オーベルジュで見たような他人行儀な先生。
「………はい。あの、送ってもらって……ありがとうございました」
先生は軽く笑うと、もう一度会釈して車に乗り込んだ。
そしてあっという間に、車は去っていってしまった。
「―――」
私はただ、走り去る先生の車をぼうっとして見てた。
「……実優。入ろうか」
ゆーにーちゃんがぽんと私の頭を撫でる。
「あ、うん」
そうしてゆーにーちゃんと並んでマンションに入った。
「久しぶりだな」
エレベーターに乗り込むと、ぽつり懐かしむようにゆーにーちゃんが呟いた。
「……そう、だね」
やばい……、どうしよう。
すごく緊張する。
電話とかはしてたけど、やっぱり顔を合わせると全然違う。
その体温が伝わってくるくらい傍にいるっていうことに、心臓が苦しいくらい速く脈打ってる。
エレベーターが静かに停止して、降りて―――私たちの部屋の前で、ゆーにーちゃんがポケットから取り出した鍵で、ドアを開ける。
それは、半年前までならよく見てた光景。
「実優? どうしたんだ? 入らないの」
苦笑交じりに、玄関にキャリーケースを入れてたゆーにーちゃんが私を見つめる。
「う、うん」
慌てて、中に入って。
後ろ手にドアを閉めて。
ガチャリ―――。
ゆーにーちゃんの手が私の身体の傍を通って、鍵を閉めた。
目が、合う。
「――――」
「ただいま」
「………おかえりなさい」
声が、上擦っちゃってると思う。
だけどゆーにーちゃんは特になにも言わずに靴を脱いで部屋に上がって行った。
「………っ」
胸のあたりを、ぎゅっと握りしめる。
心臓の動きがさっきよりもいっそう速くなってる。そのうち壊れちゃうんじゃないかなってくらいに、ぎゅっと締めつけられてる感じ。
さっき、一瞬目があったときの―――ゆーにーちゃんの目が。
″あの時″の目に、似てて。
たぶん、気のせいだろうけど。
ゆーにーちゃんが―――私に――なんて。
大きく首を振って、バカみたいな考えを振りはらってリビングに向かった。




「ゆーにーちゃん、紅茶淹れるね」
「ありがとう。とりあえず着替えてくるよ」
「うん」
私はキッチンに、ゆーにーちゃんは自室に入っていった。
キッチンの引き出しから、紅茶の缶を取り出す。
ゆーにーちゃんはコーヒーも好きだけど、どちらかというと紅茶派。
ずっとゆーにーちゃんが一番だった私は、だから必死に紅茶の美味しい淹れ方をマスターしたりした。
お湯を沸騰させて、ティーポットに茶葉を入れて。
お湯を入れて、ティーコジーをかぶせて、5分計の砂時計を逆さにする。
金色の砂が落ちていく様子を気分を落ち着かせるためにじっと眺めてた。
この砂時計もティーコジーも、ポットもカップも……。
ううん、マンションにあるもの全部私とゆーにーちゃんが選んで揃えたもの。
二年前にゆーにーちゃんがどんな気持ちでこのマンションを買ったのか、知らない。
ただここへ引っ越してきたとき―――。
『ここが俺たちの新しい″家″だよ。だからいつまででもいていいんだよ』
そう、言ってくれたのはよく覚えてる。
いつまでだって……。
たった2人の家族なんだから。
だから私はあの時、ずっとゆーにーちゃんのそばにいたい、って思ったんだ。
この″家″に誰も入って来ませんように、って。
ずっとゆーにーちゃんと2人でいたい、って。
「―――五分、たったよ」
急に傍で声がして、ビクッと身体が震えてしまう。
「驚きすぎ」
おかしそうにゆーにーちゃんが笑ってる。
「ご、ごめん。あの……ソファーに座ってて? 持っていくから」
「わかった」
色違いのマグカップに紅茶を注いで、ソファーに行く。
「はい、ゆーにーちゃん」
「ありがと。……いい香り……だな」
一口飲んで、ふっと笑顔をこぼしてくれるゆーにーちゃん。
「うん、やっぱ実優の淹れてくれた紅茶が一番美味しい」
「………そうかな?」
「そうだよ」
気恥かしくって紅茶をぐいっと飲んだら、熱くてむせてしまった。
げほげほって咳き込んでると、ゆーにーちゃんがそばにきて背中をさすってくれる。
「大丈夫?」
「う、うん」
「実優は相変わらずそそっかしいな」
「……どうせバカだもん」
「そんなこと言ってないだろう?」
「いいよ。どうせゆーにーちゃんにとっては私なんてずーっと子供なんだろうし」
「………そんなことないよ」
ふわっと、髪が揺れた。
視線を向けると、ゆーにーちゃんの指が私の髪をくるくると弄んでる。
「半年見ない間に、綺麗になった」
「え?」
ゆーにーちゃんがほんの少し眉を寄せて、微笑する。
「綺麗になりすぎてて―――びっくりした」
私を見つめる瞳。
ゆーにーちゃんの目が―――″あの時″と同じ目をしてて。
思わず息を止めて、ゆーにーちゃんを見つめ返した。