secret 131  桜が咲く日  

『ちゃんと、先生と話しあうんだよ』
きのう、あのあとゆーにーちゃんは冷めたカフェオレを淹れなおしてれた。
そして少しだけ話した、先生のことを。
″結婚″するという噂があったとしても、それが真実かどうか先生に直接訊いて確かめなさい、ってゆーにーちゃんは言った。
先生に会いたい―――、そう思ってた気持ちが正直怯んでしまった。
噂はしょせん噂で。根も葉もないことがあるってことはわかってる。
でも、実際先生はお金持ちで、学校辞めて、会社を継ぐってことは―――って考えずにはいられない。
それに、あの日、先生が電話で話してた″ミサキ″って女の人の存在が迷わせる。
会いたいけど、会いに行ったら………先生は迷惑するんじゃないかって。
先生はもう私には会いたくないんじゃないかって。
だって、先生から連絡はない。
それに、それに先生には″好きな人″がいるんだし。
私が会いに行って私の気持ちを伝えたら、先生はきっと困ってしまう。
………先生に冷たくされるのが、怖い。
考え出したら、もうそれだけしか考えられなくなって、その夜はなかなか眠ることができなかった。
寝付いたのは朝方で、目が覚めたのはドアがノックされる音でだった。
「実優?」
ドア越しに響くゆーにーちゃんの声。
ぼんやり目を覚ました私は、ぼんやりしたまま返事をする。
「…………ごめん、寝てた」
「起こして悪かったね。ちょっと開けていい?」
「うん」
ドアが開いて、ゆーにーちゃんが中に入ってくることはなく入口のところでたったまま私に笑顔を向ける。
「おはよう」
「おはよー……」
ぼーっとしながら身体を起こす。
「朝食作ってるからあとで食べて」
「……うん」
ああ、最悪だ。今日からちゃんと朝ご飯作ろうって思ってたのに。
「きのうはあまり眠れなかった?」
「え?」
「目の下、クマができてるよ」
苦笑するゆーにーちゃんに、慌てて顔を押さえる。
「実優………」
「うん?」
真剣な表情になったゆーにーちゃんがじっと私を見つめた。
「案ずるより産むが易しって言葉知ってる?」
「へ……」
「いろいろと考え心配するよりも行動してみれば、意外に簡単だったりするってこと」
「………」
「不安な気持ちはわかるよ。でも、気持ちを伝えないと後悔するよ? これは叔父としての助言。実優、とりあえず先生に会いに行ってきなさい」
「………」
答えきれない私に、ゆーにーちゃんは優しく微笑む。
大丈夫だよ、って言ってくれてるような気がして。
「………うん」
少しして、ようやく頷いた。
「がんばって。それじゃ、俺は仕事行ってきます」
「……ありがとう。あ、見送るね!」
笑顔を返して、それからパジャマのまま玄関までついていった。
いってらっしゃいって手を振って、ゆーにーちゃんを見送った。
それからリビングに言って、朝食をとることにした。
あんまり寝てないけど、なんだかすっかり目が冴えてしまってる。
朝食は和食で、温かいお味噌汁を飲むと、すこしだけ不安だった心が落ち着いたような気がした。
ご飯を食べ終えて部屋着じゃない洋服に着替える。
春を意識したピンク系のワンピにオフホワイトのカーディガンに。
「………なんだろうこれ」
鏡の中の自分がすっごく乙女チックな恰好で、ちょっと笑ってしまった。
だけど―――結局リビングのソファーに落ち着いちゃう。
先生の煙草の箱を手に持って、見てもいないテレビをぼんやり眺めてた。
今日は金曜日。
だからきっと先生は仕事だろうし、いまマンションに行ってもいない可能性が高い。
電話かメールしてみればいいのかもしれないけど……。もし、無視されたら、もし『会えない』って素っ気なく返事されたらって思うとできなかった。
それに、先生はもう″先生″じゃないのかな?って、それさえもわからない。
終業式の日で先生の仕事が最後だったのか、そうでないのか。もう新しい仕事に―――社長さんになっちゃってるのか、知るはずもない。
社長なんかになってたら………、ますます私なんかが会いに行ったらいけないような気がする。
また無限ループに陥りそうで、とりあえず家を出ることにした。
家の中でずっと考えててもラチがあかないし。
『会いに行ってきなさい』
ゆーにーちゃんの言葉に背を押されるように、外に出てた。
外は曇り空。雨は降りそうにはないけど、なんだか天気が悪いと全部が悪い方向にいっちゃうような気がするのは……気のせいって思っておこう。
私はゆっくり景色をながめながら、歩いていった。
前頭痛薬を買ったドラッグストアの前を通って、あの公園についたのはマンションを出て1時間はたった頃だった。
この前―――ホワイトデーのとき来た小さな公園はこの前と違って小学生らしき男の子や女の子が楽しそうに遊んでた。
この前座ったベンチは空いてて、そこに座ろうと公園に入った。
小さな公園だったけど、ベンチのそばには桜の木があって―――。
「………あ。咲いてる」
桜が、咲いてた。
きのう行った公園はまだ蕾ばっかりだったのに、この桜の木は2割くらいだけど桜の花が咲いてる。
ベンチに座らずに、桜を見上げた。
小さな花びらが、春なんだなぁって感じさせてくれる。
満開になったら綺麗なんだろうな……。
桜の花にちょっと和やかな気分になる。
そして子供たちが遊ぶ声がとっても爽やかで―――。
なのに、ふっと漂ってきた、煙草の匂いに一瞬眉を寄せ、固まった。
公園の横の通りを歩くスーツ姿の男性。
スーツは学校で見てたものと、なんだか違う感じがする。
よくわかんないけど、とっても高そうな感じのスーツ。ネクタイだって学校でしてた地味なのじゃなくって、鮮やかな濃い目のブルーに模様が入ったネクタイで。
メガネはつけてなくって、髪も学校にいたときとは違う、かっちりとまとめてあって。
だけど―――咥え煙草で歩く姿は、見慣れた先生そのもの。
「………っ」
会えると思ってなかったから、一気に緊張しちゃって動くことができない。
声をかけなきゃって思うのに。
先生は私のことなんて気付くこともなく通り過ぎて行こうとして―――足を止めた。
ふっと気付いたように先生が向けたのは桜の木。
咲いている桜の花を見つけて、煙草の煙を吐き出して。
その視線が意味なく、ただ桜から普通の目線の位置へと下りていって。
心臓が壊れそうなくらい激しく動いてる私の視線と、合った。
だけど、あっさりとその視線は逸らされて。
止まっていた先生の足はまた歩き出そうとして。
また、目が合った。
歩き出すのを止めて、私の方を勢いよく振り返った先生と、はっきり目が合った。
先生は目を見開いて驚きをあらわに私を見つめ―――そして、その眉を寄せた。