secret 118  大切で、大切な、ひと。  

「楽しい春休みを過ごしてね」
担任の夏木先生がそう言って、このクラスで最後のホームルームを終えた。
いっきに騒がしくなる教室。
「帰りどこか寄ってく? お昼でも食べていこうよ」
七香ちゃんが提案して、私と羽純ちゃんは頷く。
隣の和くんは鞄を持って立ち上がって私たちを見た。
「じゃーな」
軽く手を上げる和くんに、七香ちゃんが「春休みみんなで遊ぶから連絡するー」って声をかける。
「ああ」
頷きながら和くんがちらって私に視線を向けて目があった。
ばいばいって手を振ると、和くんは一瞬切なそうに目を細めて手を振り返してくれた。
そして和くんが教室を出ていって、私たちも少しして教室を後にした。
また同じクラスになれればいいね、って七香ちゃんが言ってて。
そうだね、みんな一緒だといいわね、って羽純ちゃんが笑って。
ああ、今日は本当に最後なんだって思った。
新学期、私はもう学校にいないけど。
いたとしても私たちは2年生で、クラス替えがあるから、いままでどおりお昼を食べることもなくなるかもしれない。
変わっちゃうんだ。
そう考えたら寂しくて、目の奥がツンとした。
寂しさを紛らわせるように笑顔で七香ちゃんたちと喋って、教室を出て、校舎を出て、グランドを抜けて校門から出る。
だけど頭の中はぐるぐる同じ言葉がまわってる。
全部、今日で最後―――。
全部、全部……。
「実優? どうしたの?」
いつの間にか立ち止まってしまってた私に、七香ちゃんたちが不思議そうに振り
返った。
「……ううん…、なんでも……ないよ」
笑って、また歩き出して、また立ち止まってしまう。
だけどまた最後っと言葉が回る。
七香ちゃんたちとは春休みだって遊ぶし、例え留学したって連絡はとり続ける。
でも―――先生とは。
「………」
「……実優?」
「実優ちゃん?」
七香ちゃんと羽純ちゃんがそばにきて心配した様子で私の顔を覗き込む。
「……私……」
「なに? どうしたの?」
「……ごめん…。私、忘れ物したみたい。先に帰ってて? ごめんね」
「え? じゃあ待……」
「帰ってていいから!」
待ってるよ、って言おうとした七香ちゃんを遮って、私は七香ちゃんたちと返事を待たずに来た道を引き返した。
走って、校舎に入って、走って。
私の足は勝手に古文の準備室に向かってた。
階段を上って準備室のある廊下に出て―――立ち止まる。
あと数メートル歩けば着くのに、足が動かなくなった。
だって……行ってどうする?
最後かも知れないけど、でも、先生に会ったって私はなにも言うことがない。
なにも………。
「―――おい。廊下の真ん中に突っ立ってたら邪魔になるぞ」
立ち尽くす私の後ろから聞こえてきた声。
全身が大きく震えて、心臓が止まりそうになった。
「まだ帰らないのか?」
ごく自然に、なんでもないように声をかけてくる―――先生。
先生は私の横を通り過ぎて、準備室のほうへと歩いていく。
その後ろ姿に声をかけることができなくって、ただ見つめることしかできない。
先生は準備室の鍵を開けながら私を見た。
「ずっとそこにいる気か? 来るなら来い」
そう言って準備室に入って行く先生。
私は―――迷いながら、重い足を引きずるようにして準備室まで辿りついた。
だけど、入口の所から先へとどうしても踏み出せない。
先生は机に寄りかかると、私の方を向いて煙草を取り出した。
躊躇いなく火をつける先生。
「………校舎内禁煙ですけど………」
「もう辞めるし、いーだろ」
のんきそうに先生は煙草をくわえる。
吐き出される煙を眺めながら、本当に辞めるんだって、改めて実感する。
教師を辞めて、結婚して、社長になる。
それが先生の新しい人生―――。
「………先生……じゃ、なくなるんですね」
「そうだな」
『社長さん、なんて、なれるんですか?』
そう言いたかったけど、結局言葉にできなかった。
「寂しい?」
「………え?」
先生はからかうような笑いを口元に浮かべてる。
それは私が知ってるいつもの先生で。
いまはそれが―――イライラした。
「先生が……学校からいなくたって……私には関係ないです。私―――」
いつもと同じだから、まるでなんにもなかったかのような態度だから。
イライラして、ぐらぐらして。
私は……試すように、
「もう新学期、学校来ないから。ゆーにーちゃんと一緒にニューヨークに行くんです。留学するんです」
言ってた。
先生は煙草の煙をゆっくり吐き出す。
「お前、英語喋れるのか?」
表情なんて全然変えずに、先生は小さく笑った。
「…………勉強するから……大丈夫です」
先生をこれ以上見てることができなくって、うつむいた。
結局、先生にとって私なんて―――その程度の存在なんだって、わかった。
「留学なんて無理そうだな」
先生が笑いながら言ってるのがわかる。
「………ゆーにーちゃんがいるから……、それだけで……平気だし、大丈夫なんです……」
「ふーん」
「………」
私、いったい何をしに来たんだろう?
なんで、こんなこと喋ってるんだろう。
イライラ、イライラが募ってく。
頭が痛くって、ズキズキするのが止まらない。
「―――……新しいお仕事、がんばってください。さようなら」
うつむいたまま、早口で言って、身をひるがえした。
走りだそうとした私に、声がかかる。
「実優」
呼ばれると思ってなかった名前に、動きが止まってしまう。
「俺も、お前に報告しておく」
報告、っていう言葉に心がざわつく。
「俺さ―――好きな女ができた」
とっさに先生を見た。
″好きな女″?
「………結婚……するんですか?」
「結婚? さー、まだ告白もしてないしなぁ」
煙草をふかしながら、先生は笑う。
告白もしてない?
「―――き」
ウソツキ。
そう言おうとしたけど、声が震えて、でなかった。
その人と結婚するくせに、なんで、そんなこと言うの?
なんで、そんなこと、私に言うの?
「………お幸せに」
それだけ絞り出すように言って、今度こそ走りだした。
本当の本当に、最後。
最後なのに。
先生を見ることもしないで、終わった。
そう―――今日で、本当に終わっちゃったんだ。
全部、全部、全部。

――――終わってしまった。