secret 116  大切で、大切な、ひと。  

pipipi
小さなデジタル音がして、ゆーにーちゃんが私のパジャマの中からそれを取った。
ゆーにーちゃんはそれを見て、眉を寄せる。
「……ある?」
「……ん……38.9分もある……」
ため息をつきながらゆーにーちゃんは私の額に手を当てる。
「ごめん……。俺がきのう無理させたから……湯ざめしたのかも」
辛そうに顔を歪めるゆーにーちゃんの手を、手を伸ばして握り締めた。
「ゆーにーちゃんの、せいじゃ……ないよ。だからそんな顔……しないで?」
本当にゆーにーちゃんのせいなんかじゃない。
きのうあれだけ雨に打たれたんだから、風邪引かないほうがおかしい。
それにきっと―――罰があたったんだ。
「……わかった。でも、どうする? 熱高いし、病院―――」
「イヤっ!!」
とっさに叫んで、その反動で咳き込んでしまう。
慌ててゆーにーちゃんが私の背中をさすってくれた。
でも病院だけは行きたくない。
病院は、いや。
匂いも、空間も、全部が苦しい。
あんまり覚えてないけど、10歳の一時期ずっと入院してたから、よっぽどじゃなきゃもう行きたくない。
「……じゃあちゃんとご飯食べて薬飲んで寝てるんだよ?」
「……うん」
「それとなにかあったら俺に電話すること」
「………」
「実優? わかってる?」
「うん……」
今からゆーにーちゃんは仕事。できるだけ迷惑はかけたくない。
私がそう思ってるってわかってるから、ゆーにーちゃんはもう一度言ってくる。
「実優、ほんとうに辛いときはちゃんと電話するんだ、いいね? もしどうしても俺が来れないときは奈央に頼むから」
ゆーにーちゃんのお友達の産科医の奈央さん。
ひどい風邪をひいたときとか奈央さんに診てもらったりしてた。
「………わかった。………ごめんね……ゆーにーちゃん」
「謝ることなんてないだろう? 俺に心配してほしくなかったら、ゆっくり休んで早く治ること。いいね?」
「……うん」
小さく頷くと、ゆーにーちゃんは優しく微笑んで私の頭を撫でる。
「それじゃあ、俺は行くよ……。辛くなったら本当に連絡するんだよ」
「……はい」
心配でしかたがないって感じのゆーにーちゃんは去りがたそうに私の頭を頬を撫でて、ようやく仕事に行った。
私はなにも考えることができないくらい熱のせいで頭が割れるように痛くて。
ただひたすら一日中目を閉じて寝てた。
効いてるのかいまいちわからない市販の風邪薬を飲んだけど、高熱は翌日まで続いてししまった。
3日目まで続いたら奈央さんを呼ぶってゆーにーちゃんに言われた、その朝。
熱は37度台までにようやく下がってくれた。
水分と少しの食べ物しか喉を通らなかったけど、3日目はだいぶ食べれるようになって、閉じたままだった携帯も開くことができた。
携帯には七香ちゃんや和くんから心配するメールが入ってたから、『もう大丈夫だよ』って返事をみんなに送った。
『もう春休みだし、無理しないで休んでたら良いよ!』
なんて七香ちゃんから返事が来て、そういえばもう明後日には終業式なんだって気付いた。
そして学校が終わった頃、和くんからメールが来た。
『今日、ちょっとだけお見舞い行っていいか? すぐ帰るから』
ていうメールが。
『うん、いいよ』
そう送信して。
和くんがやってきたのは、それから1時間後のことだった。










七香ちゃんたちも一緒かなって思ったけど、和くんは一人だった。
「ごめんな、きついときに。まだ、熱あるんだろ?」
玄関先で、私の顔色を心配そうに見つめる和くんに、笑顔を返す。
「もう大丈夫だよ。熱も、いまは37度くらいに下がったし。とりあえず上がって?」
「……あぁ」
和くんをリビングに案内してお茶を淹れようとしたら、動かなくっていいって言われたからソファーに座った。
「これ……お見舞い」
和くんがちょっと視線を逸らした状態で、コンビニ袋を差し出してくる。
「え? わざわざごめんね! ありがとう」
受け取って、中身を見たらゼリーとかプリンとかシュークリームとか、たくさん入ってた。
「なにが好きかわかんなかったから、適当に選んでたら買いすぎた……」
少し耳を赤くして和くんが苦笑する。
私もそんな和くんに思わず噴き出してしまった。
「プリン、もらうね? 和くんは、なにか食べる?」
「俺はいい。好きなの食えよ」
「うん」
もう一回和くんにお礼を言って、袋に入ってたプラスチックのスプーンでプリンを食べ始めた。
生クリームがのったプリンを食べてる私をじっと見てる和くん。
ちょっとだけ食べにくいけど……だまって美味しいプリンを食べ進めてた。
「……あのさ」
「……うん?」
和くんが切りだしてきたのはプリンがあと3分の1くらいになったときだった。
「……明日、学校来るか?」
どうしてか言いにくそうに和くんは私を見つめる。
「熱が下がってたら行くと思うよ」
たぶんゆーにーちゃんは完全に熱が下がらなかったら休むようにいうはずだし。
「そっか……。じゃあ明日は微妙かもな」
「んー……。そうだね……だいぶ調子は戻ったんだけど、まだちょっとぼーっとするし」
「……ああ」
「……明日なにかあるの?」
「……いや……。明後日……は学校に来てほしい……」
「明後日?」
「……終業式」
「そっか。もう春休みだもんね。うん、できるだけ行くようにするよ」
にこっと笑うと、和くんは笑いながらも視線を逸らす。
なんとなく和くんの様子が変な気がした。
「和くん……どうかしたの?」
そう訊くと、和くんは迷うように視線を揺らせる。
そしてため息をつくと、私を真っ直ぐに見詰めた。
「…………松原が……学校辞めるらしい」
「…………」
「………知ってた……か?」
プリンを食べる手が、勝手に止まってた。だから無理やり動かして、口に運ぶ。
「……知ってるよ。噂で聞いた。なんか結婚して社長になるんだってね! すごいねー!」
「…………」
へらっと笑う私とは対照的に、和くんは眉を寄せる。
ああ、そうだった。和くんは″勘違い″をしてるんだった。
すごく、迷惑な勘違いを。
「……いいのか?」
「……なにが?」
「……もう……松原とは切れてんのかもしんねーけど……。最後に……ちゃんと話したほうがいいんじゃねーのか……」
話す、って何を?
そう言いたかったけど、言えなかった。
私は黙って残り少ないプリンを味わって食べる。
和くんも黙ってしまって、プリンはあっという間になくなってしまった。
なんで、こんなに重苦しい空気になってるんだろう。
せっかく具合がよくなってきてたのに、また―――頭が痛くなってきてる。
「……和くんがなんで勘違いしてるのか……わかんないけど……先生のことは……」
「俺さ」
私の言葉を遮るように、和くんが口を開いた。
「あの日……実優が、松原を見てて、俺に好きな人と付き合えるようになったって報告した時さ……」
「………」
「俺、窓から松原を見てる実優を……見て……。ほんとに……松原のことを好きなんだなって……思った」
「………」
「なんつーのか、わかんねーけど……。松原を見てた実優の目がすっごい優しくって……、楽しそうで。俺や……捺じゃ見れないような……顔してて」
「………」
「だから……松原じゃなくって、ほかのやつが好きって……言われても、正直わかんなかった。あのときも、いまも……」
「………」
「……俺は……お前が好きな奴なら……別に叔父サンだって……かまわねーと思う」
「………」
「でも、違うなら―――」
「違わないよ」
「………」
「私は、叔父さん……ゆーにーちゃんが、好きなの。先生なんかじゃ、ない」
「………」
「だから、別に先生と話すことなんて、なにもないよ」
「………」
「………」
「………だったら……なんで」
和くんは私をにらむようにして見つめて、呟いた。
私は、もうなにも言わなかった。
和くんも、なにも言わなかった。
しばらくして和くんが帰るって立ち上がって。
それを玄関まで見送った。
「………来れたら……終業式は来いよ」
そう言って和くんは帰ってった。
閉じた玄関のドアをしばらく見つめて、リビングに戻ろうとしてリビングのドアの前で立ち止まる。
ガラス戸に、ぼんやり私の顔が映ってる。
それを眺めて、和くんの呟いた言葉を思い出した。
『だったら……なんで―――なんで、そんなに泣きそうにしてんだよ』
………泣きそう?
誰が?
泣くはずなんて、ない。
私はリビングには入らずに自室に戻った。
ベッドに置きっぱなしにしてた携帯を開く。
受信メールが入ってて、それはゆーにーちゃんからだった。
『具合はどう? ちょっと体調良く感じても、ちゃんと寝てるんだよ。帰りに実優の好きなもの買ってきてあげるから』
そんな、優しくって、どこまでも私に甘い、メール。
頬が緩んでゆーにーちゃんに返信して、携帯を閉じて。
―――ガンッ。
壁に、投げつけた。
頭がすごく痛い。
なんで……。
ううん、当たり前……なのかな。
そう、当たり前。
―――メールが来なくっても、当たり前だ。
関係なんて、ないんだから。
ホワイトデーだった……あの豪雨の日から3日。
先生から……メールも、電話も、ない。
それは、当たり前。
だって、関係ないんだから。
セフレでもなんでもない―――ただの教師と生徒。
あの日先生が……私を抱いたのも、抱かれたのも、意味なんて、ない。
「………っ、………い」
頭が痛い。
痛くって痛くって、枕に顔をうずめてギュッと目を閉じた。