secret 111  嵐  

先生だ。
先生が大きく眉を寄せて、私を見下ろしている。
私はただ先生を見た。
頭がぼーっとしてて、なんて言えばいいのか、いま何を考えればいいのかわからなかった。
なにも喋らない私に、しばらくして痺れを切らしたように先生が口を開く。
「なにを、してるんだ」
「………」
メガネ。
そうだ、メガネを返しに来たんだった。
それを言おうと唇を動かしかけたけど、歯が噛みあわなくって、喉が嗄れたように声が出なくって、結局なにも言うことができなかった。
先生はますます眉を寄せて、私の腕をつかんだ。
ぼたぼたと袖から水が落ちていく。
身体が重いのはやっぱり雨を大量に洋服が吸いこんでいるせいみたいだった。
顔を強張らせた先生は何か言おうとして、でも口を閉じる。
その表情は怒っているように見えた。
それは……そうだよね。
いきなりこんなところにずぶ濡れでいて迷惑に思わないはずがない。
「……とりあえず、着替えかしてやるから、部屋まで来い。……歩けるか」
メガネを返せば終わり。
だから着替えを借りる必要なんてないって、言わなきゃいけない。
でもやっぱり唇が動かなかった。
先生は眉を寄せたまま、傘を閉じた。
そして私を横抱きに抱えあげる。
「―――少し我慢しろ」
そう言ってマンションのエントランスに走り込んだ。
先生に抱きあげられて、はじめて私は身体の芯から冷え切ってしまってたんだって気づいた。
先生の温もりで。
「………」
先生はずっと無言。
私は、ちょっとだけ申し訳なく思った。
ずぶ濡れの私を抱えているせいで、先生までも濡れていってしまってる。
キレイなエレベーターの床も私のせいで水浸しのようになっちゃってる。
音もなくエレベーターは先生の住む階に到着した。
そして先生の部屋に入って―――頭痛が消えてしまうのを感じた。
先生はまっすぐにバスルームに行って私を浴室の床に降ろすと出ていったけど、すぐに着替えを持ってきて、タオルも用意してくれた。
「お湯入ってるから入れ。ちゃんと温まってから出ろ」
先生は私のことを見ずに淡々と言う。
「髪はちゃんと乾かせ。濡れた洋服は袋に入れて持って帰れ。着替えは………」
途中で言葉が途切れて、私は用意された着替えを見た。
それは私がこのマンションに置いてた自分の洋服。
「………着替えたら、タクシー呼べ」
先生は言いながら一万円を着替えの上に置いた。
「これは返さなくっていい。タクシー代だ」
「………」
「俺は出かけるから、ちゃんと風呂に入れ。いいな。合いカギを置いておく。しめたら表の――」
「………」
先生がごちゃごちゃ言ってるのをぼんやり聞く。
でかけるって、どこに?
またさっきの人のところに?
あの綺麗な人のところに行くんだろうか。
あの人は誰?
結婚相手?
結婚するの?
先生辞めちゃうの?
なんで?
な―――。
「……わかったな、橘」
―――んで。
先生は私のことなんて見ない。
見ないで、背を向ける。
私の名前も―――呼ばないで。
もう、私は先生にとって、なんの、価値もない、ただの生徒なんだ。
って、思った。
そう思った瞬間―――私の中で、何かが壊れた。











先生が、出ていく。
先生が、出て行っちゃう。
どこに?
私の知らないところ?
なんで?
どうして行っちゃうの?
―――先生に、会いにきたのに。
「………せんせ。先生……っ」
必死で声を絞り出して叫ぶと、先生は立ち止まった。
「………なんだ」
冷たい声。
それに心が軋むような音をたてる。
「せんせ……」
勝手に、ぼろぼろ涙がこぼれていってる。
身体は冷え切ってるのに、目の奥と胸が焼けるように熱い。
先生……ってもう一度呟くと、先生は大きくため息をついた。
そしてゆっくり私のそばに来た。
「……寒い」
「……だから風呂入れ」
「……服、脱げない」
「……そのまま入れ」
「……やだ」
「…………」
「…………」
先生はまたため息をついて私のそばからまた離れた。
キュって音がしたかと思うと、シャワーが出始めて、私を濡らしだした。
「……しばらくシャワー浴びて、身体温まってきたら服脱いでお湯につかれ」
「……やだ」
浴室から出ていこうとする先生のズボンのすそをぎゅっとつかむ。
「……離せ」
「……ヤ……」
「……なにしたいんだよ、お前は!」
ザーっていうシャワーの音。
先生の、怒鳴り声。
なにを言えばいいのかわからない。
でも。
「先生……っ」
「………」
ぐっと膝に力を入れてふらふらと立ち上がった。
私から目を背けてる先生を見つめる。
「先生」
「なんだ」
「今日……ホワイトデー」
ちょうど一か月前の今頃は、どう過ごしていたっけ?
先生にチョコをあげて。
チョコを一緒に食べて。
先生は変態エロ教師で……。
「……ホワイトデーです」
「……わかった。お前が風呂入ってる間に、用意する」
「バレンタインの……とき…………」
胸が、息が苦しい。
「先生がくれるって言ったのが……ほしい」
「………」
「私………」
頭がぐらぐらする。
頭の奥でサイレンが鳴っているような気がする。
それは、たぶん警告のサイレン。
もう何も言っちゃいけないってサイレン。
だけど、私は。
その警告に―――耳を塞いだ。
「先生が欲しい」
先生が驚いたように、ようやく私を見た。
そしてそんな先生に私は背伸びをして、キスをした。
触れるだけの、押し当てるだけのキスを。