secret 101  その、爪痕  

胸が重苦しくってたまらない。
踊り場へ向かうけど、すぐに立ち止っちゃう。
もう何度目かわからないため息をついたとき、不意に後ろから腕を掴まれた。
びくんって身体を震わせて振り向くと、和くんが厳しい顔をしている。
「………どうしたの?」
「どこ行くんだ?」
私が訊いたのに、問い返されて戸惑う。
捺くんと話をしにいくって、言えばいいんだろうけど、躊躇ってしまう。
「………捺か?」
「え……」
「悪ぃ……。さっきメールちょっとだけ見えたんだ」
「……あ」
「俺も行く」
「え? なんで? 私だけで行くよ!」
「ダメだ。―――あいつ……最近様子変だったから」
真剣な和くんの表情に、顔が強張っていくのを感じた。
「……変って」
「………わかんねーけど、一人では行かせられない」
「でも……っ。たぶん、話って……私と捺くんのことだから、ちゃんと2人で話したいの」
「口出しはしねーから」
「だけど……」
「………」
「お願い、和くん!」
「………」
必死で和くんを見つめる。
和くんはしばらく黙って、そしてため息をついて視線を逸らした。
「………わかった。ただ、階段の下んとこで待ってる。もし、捺がなんかするようだったら、そんときは邪魔する」
どうしても引いてくれなさそうな和くんに、もう何も言えなくって、私は黙ってまた歩き出した。
約束の踊り場へと続く階段のところにくると、ようやく和くんは足を止めて壁に寄りかかった。
「ここで待ってる」
ぼそっと呟く和くん。
小さく頷いて、踊り場に上った。
捺くんはまだ来てないって思ってたけど、屋上への階段のところに捺くんは座ってた。
「―――捺くん」
呼びかけると、捺くんはにこっと笑って階段を下りてくる。
だけどすぐにその笑顔は消えて、眉を寄せた。
「……和のことは呼んでないけど?」
捺くんの視線の先にいる和くんを、私も見る。
階段の下は下だけど、会話は聞こえる距離。
「俺はここにいるだけだ。とっとと話済ませろ」
「……和はほんとお邪魔虫だね。……いいの、実優ちゃん。アイツがいて」
「…………」
「俺はいいけど。……まぁいいや。実優ちゃん。先週の話だけど」
捺くんはため息をつくと、私に視線を戻した。
「……うん」
「オレ、実優ちゃんのこと………諦める……」
目前に立った捺くんは、じっと私を見つめて言った。
私は、息をつめて、それを聞きながら―――捺くんの手が伸びてくるのを見てた。
「の、やめたから」
その手が私の頬に触れて、そっと撫でる。
「………え?」
捺くんが言った言葉が理解できない。
思わず呆けた瞬間、壁に押し付けられた。
腕で囲うように身体を挟まれる。捺くんは私を見下ろして、小さく笑う。
「これまで通り、頑張るから」
「……捺! テメェなにやってんだよ!」
「………な。……捺くんっ! 私、彼氏ができたの……。大好きな人がいて、その人と……」
焦ったように和くんが階段を駆け上がってくる音がする。
私は混乱しながらも、捺くんに必死で言った。
「うん。知ってる。諦めようと思ってたけど、でもやめた。それだけ」
「捺!!」
グイッと和くんが捺くんの肩を掴んで、私から引き剥がそうとした。
でも、鈍い音がして、和くんが床に転ぶ。
それが―――捺くんが殴ったせいだってことに、頬を押さえた和くんを見て知った。
「……捺くんっ!?」
「……和、部外者は黙ってろ。お前はもう諦めたんだろ? オレと実優ちゃんのことに口挟むんじゃねーよ」
今まで聞いたことのないような低い声で捺くんが和くんをにらみつける。
「……お前……」
和くんは呆然として捺くんを見上げてた。
私も呆然とすることしかできなくって、そんな中で捺くんはふっと口角を上げる。
「実優ちゃん、オレね、月曜日図書室行ったんだよ。放課後」
でも、その眼は笑ってない。
私は、捺くんの言葉の意味を、考える。
月曜日―――?
「実優ちゃんさ。七香と話してたでしょ? ″彼氏″の話」
「………え」
「金曜日がどうのこうの言ってたよね」
「………っ」
血の気が引いてくのがわかる。
それは、ゆーにーちゃんのこと、だ。
「彼氏サンって、あのあと、会ったの? 前?」
じっと、私を見続ける捺くん。
「実優ちゃんが″叔父″さんの車に乗った後? 前?」
繰り返される質問。
でも―――答えられない。
だって……″彼氏″は″叔父″であるゆーにーちゃん……だから。
そして、たぶん捺くんは……それに気づいてる。
「まさか、って思うけど……。違うよね?」
いつもの可愛らしい笑顔を浮かべて、捺くんは首を傾げる。
「それとも違わない? まぁ……オレ的には、違わない、って思ったから」
捺くんの手が伸びて、また私の頬を撫でた。
「だから、諦めるのやめた」
「………っ。……な、つ、くん」
「なに?」
「………私……その人のこと……大好きなの。だから、捺くんの気持ちには答えられないよ……っ」
「………平気だよ。オレ、頑張るからさ」
「ちがっ」
勝手に涙が浮かびあがってしまう。
泣きたくないのに、どうしようもなく、こぼれてしまった。
「……捺、いい加減にしろ」
和くんが、私の傍に来て捺くんからかばうように立つ。
「お前がなに言ってんのかわかんねーけど。実優、傷つけるようなことするなって、言っただろーが!」
「傷つけばいいよ」
「なんだと?」
「そんなもんちょっとのことだよ。だって、実優ちゃん……その人と一緒にいるほうが……ね?」
「捺、お前いったいなに言ってんだよ! 実優が選んだんなら、祝福してやれよ!」
和くんが捺くんの襟首をつかみ上げる。
だけど捺くんは冷ややかに和くんを見るだけ。
「祝福? できるわけないじゃん。っとに、馬鹿だなあ、和は」
「捺、てめぇ」
「ねぇ、実優ちゃん。オレと付き合おうよ。ね?」
頭の中がぐちゃぐちゃで、涙が止まらない。
ただ首を振ることしかできない。
そしてまた鈍い音が響いて、和くんが床に倒れた。
「っ……」
「実優ちゃん」
「す、好きなのっ。私にはその人しかいないの!!」
「――さん、なのに?」
ぼそり捺くんが、呟く。
私は否定も肯定もできずに、呟かれた言葉に、視線を逸らす。
「なんで? その人なの?」
「ずっと、好きだったの」
「へえ、その人も?」
「……そう」
「オレさ、諦めようと思ったんだよ? 車に乗ってった実優ちゃんがすごく幸せそうな顔してたから、勝ち目ないなーって、諦めようとした。でもさ。無理でしょ」
涙が止まらなくって、捺くんの顔がかすむ。
でもそんな捺くんも―――今にも泣きそうな顔してる。
捺くんの手が、伸びて、私を抱きしめる。
「捺くん……離して……」
「………やだ」
「捺……くんっ……お願い……っ」
「だめ……」
ぎゅっと抱きしめる腕に力が込められて、苦しくて痛くて、哀しい。
「いい加減にしろ……」
低い―――和くんの声。強く腕を引っ張られて、また鈍い音が響く。
だけど今度、床に倒れたのは捺くん。
そして。
「おい! お前ら、そこで何してる」
階下で響いた、声。
それに、身体が震えた。
「…………松原」
階段を上ってくる足音と、和くんの呟いた言葉。
だけど私は振り返ることができなかった。
その姿を確認することができなかった。
だって、捺くんは私を見つめ続けていて、私は逸らせない。
逸らしたいのに。
ゆっくりと捺くんの唇が動くのを見て、耳を塞ぎたいって思うのに。
動けない。
泣きそうな、泣きそうな、哀しい顔をした捺くんが、ゆっくりと言う。
「実優ちゃん……。ママの弟っていったよね? それってさ、血のつながりのある″叔父″さんってことでしょ?」
「………」
「一緒に暮らしてるんだよね? ねぇ、毎日なにしてんの?」
「………」
「好きってさ、好きだからってさ、いいの? だってさ、それってさぁ」
「………っ」
聞きたくない。
聞きたくない。
だけど、耳を塞げない。
動けない。
「――――近親相姦って、やつでしょ?」
聞きたくない……。
「……な……ん……?」
困惑した和くんの声が遠くで聞こえる。
「ねぇ、幸せになれるの?」
「………幸せ……だよ」
「………結婚も、子供も、無理なのに?」
「………」
「………誰も、祝福してくれないかもしれないのに?」

″実優、覚悟が必要だよ″
そうゆーにーちゃんが言ったのは、初めて結ばれた日。
″俺と実優の関係は―――誰からでも認められるものじゃ、ないから″
少しだけ哀しそうに、ゆーにーちゃんは微笑んだ。

「………それでも…いいの」
「………実優ちゃんは……バカだね」
捺くんは苦笑いを浮かべるとため息をついた。
少し沈黙が落ちて、ゆっくり捺くんは立ち上がって私の横を通り過ぎた。
「……じゃあね」
もう私のほうには視線を向けず、階下へと降りて行く。
「―――……松原、……先生。悪ぃけど……あとよろしくお願いします」
聞こえた声は和くんのもので、そのあとすぐに捺くんのあとを追いかけるように足音が階下へと消えて行った。
そしてまた沈黙が落ちた。
私は動くことができなくって、ただ胸元のネックレスを――指輪を握り締めてた。
しばらくして足音が小さく響いて、壁際で止まる。
カサリと紙が擦れるような音と、シュッと、空気を震わす音。
少ししてから流れてきたのは―――校内全禁煙のはずなのに、煙草の煙だった。