#03 縮まる距離

私と彼は単なる同級生で、何度か喋っただけの知り合い程度で友人ですらない。
携帯の番号だって知らないただの同級生である私が嫉妬するなんて、滑稽にもほどがある。
私は下足ロッカーに背を預けてその場に座り込むと唇を噛み締めて必死で涙を止めようと目を閉じた。
叶わない恋だってわかりきってる。
名前を知ってもらえただけで、喋れただけで、一緒に帰れただけで満足しなくちゃいけないってわかってる。
なのに、目に焼き付いているのはさっきキスしていた彼の姿で。
胸が切り刻まれるように痛くて―――同時に、とても莉奈ちゃんが羨ましくてたまらなかった。
深いため息をひとつついてまぶたをあげる。
なんとか涙は止まって、ハンカチで目元をぬぐった。
たてた膝に頬を乗せて外を見る。雨脚は弱まるどころか一層ひどくなってた。
さっきまでは雨がいやでたまらなかったのに今は逆にひどい雨の中を帰りたい気分だった。
少しくらい濡れたほうが、彼への熱も冷めるような気がしたから。
暗い外を眺め、しばらくしてから帰ることにした。
やっぱり雨はひどくなっていて傘なんて意味がないくらいに横殴りの雨に身体はどんどん濡れていってしまう。
それに構わずにゆっくり駅に向かった。
いつもなら10分ほどの距離を20分近くかけて歩いた。
駅の構内は蒸し暑さと雨の匂いが充満してる。
私だけでなく、ほかの人たちも服を濡らしていてみんな疲れた顔をしていた。
乗らなければいけない電車がホームに来たけれど私は乗らずにベンチに腰掛けた。
混んだ車内を見て、冷房は効いているだろうけれど知らない人たちの濡れた衣服と密着するのがなんとなく気後れして乗ることができずに何本か見送ってしまう。
だんだんとサラリーマンやOLさんの姿も増えてきているから、いくら電車を乗り過ごしたとしても混むことが解消されるはずなくって、逆に満員になってしまうってわかってるのにベンチから動けない。
―――どうしようかな。
ぼんやりとまた一本電車を見送ったとき、頭上から声がかかった。
「……榊原?」
それは―――彼の声、だった。
呆けたように顔を上げるとやっぱり彼で、彼は口角を上げると私のとなりに腰かけた。
「いま帰り?」
気さくにかけられた言葉になんとか頷く。
「それにしてもすごい濡れてるな」
彼は私の制服を見て笑った。
でも彼も私以上にびしょぬれ。手には鞄しか持ってなくて傘はない。だから頭から濡れていて、髪から雨のしずくがぽたぽたと落ちている。シャツはぴったり身体に張り付いていた。
「………松原くんのほうが濡れてるよ」
笑えてるかはわからないけれど、笑顔をつくって向けた。
それに一瞬彼は不思議そうな顔をした。やっぱり、笑えてなかったのかな。
「天気予報は夜から雨だったろ? だから傘、持ってきてなかった」
だけどそのことには触れずに腕で無造作に髪をかきあげる彼。
それだけの動作なのに見惚れるほどに色気をまとっている。目が離せなくなりそうで、慌てて視線を下に向けた。
「傘、なかったんだ」
「ああ」
莉奈ちゃんは傘持ってきてそうな気がするけど。一緒に帰って来なかったのかな。
莉奈ちゃんとの用事はそんなに長引かなかったのかな。
ああ、でももう1時間近くたってるから、そんなものなのかな。
どうでもいいことが頭の中をめぐって心を軋ませる。
でもすぐそばにいる彼からは雨の匂いしかしなくて、それに少しだけほっとした。
いつかの保健室のように―――ほかの匂いがしなかったから。
「風邪、ひかないようにしなくちゃね」
いくら蒸し暑いからといって全身が濡れてしまってたら風邪をひかないともかぎらない。
ポケットからハンカチを取り出した。
ちょっと湿ってしまってるハンカチだけど、ないよりはマシかなと思って彼に差し出す。
「あの、これで拭いて?」
「……は?」
彼は怪訝そうに私とハンカチを交互に見る。
「すごく濡れてるから、ちょっとだけでも拭いてたほうがいいよ?」
反対ホームに電車が来たのを見て、そのままの状態で冷房の効いた電車に乗ったら本当に風邪をひいてしまいそうな気がした。
彼はしばらくハンカチに視線を落としてたけど受け取ってくれた。
顔見知り程度の私のハンカチなんて使いたくないかななんて自虐的なことがよぎってたから、ほっとする。
だけどハンカチを持った手は彼自身にじゃなくって―――私のほうに伸びてきた。
心臓が止まりそうになった。
もう何度、彼と接近するようになって、何度、心臓がおかしくなっただろう。
私のハンカチを持った彼の手は、私の頭や頬を拭いていく。
「俺よりお前が先なんじゃないの? 女は身体冷やすなよ?」
ふっと笑う彼が動かすハンカチに、頬や髪も濡れていたんだっていまさら気づいた。
雨にぬれてもどうでもよくて駅まで歩いてきてたから、想像以上に濡れてしまっていたみたい。
「……あ……ありがとう」
お礼をなんとか言ったけど、彼の行動に湧いてくる羞恥に顔が熱を帯びていくのがわかって顔を俯かせてしまった。
「いや。じゃ、俺も借りるな」
そっと様子を窺うと、私を拭いたせいですでに湿っていたハンカチはもっと湿ってて、それなのに構いもせずに乱雑に彼は髪や首回りを拭いていた。
それを私はぼうっと見つめてしまってた。
カッコいいから、もあるけど、それだけじゃなくって彼には人を惹きつけるものがあると思う。
叶わないってわかってるのに、それでもますます惹かれていってしまう。
莉奈ちゃんにキスをしてたのはついさっきのことなのに。
彼は噂通りの人なのに。
好き。
っていう気持ちはますます膨らんでしまうだけだった。
「―――返すから」
彼が私を見ていて、何か言った。
自分の想いに囚われていた私は我に返って目をしばたたかせた。
「え、っと?」
聞いてなかったなんて言えない。けど、聞き逃したままにはできないから戸惑いながらも首を傾げてみた。
彼はまったく気にした様子もなく私のハンカチをひらひらさせる。
「ハンカチ。洗って返す」
「え、え? いいよ!」
勝手に貸しただけだし、貸す前から濡れてしまってたハンカチを洗わせるなんてできない。
大きく首を振ったけど彼は自分の鞄にハンカチをしまってしまった。
「ちゃんとアイロンまでかけてやるから心配すんな」
ニッと笑う彼に、そういうことじゃないんだけどって思いながらも表情を緩めてしまう。
ハンカチ一枚。それがまた確実に次彼と話すことができる会えるっていう切符みたいで、嬉しかった。
嫉妬と、先のない恋心にささくれ立ちかけてた心が少しだけ柔らかくなった気がする。
「……ありがとう」
なんのお礼なのか自分でもわからないけど呟いてた。
彼はその言葉に突っ込むでもなく、小さく笑う。
ホームに列車の到着を伝えるアナウンスが響いて彼が立ちあがった。
滑り込んでくる列車は満員でそれをじっと見つめた。
「乗らないのか?」
怪訝そうに彼が私を見下ろしてくる。
その視線に囚われて、慌てて立ち上がった。
「ううん、乗る」
さっきまで乗るのが嫌だったのに、彼が傍にいるっていうだけで乗る気になる私は現金なのかな?
莉奈ちゃんとのことはまだ頭に心にこびりついているのに、彼が他の誰でもなく自分の隣にいることが嬉しくてたまらない。
緩まる心を押さえて彼の後を追うように列車に乗ると、入り口と座席横のスペースに陣取った彼にそこに立たされた。
混んでるけど私の後ろは壁で、左側に見知らぬ人で前は彼。だから押されるとかふらつくとかいう心配はない。
この前もそうだけど、スマートに安全な場所をとってくれるのがすごいなって思った。
「……松原くんって、フェミニスト?」
同年代の男の子たちとは明らかに違う。それは彼の育ちの良さからきているのだろうか。
そう問うと彼はわずかに首を傾げ、おかしそうに笑った。
「そうだな、そうかもな。俺んち女性上位なんだよ。女性は敬えって小さいころから叩きこまれてるからかもしれない」
閻魔大王と鬼ババアがいるんだ、って彼はわざとらしく真面目な表情を作って言う。
閻魔大王と鬼ババア?、って訊き返すと、お袋と姉貴、って答えてくれて、なんとなくおかしくって笑ってしまったら彼も目を細めて笑った。
その笑顔がいつもよりも身近な、本当に同い年の男の子って感じがして。
ますます私は―――この恋に堕ちてしまったような気がした。