#01 平凡のなかのはじまり。

話声と、カーテンの開く音にぼんやり目が覚めた。
まぶたを上げると、ちょうど傍にやってきたなっちゃんと目が合った。
「ごめん、起こしちゃった?」
焦ったように手を合わせるなっちゃんに小さく首を振る。
眠気を払うようにもう一度ギュッと目を閉じてから半身を起した。
「ううん。大丈夫だよ」
笑顔を浮かべながら、いまは何時なんだろうって思った。
最悪な気分を催させていた生理痛は薬のおかげですっかり治まってる。
ちょっとだけ下腹部に違和感があるけど、痛みっていうほどではない。
頭も結構すっきりしてるし、長く寝てしまってたのかな?
「いま昼休み入ったところ。お昼どうするかなぁと思って」
お昼―――ということは1時間半くらいは寝ちゃってたんだ。
「ありがとう。もう具合いいから、教室戻って食べよう」
「そ、よかった」
安心した様子で頷くなっちゃんが手を貸してくれて、ベッドから降りた。
ベッドコーナーから出ると保健医の高野先生が私の方を見て微笑んだ。
「具合は大丈夫そう?」
25か26歳だったと思う。
派手じゃないけどちゃんと施されたメイク。
後ろに一つにまとめられた髪はきっと下したらキレイなんだろう緩いパーマがかかってる。
大人な綺麗なお姉さんっていう感じの先生。
「……はい、大丈夫です。勝手にベッド借りて済みませんでした」
誰もいないはずの保健室にあの松原晄人がいたこと。
そんなこと、もちろん言うはずも訊くはずもない。
きっと訊いたとしても、松原晄人がベッドで休んでただけだとか言われて終わりそうな気がするし。
「いえ、いいのよ。ごめんなさいね。席を外しちゃってて」
まるでなんの後ろめたさもないような笑顔の先生に私は「いえ。ありがとうございました」と笑顔を返す。
そして保健室に居たという証明するための用紙を先生に書いてもらってなっちゃんと保健室を後にした。
証明書をもらったとき高野先生に近づいた一瞬、甘い香りが鼻をかすめた。
保健室の中に私を招いた松原晄人が纏ってたものと―――同じ香り。
なんとなくそれが、羨ましかった。






***







面倒くさい生理が終わったある日。その日は梅雨の中の晴れの日だった。
湿度はやっぱり高くって、すごく暑い日。
太陽の光が焼けつくように地面を照らしてて、そんな暑さの中での体育の授業はめちゃくちゃきつかった。
体育の授業のあとはお昼休み。更衣室で着替えて、なっちゃんと一緒に教室に戻っていたとき―――事件は起きた。
そう、事件。
大げさだけど、私の平凡な人生の中ではそうとしか言えないこと。
更衣室から二階への階段を上っていたら、前から二人の男子生徒が下りてきて。
その一人と目が合った。
瞬間、心臓が跳ねあがって、隣で喋ってるなっちゃんの声も遠のいてしまう。
ドキドキ、ドキドキして距離が近づいていくのに緊張して。通り過ぎる瞬間が迫ることにさえも緊張が増した。
緊張する必要なんてないのに、馬鹿みたいに一人動揺しながら、必死で平静を装ってなっちゃんとお喋りしてるふりをする。
一歩一歩近づいていって、そして―――。
足が、止まった。
「生理、終わった?」
不意にかけられた声に私も足を止める。
段差は一段だけ。すぐそばにいる男子生徒―――松原晄人が私を見てる。
「…………うん」
パニックになりながらなんとかそれだけ言った。
「貧血には鉄分だぞ」
からかうように目を細める松原晄人。
頬が、顔中が熱を帯びていくのを感じながら、また「うん」とだけ返した。
ふっと笑って歩き出す彼。
「おい、晄人。女の子に生理の話をするのはセクハラだから」
「お前の存在よりマシ」
「いや、その切り返し意味不明なんだけど?」
彼の傍にいた片瀬智紀が呆れたような声でしゃべりかけてて。
二人の足音はどんどん階下へと遠のいていく。
「―――……陽菜!?」
突然耳に飛び込んできたのはなっちゃんの驚きそのままの大きな声。
それに私も我に返った。
「な、なんであの松原晄人に声かけられてんの!? そ、それに生理って……」
なっちゃんは彼のことを快く思ってないからミーハーな感じじゃなくって、ほんとうにびっくりで怪訝そうな顔してる。
それに"生理"っていう単語のせいか妙な誤解をしていそうな目で私を見ていて。
慌てて苦笑して首を振って説明した。
先週生理痛で保健室へ行った時のことを。もちろん保健室が閉まってたってことはいわないで。
先生がいなくてたまたま彼がいたとだけ。
「……でも、なんで声かけてきたんだろ?」
なっちゃんは納得してくれながらも、不審そうに宙に視線をさまよわせた。
もう教室に戻って机でお弁当を広げてる。
「さぁ? たまたま………。たまたま、だよ。とくに意味なんてないんじゃない?」
「んー、そうならいいけど」
「だって私にしゃべりかける理由なんてないし。偶然目に入って、たまたま話しかけただけだよ、きっと」
意味のない言いわけのようなものを必死でしてた。
それはなっちゃんにしてるようで、自分にしてるものだった。
ほんの少し話かけられただけ。それ以上のことはなにもないんだって。
きっと―――保健室で私が邪魔しちゃったから、顔を覚えてたんだろうって。
自分に言い聞かせてた。
「うーん……。でも、気をつけなよ? 陽菜は可愛いんだからさ」
「……なっちゃん、それ全然笑えない冗談」
なっちゃんの言葉に苦笑しながら、可愛かったらよかったのにな、ってどうしようもないことを思ったりした。
もし私が美少女とかだったら―――。
「陽菜は可愛いよ。真っ直ぐな感じがして」
「……それって褒められてるのかわかんないんだけど」
「褒めてるよ!!」
優しいなっちゃんは私のいいところを説明しだしてくれて、それを笑いながら突っ込みながらお弁当を食べて聞いていた。
その後私もなっちゃんのいいところを言ってあげたりしたけれど。
頭の中はずっと―――階段でのことばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
彼が私のことを覚えてくれてたっていうのが嬉しくて。
私の存在を知ってくれたっていうのが、変に嬉しくて仕方なかった。
ただ見てるだけでいい。
それまではそんなミーハーな気持ちだけだったのに、それが変わってしまったことにも気づいていた。
たった二度話しただけ。
それだけなのに。
もっと彼と―――松原晄人と話してみたいって、思い始めてしまっていた。
でもまだ心の冷静な部分はちゃんともう二度と話すこともないだろうって思ってはいたんだけど。
交わることがないと思っていた彼との線が少しづつ絡まっていってしまうことをまだ知らなかった。