#01 平凡のなかのはじまり。

本格的に梅雨入り宣言がされた翌日、さっそくとでもいうように朝から雨だった。
そんなにひどくはないけど一定のリズムでふり続ける雨はじめじめとした蒸し暑さを含んでいて気分が下降してしまう。
なんだか憂鬱でたまらなくなりながら学校へ向かった。
だけどその憂鬱さは雨のせいだけじゃなかったみたいで。
電車から降りたとき下腹部に鈍痛を感じてトイレに駆け込んだら、生理が来てた。
生理不順だから念のためにいつもナプキンは用意して鞄にいれてはいるけど、足りない。
朝の混雑したコンビニで買いこんで学校に行きながら憂鬱さがどんどんましていった。
「陽菜、大丈夫?」
学校にようやくついて教室に辿りつくなりなっちゃんが駆け寄ってきた。
「んー、微妙かも」
「顔色悪いよ。もしかしてアノ日?」
「うん。来る途中でなっちゃった……。それに……薬忘れちゃったみたい」
机の上に鞄を乗せて中を探る。
化粧ポーチにいつもなら常備してる頭痛兼生理痛薬が見当たらなかった。
そういえばこの前、頭痛がしたときに飲んじゃって―――最後だった気がする。
「あちゃー。私も持ってないしなぁ。保健室行ってもらってきたら?」
生理不順な上に生理痛がひどくって、一日目はいつも薬を飲まないと過ごすことができない。
「……ん。とりあえず様子見て、ひどくなりそうだったら保健室行くね」
「そう? 無理するんじゃないよ?」
心配そうに首を傾げるなっちゃんに、うん、って笑って頷いた。
それから朝のホームルームが始まって、1時間目2時間目とやり過ごしてきたんだけど―――。
3時間目に入ったころから具合悪さが急激にひどくなってきてた。
胃がムカムカするし、下腹部がズキズキ痛いし。
これからますますひどくなるんだろうなってわかる感じの気分の悪さ。
いつもよりも具合悪い気がするのはお天気のせいかな。
窓の外は朝よりも一層雨が強くなってきてた。
「じゃあ、この問題を……榊原、解いてくれ」
よりによってなんで今?
いきなりあてられて、しぶしぶ席を立つ。その拍子に軽く眩暈がして机にぶつかってしまった。
「どうした榊原、具合悪いのか?」
30代半ばの数学の先生が私の顔を見て顔をしかめてる。
そんなに具合悪そうかな?
確かに……冷や汗まで出てきそうな感じがするから、たぶん顔色相当悪くなってしまってるんだろう。
だけどみんなの前で生理痛ですなんて恥ずかしくて言えない。でも辛いから小さく頷いた。
「……ちょっと吐き気がして……。あの、保健室行ってきていいですか?」
せっかくだからそう言ってみると、すんなり「行ってきなさい」って促された。
保健委員の子を一緒にって言われたけど「大丈夫です」と断って一人で保健室に向かった。
うちのクラスから保健室は結構遠くって、うんざりしてしまう。
歩くたびに気持ち悪さが増幅されていってる気がするし、痛みも吐き気もどんどんひどくなっていってる。
早く薬飲みたい。効くまでが長いけど、1時間休ませてもらえば回復してるだろうから早く楽になりたくって頑張って保健室まで急いだ。
なのに―――。
「なんで……?」
保健室のドアには『すぐに戻ります』っていう紙が貼ってあって、鍵も掛けられてた。
保健の先生がいなくっても鍵は開けておいてほしかった。
そしたら薬飲んで勝手に休ませてもらうのに……。
鍵……開かないかな。
気持ち悪さにめまいさえ感じて、無駄だってわかってるのにドアを揺すったり叩いたりしてみた。
だけど開くわけなくって、あまりのきつさにドアの前にしゃがみ込む。
なんとか気分を宥めようと深呼吸を繰り返してた。
だからドアの向こうで物音がして、足音が近づいてきたことに気づかなかった。
はっきりと私の耳に鍵を開ける音とドアを開ける音が響いてきても、すぐに反応することはできなくて。
「―――どうした。大丈夫か?」
保健の女の先生じゃない、若い男の……声に、びくりと肩が震えた。
低めの甘くて耳触りのいい声。
声だけなのに、変にドキドキしてしまう自分に驚きながら顔を上げて―――また驚きに心臓が止まりそうになった。
「顔色悪いな」
少し眉を寄せて私を見下ろしているのは着崩した制服を着た男子生徒。カッターシャツのボタンが4つも開いていて、そこから白くもなく黒すぎでもない肌が見えてる。
髪はそんなに明るすぎない栗色で、顔は誰が見ても美形としか言えないくらいで。
「立てるか?」
驚きすぎて返事もできないでいる私のそばに屈みこんで、支えられるようにして立ちあがらせられた。
密着したときにふと香ってきた香水の匂い。
甘いそれと、そして彼の体温に、触れられた瞬間、身体が震えてしまった。
その震えを気づかれたか気になるけど、でも気にならない。
羞恥と動揺で、どうしようもなくうろたえて顔をうつむかせていることしかできないから。
「手前のベッドに行ってろ。薬持ってきてやるから」
そっと背中を押されて、言われたとおりにベッドに向かう。
保健室には3つベッドがあって―――、一番奥のベッドだけがカーテンが閉められていた。
ベッドに腰を下ろして、室内に視線を走らせる。
あれだけ具合が悪かったのに、いまはそれよりもこの同じ空間にいる彼のことしか考えられない。
少しして薬とお水を持ってきた彼はベッドまわりのカーテンを閉めた。
室内に、さらに個室にされた狭い空間に、心臓が壊れそうなくらいに動いてる。
「ほら、飲め」
差し出された薬は私が飲みたかったものと同じものだった。
受け取りながらも戸惑うように私が視線を上げると、彼は小さく笑った。
私に、向けられてる笑顔。
あり得ない状況に頬が熱くなっていく。
「生理痛だろ? 早く飲んで寝てろ」
赤くなった顔を隠すようにして薬を飲みかけてて、危うく吹き出しそうになってしまう。
なんで生理痛ってわかったんだろう?
むせながら薬をのみこんで恥ずかしさも忘れて彼を見つめると、彼は「寝てろ」と軽く私の肩を押してベッドに横にさせた。
布団を上からかけてくれる。
「貧血起こしてるんじゃないか? 顔、真っ白だぞ。あんまり生理痛ひどいようなら一度病院で診てもらえよ」
初対面のはずなのに、まったく喋ったこともないのに、まるで友達にでも接するように喋りかけてくる彼。
ベッドに腰掛けた彼は―――なぜか私の髪を梳いた。
驚きに固まってしまう私をきにすることなく撫でるようにその指が私の髪に触れるたびに、胸が痛む。
ドキドキする心臓の音が世界中の音になってしまったかのようにうるさい。
「……ありがとうございます」
何を言えばいいのかさえ迷って。それだけをようやくの思いで言って、目を閉じた。
これ以上視界に彼を捕らえていることができなかったから。
別に、と答えた彼の手はでも止まらずにしばらく私の髪を梳いていた。まるで、あやすように。
だんだんと薬が効いてきたのか、もともと薬を飲むと眠くなってしまう体質の私は彼の指から伝わるぬくもりに安どするようにまどろんで行っていた。
目を閉じて眠ってしまえば―――もう彼との空間は消えてしまうと思うと、少しさびしさを感じながら意識は遠のいていく。
そして浅い眠りの淵にたったころ彼の指がゆっくりと離れていくのを感じた。
それを掴んで戻したい気分になりながらも、意識はすでに半分眠りの中。
カーテンを開けて出ていく足音と、もうひとつカーテンの開く音。
「―――」
「―――」
囁くような話し声が聞こえてくる。
声を潜めたそれは男女のもの。
すべての意識が落ちていこうとする中で、最後の思考がぼんやりと動いて消えた。
彼は―――松原晄人は保健医までも相手にするような――――男なんだ、と。
私とは住む世界が違う、接点がまるで何もない、と。
それがひどく哀しく感じながら、私は眠りについた。