『Lovely Name』










『今日のテスト英語はちょっとできたような気がするんだけど、生物がぜんぜんわかんなかったー(>_<) ちょっとヤバイっぽいけど、気を取り直して明日の数学と国語の勉強をがんばるね!
またメールするね、先輩。あ、あと!今日4時ね!』


 液晶に表示された文章に目を走らせる。
 自然と笑みが浮かんでしまう。
「センパイ!? センパイか〜」
 と、不意に後ろから声が響いた。
 振り向くとすぐ後ろに友人の木下一樹がケータイを覗き込んでいる。
 三崎遊は笑みを消し、冷ややかに視線を向けながらケータイをポケットにしまう。
「蹴るぞ」
 半ば本気のような口調に一樹はへらへらと笑いながら隣に腰をおろした。
 テーブルの上にうどんとかしわご飯がのったトレイを置く。
 二人のいる場所は大学構内にある食堂。
 今は昼を少しすぎているが、まだ多くの学生たちが食事や勉強をしている。
 すでに遊は今日のランチを食べ終え、くつろいでいるところだった。
「蹴るって。ひっでぇなー。ちょっと見えちゃっただけだろー」
 同じ中学だった一樹は高校は違ったが、たまたま同じ大学になり以降つるんでいることが多い。
 中学時も特別仲がよいとは遊自身思ってもいないのだが、なんとなく気楽という点からか行動をともにすることが多かった。
「ケータイのメールを遠目でちょっと見えるのか、お前は」
 イスの背もたれにもたれかかり憮然と言うと、一樹は悪びれるどころか吹きだした。
「可愛いねぇ、遊くん」
 妙な猫なで声で笑う。
「女の子のメールなんて盗み見しても前ならなんにも言わなかったのに、水都ちゃんのメールだと怒るのね」
 明らかにからかい半分の言葉。
 遊は冷たい笑みを一樹に向ける。
「お前が3人の彼女からもらっているメールをそれぞれの彼女に転送してやろうか?」
 うどんをすすっていた一樹はむせて咳き込んだ。
 遊が口先だけでないということを長年の付き合いでしっているから、一樹は頬をひきつらせる。
「なんだよーちょっとからかっただけだろー。ラブラブそうで羨ましかったんだよ」
 箸を置いて、愛想笑いを浮かべる一樹。
 明るすぎる茶色の短髪にまぁまぁ整った顔立ち。長年陸上をしてきている身体はほどよく筋肉質で、締まっている。
 気さくで調子がいいと自他ともに認める性格で男女関わらず友人も多かった。と、同時にもてるので常に2〜3人の彼女までいる。
「だって、センパイだよ!? 先輩!!! ああ〜俺も一樹先輩って呼ばれてぇ〜」
 ぐっと拳をにぎりしめ、心底羨ましそうに叫ぶ一樹。
「鈴木に呼んでもらえばいいだろ」
 鈴木とは一樹の付き合っている3つ下の彼女だ。
「未亜ちゃんは最初に会ったときから『イツキ』って呼び捨てだった」
「そういうタイプだな」
「由希ちゃんと千明ちゃんは年下じゃないしな〜。だからセンパイって響きにあこがれるんだよ」
「あっそ」
「あっそって……。冷たい奴…だな」
 軽くため息をつき、食事を再開する。
 食べながら、そう言えば、と横目に遊を見る。
「もう付き合いだして1ヶ月ぐらいだろ? それでもずーっと先輩だけ? 名前で呼んだりしねーの?」
「もうずっと先輩だったから慣れてるんだろ」
「ええーでもさぁ。早めに呼び方変えないと、これから先もずっと先輩かも」
「別にいいけど」
「確かに先輩もいいけどさ。たまには『遊』って呼んでもらいたくならないか?」
 コーヒーを飲んでいた遊はその言葉に動きを止める。
「名前」
 興味深そうに呟いたのをみて、一樹は身を乗り出した。
「こう普段名前で呼ばないから、新鮮な感じするだろー?」
 あごに手をあて考え込む遊。
 確かに知り合ってからずっと『先輩』で、付き合い始めてからもずっと一緒だ。
 呼ばれ方など気にもとめたことはなかったけど、言われてみれば名前で呼んでもらうのが普通のような気もする。
 だが水都のことだから名前で呼ぶのが恥ずかしいだろう、そう思う。
 そしてふと遊の口元に笑みが浮かんだ。
「うわー、なんかヤラしい笑い方してるよ」
 横で一樹が言ったが、完全無視し遊は頬杖つく。
 そして楽しいことでも想像するように目を閉じた。
 



















 雑貨屋のショーウインドーにディスプレイされた花柄のティーセットやオフホワイトのキッチンセット。
 ピンクのクマとウサギのぬいぐるみがティーカップのまわりに座って前の通りを見ている。
 水都も顔をほころばせ、それらを眺めていた。
 ふとショーウィンドウに映る自分のそばにもう一つの姿が映った。
 ん、と思った瞬間、耳元で囁かれる声。
「お待たせ」
 ビクッと身体を強張らせ、耳を押さえながら水都は慌てて振り返った。
「び、びっくりした〜っ」
 顔を真っ赤にして、しれっとした顔で立っている遊を軽くにらむ。
「もう先輩っ。なんでいつもそんなにびっくりさせるように来るの〜!」
 頬を膨らませる水都を気にするでもなく、遊はさっさと手を繋ぐ。
「なにが? 水都が真剣に見てたから、邪魔にならないようにそっと声かけただけだけど」
 屈託のない笑顔で言われて、水都は大きなため息をついた。
「あのクマとウサギのぬいぐるみ見てたんだろ? 水都好きそう」
 トン、とショーウィンドウを指で小突き、笑いかける遊。
 水都は一瞬きょとんとして、嬉しそうに頷く。
「買ってやろうか?」
「えっ、いいよー。家にいっぱいぬいぐるみあるから」
 遊の気持ちだけで嬉しい。
 水都は笑顔で首をふる。
「そう? じゃあUFOキャッチャーでなんか取ってやるよ」
 ぽんぽんと頭をなでるようにたたたく遊に水都はさらに頬をゆるめる。
 いつもは意地悪半分優しさ半分という感じの遊だが、今日はいやに優しく感じる。
 目が合って笑いあう二人。
 だが遊の笑顔が微妙に変わった。
 楽しそうな笑顔。
 楽しそうでかまわない。だが、なにかあったのだろうかとおもうほどの上機嫌さに、ふと水都は視線をそらす。
 妙に楽しそうな雰囲気の遊に、不安を感じた。
 ――――なんだろう、なにか企んでる?
 そんなことをちらり遊を見ながら考える。
 遊は相変わらずの笑顔で、水都の手を握り締めた。
「ところでさぁ。水都」
 猫なで声が呼びかける。
 ますます不安は大きくなっていって、水都は若干ひきつりそうになりながら笑顔で応じる。
「なに? 先輩」
 そう言ったところで、遊の瞳がキラリ光った、ような気がした。
「あのさー…………『遊』って呼んでみて」
 子供のような好奇心いっぱいの表情で遊が言った。
 水都はぽかんとして遊を見つめる。
 なんだそんなことだったのか、そう思いつつ、徐々に顔が赤くなるのを感じた。
 いままでずっと『先輩』と呼んできていた。
 それは出逢ったときから、そう呼んでいたからというのもある。もちろん付き合いだしたときに『遊』と何度となく呼ぼうと思ったが恥ずかしくて言えなかったのだ。それに遊が呼び方についてなにも言わなかったので、そのうち気にならなくなっていた。遊は水都のことを名前で呼び始めたのは付き合いだしてからだったのだが…。
 水都は口をもごもごさせて、悩む。
 期待に満ちた遊の笑顔は、さっきまでなにか不吉なものを感じさせていたのに、いまでは純粋なものさえ感じさせている。
 先輩も名前で呼んでほしかったんだ、そう考えると少し嬉しく楽しかった。
 恥ずかしいが、付き合っているのだから。
 水都は顔がどんどん熱くなっていくのを感じながら、思い切って口を開いた。
「遊――――」
 ぱっと感激で遊の笑顔が大きくなる。
 みなと……、そう遊が言いかけたが、水都の言葉はまだ終わってなかった。
「先輩。遊……先輩」
 言い切って、恥ずかしくて思わずうつむいてしまう。
 なんだかこんなことで照れてるなんて、お子様すぎる、内心水都は苦笑する。
 ふと、静かになった。
 遊の反応がないことに気づき、どうしたのだろうと見上げる。
「………先輩?」
 きょとんとした水都の前には呆然とした遊がいた。
「どうしたの?」
 喜びのあまりに我を失っているのだろうか。
 いやそんなわけはないだろう。
 怪訝に思いつつ、水都は遊の顔面の前で手をパタパタと振る。
「せんぱーい?」
 そこでようやく、遊がはっとした様子で、水都を見た。
 真剣な眼差しで水都の肩に手を置く。
「水都」
 気迫迫る言葉。
 だが次の瞬間、またなにか企んだような笑顔が浮かんだ。
「今日は『先輩』はナシな。『遊』としか呼ぶなよ」
 目をパチパチさせて、水都はその言葉について考える。
 そして一瞬後「えっ??」と叫んだ。
「遊先輩、もナシ。もし『先輩』って呼んだら。罰として」
 ニヤリ笑い、遊は素早く水都に顔を寄せた。
 道の往来。
 通行人がいるというのに、遊は水都に軽くキスした。
 ちょうど通り過ぎたOL風の女性たちがそれを見てクスクス笑う。
 水都は何が起きたのか一瞬理解できずに、呆然。そして口を抑えた。
「セ、センっ」
 センパイー!?っと、叫びそうになる。
 だがとてつもなく楽しそうに笑っている遊に気づき、言葉を飲み込む。
「信じらんないっ。なにするのー!?」
「なにって、だから罰ゲームの見本」
 屈託のない笑みに水都はひきつるしかない。
「そんな、むちゃくちゃだよっ」
「なんで? もう決定。俺は本気」
 にっこりと作られた遊の満面の笑顔。
 どう反論したところで、先輩と呼んだ瞬間には罰ゲームが発動してしまうのだろう。
 だがそれでも勝手すぎる、と水都は頬を膨らませた。
 なんと言葉を返せばいいのか悩んで黙り込む水都。
 そんな水都を見下ろしていた遊が、ふとその肩に手を置いた。
 また何かする気では、と水都は思わず身をすくませる。
 だが遊は少し寂しそうに目を細めた。
「……別に俺だってさ、こんな無理やりなことしたいわけじゃないんだ。でも水都に名前で呼んでもらいたいって思うし。それにこんな大げさな罰ゲームつくってみたほうが、水都も思い切りがついていいんじゃないかと思ってさ………」
 でも無茶すぎかな。
 そう遊は肩を落として言った。
 水都は黙ってその言葉を聞き、そしてぎゅっと手を握り締めた。
「……………そうだね……」
 たかだか名前を呼ぶだけ。
 だが呼んでもらえれば嬉しい。
 大好きな人に呼んでもらうと、それだけで自分の名前が特別な響きをもつようにも感じられる。
 でも水都はいつも遊のことを『先輩』としか呼んでいないのだ。
 神妙な面持ちで考え込む水都。
「…………わかった」
 しばらくして、水都は意を決したように遊を見上げた。
「がんばってみる」
 深刻そうな表情で言った水都に、遊は一瞬苦笑して、そしてすぐ笑顔に変えた。
「おっし! じゃあ決まりだな。ところで、どこ行く?」
 手をつなぎ、遊が笑いかける。
「あ、そうかゲーセンだな、まず」
 思い出したように言った遊に水都も笑って頷いた。


「うん、行こ! センパ――――」



 こうして前途多難なデートは始まったのだった。





 




[2005/9/21]