『9』












 夏木の部屋の玄関の鍵が、静かに、ゆっくりと、開いた。
 そっと、そっと戸を、慎重に開ける。
 息を止め、静かに入り込む。
 足音を立てないように、入って、彼は部屋の様子を伺い、そしてバスルームに潜んだ。




 彼は、迷っていた。

 じっと様子を伺いながら、時を待つ。
 やがて、二人の会話が聞こえてきて、彼は緊張した。

 兄のように慕っている男の末路を考え、彼は、迷う。















 香奈は急激に高鳴る心臓に、細かく息を吸う。
 夏木は必死でうめいている。
 香奈は、包丁を手に取った。
 手が、ガクガクと震えた。
 それを悟られないように、香奈は必死で笑みを作った。
『これで、すべてが終わるのだ』
 姉の喜ぶ顔を、思い描く。
 姉はきっと褒めてくれるだろう。
 喜んでくれるだろう。
 そう考えると、だんだんと震えも収まってきた。
 香奈は大きく深呼吸をし、そして包丁を握りなおした。
 一歩、二歩、夏木に近づく。
 夏木は目を見開いて、必死でもがく。
 香奈の異常な光を宿した眼差しに、胸がざわめいた。
 怖い、と純粋に思う。
 そして強烈な既視感を感じた。
 夏木の身体が、ソファーから転げ落ちた。
 テーブルに身体をぶつけて、顔をしかめる夏木。
 夏木を見下ろして、香奈は呟いた。
「あんたなんか――――――」
 これまでの、憎しみをすべて、吐き出すように。
「死んでしまえ」
 香奈は包丁を振り下ろした。














 夏木は、目をつぶった。
 恐怖、悲しみ、そして香奈への思いが、混じりあう。
 そして、―――――――。
「―――――なんでっ」
 裏返った香奈の声が、夏木の目を開いた。
 なんの衝撃も、痛みもない。
 夏木はゆっくりと、香奈を見上げた。
 香奈は夏木を見ていなかった。
 香奈は、拓弥を見ていた。
 包丁を握る香奈の手を、強くつかんでいる拓弥を、見ていた。
 夏木もまた、目を見開いて、拓弥を見た。
「止めろ」
 短く言い、拓弥は力づくで香奈の手から包丁をもぎ取った。
 その反動で、香奈は床に崩れ落ちた。
 信じられない、という眼差しで拓弥を見上げる。
「なんで……っ。西野くんが……」
 頭が真白で、それしか言えない。
 拓弥は厳しい表情で、一瞬視線を伏せ、そして
「和兄は…由加里を自殺に追い込んでなんかいないよ」
と言った。
 香奈がポカンとする。
 しんと、した。
(……拓弥…お前なのか…?)
 夏木は目で必死に問いかけた。
 だが拓弥は香奈を見ていた。
 香奈は、目を彷徨わせ、震える声で言う。
「由加里?」
 なぜ同級生が、姉の名を、呼び捨てにするのか――――――。
 なぜ拓弥が、ここにいるのか。
 拓弥はため息をついた。
「由加里と…つきあっていたのは」
 香奈は、夏木は、拓弥の言葉を息を止めて待った。
「俺だよ」
 香奈は胸にぽっかりと空洞が開いたような気がした。
「――――――う…そ……」
「本当だ」
「だって、……だって」
 香奈の震える手が、すがりつくようにテーブルに置いてある写真や時計をかき集める。
「だって、この男が」
「ぜんぶ、仕組んだことだ…」
 そう言って拓弥はちらりと夏木を見た。
 夏木も拓弥を見ていたから、二人は目があった。
『拓弥、お前?』
 拓弥の目に一瞬よぎった悲しみの色を見て、夏木の心になにかが引っかかった。
 香奈が激しく首を振る。
 今まで憎んできた対象が、違った。
「…うそ」
 ついさっき、殺そうとしてた相手が、まったく無関係だった。
 そんなことを突然知らされても、香奈は受け入れられない。
「うそ…。だって…、なんで、そんなことする必要が…あるのよ」
 香奈は力を振り絞って拓弥をにらみつける。
「だって、この男は西野くんにとってお兄さんみたいな、存在っていってたじゃない!!」
「………」
「かばってるだけじゃない! わかった…。二人はグルなんでしょう!?」
 そうよ、そうだったんだ、とうわ言のように香奈は繰り返し呟く。
 そして、小さく笑った。
「優しいのね、西野くん。西野くんも、お姉ちゃんを見殺しにしたの?」
 夏木に注がれていた憎悪が拓弥にも向けられる。
 拓弥はそっとため息をつき、ポケットを探った。
 そして、座り込んでいる香奈の足元に、置いた。
 それは数枚の写真だった。
 怪訝そうに覗き込む香奈。
 その表情が強ばり、真っ青になっていく。
 香奈は震えながら、その写真を見ていった。
 夏木はわずかに身を起こしたが、なにが映っているか見えなかった。
 だが香奈の表情から察するに拓弥と由加里が写っているのだろう、と思った。
 そしてその通り、色んな風景と一緒に二人は寄り添って写っていた。
 姉、そして目の前にいる同級生。
「――――――」
 写真を持つ手が震え、指先に知らず力が入る。写真にしわが入る。香奈の手が、写真を握りつぶした。
 沈黙が支配する。
 ゆっくりと、香奈が拓弥を見上げた。
 涙を溢れさせ、全身の憎しみを向けた眼差しを。








 夏木の心臓が、痛んだ。
 香奈の憎悪にたぎった眼差しを見るたびに、夏木の心は痛んでいた。
 悲しみと、
 デジャヴュに。
 緊迫した中で、夏木は考え始める。
 拓弥のことを。
 そして由加里のことを。










『愛してるわ、拓弥』
『愛してるよ、由加里』
『なんで、拓弥は……するの?』
 哀しそうに言う由加里に、拓弥は目を伏せる。













「お前が望むんだったら、俺は死んでもいいよ」
 拓弥が香奈に言った。
 そして次の瞬間、香奈が勢いをつけて拓弥にぶつかった。
 バランスをくずし膝をつく拓弥につかみかかり、その首を絞める。
「殺してやるっ」
 床に倒れこんだ卓也に馬乗りになり、首にかけた手に最大限の力を加える。
 拓弥は何の抵抗もせず、香奈を見ていた。
『ヤメロ!』
 口を塞がれてる夏木はそれでも必死に声を出す。
 弟のように思っている少年が、自分の妹に殺されかけようとしている。
『やめてくれ』
「相原…」
 拓弥がそう呟き、香奈の腕をつかむと、力を込めて自分の首から引き離した。
 香奈はキッと睨む。
「殺していいんでしょう!?」
 叫ぶ香奈。
「なんで、邪魔するのよ」
 激しい怒りに傍目からはっきりわかるほど、少女の身体は震えていた。
「結局、死にたくないんじゃない!」
 そう言って香奈が再び拓弥につかみかかろうとした。
 だが拓弥は身をかわし、香奈の手首をつかんで、それを拒む。
「俺は死んでもいいよ。だけど、お前の手を汚す必要はない、と言ってるんだよ」
 拓弥の静かな口調に、夏木はなぜか胸が締め付けられるのを感じた。
「なによそれ!」
 なおも必死でつかみかかる香奈。
「お姉ちゃんを殺したくせに!」
 拓弥の表情が悲しく歪む。
「私が殺してやる」
 低い声。
「ぜったいに許さない」






『絶対に許さない』
 背筋がゾクッとした。
 夏木のなかに恐怖が浮かび上がる。
 すべては憎しみ。
 そう『あの時』も、自分は恐怖に震えたのだ。
 夏木はそう思い出して、
 そして自分に問う。
『あの時』っていつだ?








「私が殺すのよ!! 苦しめて、殺してやる!! お姉ちゃんの痛みを味あわせてやる!!」
 香奈が叫んだ。
 拓弥が言った。
「それじゃ、だめなんだよ…。由加里の―――――」
 香奈は我を忘れていて、拓弥の言葉が聞こえなかった。
 だが、夏木は聞いていた。
(いま、なんて言った…? 拓弥)



『由加里の―――――?』



『――――――相原由加里さんです』



 どこかで、声が聞こえた。





 記憶の扉が、わずかに開いた。




『あの時』、そう教えられたのだ。
『―――――の相原由加里さんです』、と。




 なんだ?



 記憶を探る。



 思い出せ。
 心がそう言う。



 思い出すな。
 本能がそう警告する。




 夏木は拓弥と香奈を見つめながら必死に考える。
 混乱する頭の中で、必死で、探す。




 そして、闇の中で、いくつかの声が、聞こえた。
 それはつかもうとすると、するりと消えていってしまう。
 もうちょっとで、思い出せるのに、思い出せない。





『相原香奈の姉は』





 そして、一つの声が、夏木の中で甦った。
 それは、香奈が来る直前、電話で西野が言った言葉。
 夏木は、ふと、思い出した。
(香奈の……姉…由加里)
 そこでようやく相原由加里の顔を、夏木はぼんやりと思い出した。
 由加里に初めて会ったときも、香奈と同じようにデジャヴュを感じた。




『相原由加里』
 心の中で、呟く。




『――――――――相原由加里さん…』
 再びあの声が浮かび上がる。





『――――――の婚約者の』




 誰の、婚約者だ?




『―――――――の』




 誰?


 記憶の闇に、そう問う。





 そして、電気がついた。
 カチカチっと、電灯が、点滅した。
 誰かが肩を寄せ合って、泣いていた。
 薄暗い廊下で、泣いていた。
 小さい女の子が母親にすがっていた。



 そして、由加里がいた。
『あの女性は?』
 誰かが訊いた。
 そして、誰かが答えた。
『―――――の婚約者の…相原由加里さんです…』




『関口真一さんの婚約者の相原由加里さんです』


 夏木は心の中で、悲鳴を上げた。












『和久。いいか、これだけは言っておくぞ。この事故に関して、お前にはなんの責任も無い。誰にも責任はない。運が、悪かったんだ』


 だから。


『だから、和久。後は私にまかせて、お前は全部忘れろ』


 忘れる?


 忘れる?


 運が、悪かった。


 関口真一は、運が悪かったのだ、と?


 幼い少女と、
 学校を卒業したばかりの少年を避けようとして、
 電信柱に衝突して、
 死んでしまった、
 関口真一は、
 運が悪かったのだ


 だから、忘れろ


 お前のせいじゃない


 本当に?


 いや、違う。
 あの時。


 あの小さな女の子が道路に転んでいた。
 歩道と道路の段差の無い、白枠線の引いてあるだけの、2車線の道路だった。
 あの時、
 夏木はよそ見をしてたのだ。
 ほんの少しのことだった。
 夕日が見えて、
 すごく綺麗で、
 その景色が横にながれていく。
 だから、それを追うように、目を走らせた。
 ほんの数秒のこと
 そして正面を向いた夏木の目に転ぶ女の子の姿が見えた。
 夏木は慌てた。
 そこが曲がり道だったから反応が遅れた、ということも多少はある。
 しかし道路の真ん中に転んだと言うわけではなかったから、ちょっと避ければすんでいたかもしれない。
 だけど、夏木はうまく避けきれなかった。
 バイクは横転して、夏木は道路に投げ出された。
 そしてそのあと、関口真一の乗った車はやってきた。
 カーブを曲がって、そして、道路にいる女の子と、夏木に気づく。
 そして、車は横転したバイクにぶつかった。
 その反動で夏木たちのほうへと車は向いた。
 慌ててハンドルを切る。
 車がスリップする。
 そして、電柱に衝突する。
 グシャ、という嫌な音が響いたのを、夏木は聞いた。
 フロントガラスが割れていた。
 驚いた女の子が泣き出した。
 夏木は呆然として、車を見ていた。




 警察には言った。
 自分がよそ見をしてたことを。
 西野にも言った。
 自分のせいだ、と。




 だけど西野は何度も、言い聞かせるように言った。



『運が悪かったのだ』



 関口はシートベルトをしていなかった。
 夏木はよそ見をしていた。
 女の子は白線をでて、歩いていて、転んでしまった。




 それぞれに落ち度があった。
 だから、だれが悪いと言うわけではないのだ。
 そう西野は夏木に言った。
 実際夏木は免停だけで、なにもなかったし。




 でも。
 夏木は、西野に『お前のせいじゃない』と言われたとき
 うそだ、と言いたかった。
 怖かったから
 言いたかった
 警察もなにもいわなかったけど、
 でも
『俺のせいで関口真一は死んだんじゃないのか?』
 と、


 だって、そうじゃなきゃ


 あの女性は


 なぜ、


 あの関口真一の婚約者だと言う女性は、


 俺のことを、あんな目で、見ているんだ。


 今の香奈のような目で…。


 絶対に、許さないという、憎しみの目で――――――――。


 俺はあの時、相原由加里の目が、怖かったのだ。


 怖くて、封印したのだ。


 相原由加里の存在を。








 いま考えれば、西野はあの時から気づいていたのだろう。
 相原由加里が夏木の妹が養女に行った先であることに。
 だから、あれほど強くあの事件に関わるなと言ったのだろう。
 夏木はすべてを思い出し、夢から覚めるように香奈と、拓弥を見た。
「相原、俺はお前に人を殺して欲しくないんだ」
 そう言って、拓弥が香奈の手を振り解いた。
 香奈は身を崩した。







『それじゃ、だめなんだよ…。由加里の―――――』
 拓弥の言葉を繰り返す。
『由加里の』
 夏木は香奈を見つめる。
 大切な妹を。
 由加里の義理の妹を。
 夏木は焦燥感に捕らわれる。 
 すべてを忘れのうのうと生きてきた自分の愚かさに。
 すべてを忘れずに死んでしまった相原由加里に。






『それじゃ、だめなんだよ。由加里の』


『由加里の思い通りになってしまうから』


 拓弥の言葉。
 



 相原由加里は、知っていた?
 妹が、復讐の相手の実の妹であることを。
 どこかで、知ってしまったのか。



『思い通りに』
 その言葉に、夏木は激しい後悔に襲われる。
 そして由加里の憎しみにゾッとした。