『8』












 いい香りが漂っていた。
 何の匂いだろう、と夏木は浅い眠りの中で思う。
 まだ半分夢の中。
(………ビーフ…シチュー………?)
 目が薄く開く。
 ぼんやりと、目の前にテーブルが見えた。
 そしてその上に、皿らしきもの。
 焦点がじょじょに合っていき、それがサラダの入った器だということがわかる。
 そして台所に、人影が見えた。
 ああ、そういえば香奈が夕食を作りにきていた、と夏木は思い出した。
 頭が重い。
 だがだいぶ意識もはっきりしてきた。
 夏木は軽く頭を振って、身を動かそうとした。
 とたんに体中に、何かが食い込んで、夏木はソファーに倒れる。
 驚いて自分を見下ろすと、手首、足、そして身体が、縄で縛り上げてあった。
 愕然と言葉を失う夏木。
 半身をわずかに起こして、台所を見ると香奈が鼻歌を口ずさみながら、味見をしていた。
 そして、振り返った。
 香奈は夏木を見ると、楽しそうに笑いかけた。
「夏木先生、目が覚めたんですねー」
 そう言いながら、食器棚から皿を出している。
「ちょうど、出来上がりましたよ〜。ビーフシチュー」
 屈託なく笑う香奈。
 どう考えても香奈が自分のことを縛ったとしか思えない。
 それなのに香奈は平然と笑いながら、ビーフシチューを作っている。
 なにか、ゾッとした。
 そして香奈の言葉に、夏木は時計を見る。
 9時半だった。
 あれからまだ2時間半しかたっていない。
「………相……原…さん」
 ようやく夏木は、それだけを言った。
 何を言えばいいのかわからなくて、それだけしか、口から出なかった。
 だがその言葉は台所にいる香奈には届かなかった。
 香奈はビーフシチューをつぐと、リビングへ戻ってきた。
 ジュースを2つのグラスに注ぐ。ビーフシチューももちろん二人分。
「かなり上手に出来たんですよ」
 そう言って香奈は頂きます、と手を合わせた。
 一口食べ、顔をほころばせる。
「おいしい〜」
 一口、二口食べ、香奈は夏木をきょとんとして見る。
「夏木先生、食べないんですか?」
 当たり前のように言う香奈に、夏木は顔を強ばらせる。
「……相原さん………。これは…」
 夏木がそう言うと、香奈は「ああ」と笑った。
「そうですね、そのカッコじゃ食べれませんよね」
 おかしい。
 夏木はただただ困惑して、香奈を見つめる。
 会話がかみ合わない。
 なぜ、自分が縛られているのか。
「なんで」
 知らず、それは言葉となった。
 その言葉を聞き、香奈がうっすらと笑った。
 嘲笑うように、
 楽しそうに、
 冷たく、
 笑った。
 香奈は食べる手を止め、夏木をじっと見る。
「『何で』って言いました? 夏木先生」
 渦巻く不安と混乱に、夏木はなにも言葉を返すことが出来なかった。
「なんで―――――――?」
 香奈の笑みの中に、瞳の中にはっきりとした憎悪と殺意の色を見つける。
 夏木は息を呑んで、食い入るように香奈を見つめた。
 香奈はゆっくりと夏木のそばへと来た。
 ソファーに横に倒れている夏木を見下ろし、小首を傾げる。
「だって夏木先生に抵抗されたら、私の力じゃ勝てないだろうから。だからちょっと眠ってもらって、その間に縛っておきました」
 小さく笑う香奈。
「――――――抵抗…って……」
 呟く夏木。
 香奈は小首を傾げると、台所のほうへと行き、戻ってきた。
 右手に包丁を持って。
 夏木は息を呑む。
 抵抗、という香奈の言葉にその意味を悟ったから。
 香奈の目に殺意を見たから。
 縛られた手首。その手に汗が浮かんだ。
 香奈は夏木に包丁の刃先を向けて、にっこりと微笑む。
「なんでも、100円で買えるなんて、便利な世の中だと思いません?」
 夏木は何も言えない。
「ね、これで人だって殺せるのに」
 香奈は言いながら、身をかがめて包丁を夏木の鼻先へとつける。
 夏木はほんのわずかな冷たさを感じ、全身が震えた。
「直接手を下さなくても、人を殺すことだって、出来ますよね」
 香奈が笑みを消して言った。
 夏木に向けていた包丁を、テーブルへと置く。
 夏木の身体から一気に力が抜けた。
「ね。夏木先生がお姉ちゃんを――――」
 香奈はビーフシチューをスプーンですくう。
「殺したように」
 言って香奈は、それを食べ、ごちそうさまでした、と手を合わせた。
 カチャカチャと皿を重ね、台所へと持っていく香奈。
 それを流しに置き、香奈は「あとで、ちゃんと全部片付けますから」と言った。
「相原さん」
 夏木が言った。
 声を絞り出して、言った。
 はい?、と香奈は夏木を見る。
「俺が………君の、お姉さんを……殺した…?」
 しんと、した。
 どこか遠くで、子供の声が聞こえる。
 どこか遠くから、夕飯の匂いが漂ってくる。
 平和な日常の世界から、切り離された、異空間。
 沈黙が、支配する。
 香奈が、なんの感情もなく、言った。
「殺したじゃないですか」
 静かな口調だった。
「……俺は…きみの…お姉さんとは面識は…」
 言いかけて、一度、会ったことがあることを思い出す。
 そして香奈の姉が、拓弥と仲が良かったということも。
 香奈はバックから一枚の写真を取り出し、夏木に見せる。
「これって、夏木先生ですよね」
 そこに映ってるのは寄り添っている夏木と相原由加里。
 夏木は青ざめる。
 違う、と言いかけて踏みとどまる。
 確かに写真はとった。
 その写真を撮った日のことも、夏木は覚えている。
 その日は、いっぱい写真を撮ったから。
 拓弥がデジカメを買った、って言って、だから試しにといっぱい撮ったのだ。
『恋人っぽく』
 なんて、冗談で、ワルノリ気分で撮った写真。
 だが、傍から見ればそれは、仲の良い恋人の写真。
「それは…」
 拓弥が、と夏木はいえない。
 まだ完全に状況が把握できないが、拓弥の名を出すのははばかられた。
「それは?」
 視線を逸らした夏木に、香奈は微笑む。
「…君の……お姉さんは……自殺だったんだろう…」
 小さく呟く。
「ええ。夏木先生がずっとお姉ちゃんに暴力をふるって、お姉ちゃんを苦しめ続けたから、お姉ちゃんは耐え切れなくて、死んじゃいました」
 あっさりとした口調で言う、香奈。
 驚きに目を見開く、夏木。
「先生、お姉ちゃんに言ったんでしょう? 『殺す』って」
 夏木の頬が、強ばる。
「怖いな〜、見かけによらず夏木先生。先生って今まで付き合ってた人みんなに暴力とかふるってたんですか?」
 言葉が、出ない。
 そんなことはありえないから。
 たった一度しか会ったことのない女に、自分が暴力をふるった、などと。
 たった一度しか会ったことのない女を、自分が自殺に追い込んだなどと。
「……ほんと、ヒドイ人ですね」
 にこっと笑いながら、香奈は包丁を手にし、ぼんやりとそれを見つめた。
「日記にはNしか書いてなかったけど、すぐ先生のことわかりましたよ」
「………」
「日記に有沢予備校のことが、一回だけ書かれてあって。あとはこの写真もあったし。お姉ちゃんケータイのメモリとかメールとかは全部削除してたんですけどね」
 なぜ自分なのだ、と夏木は心の中で問う。
 知らない。
 だがすべてが自分のことを指し示しているのだ。
 由加里と知り合いだったのは、拓弥なのに。
(――――――N?)
 西野、の頭文字。
「……それに、これ」
 香奈が手にしたのは、時計。
「お姉ちゃんの時計…。この部屋で見つけちゃいましたよ」
 頭の中が、真白になった。
(拓………弥――――?)
「夏木先生、私ね、すっごいお姉ちゃん子だったんです」
 身体が、震える。
「お姉ちゃんのこと、大好きだったんです」
 息が、苦しい。
「お姉ちゃんが、死んでとっても悲しかったんです」
(俺は、何もしていない)
「お姉ちゃんを、苦しめた人なんて、許せないでしょう?」
(香奈―――――。俺は)
「お姉ちゃんも、きっとあなたのこと」
 たった一人の妹は、兄に向かって嫣然と微笑んだ。
「殺してやりたいって、思ってましたよ」
 そう言って、ふらりと香奈は立ち上がった。
 ゆっくりと夏木の元へ来る。
 手にはガムテープを持っている。
「断末魔って言うんですっけ? 死ぬひとが上げる絶叫って?」
 言いながら、香奈は手にナイロンの手袋をはめ、指紋が粘着部分に付かないよう気をつけながら、ガムテープを切り取る。
「騒がれたら困りますもんね」
 可笑しそうに笑う。
 そうして、夏木の口へとガムテープを張ろうとした。
 だが寸前で、その手を止めた。
「あ、そうだ。夏木先生? 最後に何か言いたいことがあります?」
 目を輝かせて、香奈が夏木を覗き込んだ。
 夏木は、喘ぐように声を出した。
「………俺はなにも、していない」
 香奈の目を見つめ、刻み付けるように、言う。
「俺は、なにも、していない。君のお姉さんのことは、知っていたけど、でも、たった一度しか会ったことないんだ」
 香奈は黙って夏木の、視線を受ける。
「そんな女性に、暴力なんかふるえるわけがないだろう? それに、たとえ付き合っていたとしても、自殺に追い込むような真似は、絶対にしないよ」
 信じてくれ、切実な願い。
「ほんとうに、俺は、何もしていないんだ」
 香奈はじっと夏木を見つめた。
 そして、笑った。
「つまらない、いい訳ですね。夏木先生」
「違うっ」
 夏木は必死で、身体を動かそうとした。
 香奈に殺されるわけにはいかない。
 香奈の手を汚させるわけにはいかない。
 香奈に、兄殺しをさせるわけにはいかない。
「あんまり、動かないでください」
 事務的な声。
 香奈の手が近づく。
 必死に顔を背ける夏木。
 香奈がイラついたように、夏木の肩を押さえつけた。
 そして、「待て、香―――」言いかけた夏木の口を、ガムテープで塞いだ。