8






 都にいたころ、目覚めの口づけは甘美なものだった。
 とうに高く昇った陽。その光をはらんだカーテン。
 薄暗い部屋の中のベッド。
 眠たそうにまどろみの中、すりよってくる女の香り。
 そして口づけをねだる甘えた瞳。
 女に腕枕をしていたジェルヴェは、まるでしてやっているのだぞ、というような横柄な動作で口づけを落とすのだ。
 ついばむような口づけが次第に熱を帯び、そのまま――などということもなくはなかった。
 そんな、目覚めの口づけが。

「――――ッ!!!!! ギャー!!!!」

 まるで、悪夢だ。
 目前にいた愛らしい少女アデールをジェルヴェは力任せに突き飛ばした。
「キャッ」と、アデールが床に倒れこむ。
 ジェルヴェは座り込んだまま、ずりずりと後ずさりする。ベッドに行き当たり、十字架を握り締めた。
「どうしてお前がここにいる!!」
 いまだかつてない裏返った声でジェルヴェは叫んだ。
 頭の中はパニック状態で、ぐいっと十字架を前に突き出すも手は小刻みに震えている。
 アデールは突然突き飛ばされた驚きから、不思議そうな表情に変えて、
「侍女の方に案内していただいたのですが」
と、首を傾げた。
(……誰もいれるなと言っておいたのに! クッソ!)
 予想外のことにギリギリと歯軋りするジェルヴェ。
「どうかなさいましたか? まぁジェルヴェ様……顔色が悪いですわ」
 心配そうジェルヴェを見つめ、手を伸ばしてくるアデール。
 吸血鬼対策にとニンニクや十字架を手にしているのに、アデールがそれらを怖がる様子もなければ、気にかける様子もない。
 そのアデールの手が頬に触れかけて、とっさにジェルヴェは弾くように払った。
 アデールが再度驚きに目を見開いている。
「近寄るな!」
 裏返った声でジェルヴェは叫んだ。
「どうされたのですか? ジェルヴェ様」
「どうしたもこうしたもあるか! 何が狙いだ! この……」
 ――――化けも―――。
 そう、叫びかけた。
 だがジェルヴェの怒鳴り声に、困惑し、そして不安な表情へと移り変わるアデールの様子と同時に、ジェルヴェの顔色も苦痛に歪む。
 強烈な刺すような痛みが胸のあたりを駆け抜け、ジェルヴェは叫びを止めて胸を抑える。ニンニクの冠が、ふらついた拍子に床に落ちた。
 どっと冷や汗が出るのを感じ、身体を支えるようにジェルヴェは床に手をつく。
「………ジェルヴェ様?」
 恐る恐るといった声色が、それでも心配そうにかけてくる。
 ジェルヴェは息を整えるのに必死で返事ができなかった。
「どこか痛むのですか?」
 そっとアデールが近づいてきた。
 ようやくの思いで顔を上げるジェルヴェ。
 目が合う。
 と、パッと顔を赤らめるアデール。
 その様子はとても愛らしい。
 彼女が"吸血鬼"などとても思えないほどだ。
 いつもであれば、なんの迷いもなく、その身体を引き寄せていたところだろう。
 だがジェルヴェは憮然としてアデールを睨みつける。
 昨夜のことすべてが夢であったら、と思う。
 が、この胸にある不気味な模様と、不可思議な痛みが現実だと知らしめる。
「お前のせいだろう!」
 ようやく痛みが引いてきた。なので、また怒りを滲ませて叫ぶ。
 再び顔を曇らせるアデール。
 そして再び微かに痛む胸。
「……ジェルヴェ様。いったい何を仰っているのですか? なにかあったのですか?」
 アデールは胸の前で不安そうにぎゅっと手を握り締めてジェルヴェをうかがい見ている。
「何をだと? ふざけるな! この化け―――」
 ジェルヴェが強い口調で叫ぶ。
 アデールの表情が一層強張る。
 そしてまたまた激しい痛みが走る。
 耐え切れずに、ジェルヴェは床に倒れた。
 短い悲鳴をあげてアデールがそばに寄ってくる。
「ジェルヴェ様、ジェルヴェ様しっかりなさってくださいませ!」
 泣きそうな声を、朦朧とする意識の中で聞きながら、ジェルヴェは考える。
 この痛みはなんなのだろうかと。
 自分が怒鳴り、アデールが不安そうな顔をするたびに走る痛み。
 何かおかしい。なにかからくりがあるような気がする。
 そう思えた。
 そしてふと、思い出されたのは深夜訪れたアルテュールの言葉だった。
『例えどれだけ苦痛が伴おうが、アデールを受け入れるな』
(………まさか)
 ある疑問が浮かび上がる。
「大丈夫ですか? ジェルヴェ様っ」
 目を潤ませて声をかけてくるアデールを、ジェルヴェはぼんやりと眺める。
「………アデール」
 しばらくして痛みが引いてきたところでポツリ呟いた。
 床に倒れこんだままの状態でアデールを見つめ、その手を握り締める。
「会いたかった」
 そして社交界用のとっておきの営業スマイルを添えて一言。
 その際にアデールの手の甲へ口づけを一つ。
 一瞬虚をつかれたようにアデールが呆けたが、すぐに頬を薔薇色に染めた。
「私もですっ。ジェルヴェ様!」
 わっ、と抱きついてくるアデールの背に手を回し、ジェルヴェはすっと顔を強張らせる。
 痛みは嘘のように消えていた。
 アデールを抱きしめたまま、身を起こし、しばしの抱擁。
 もう痛い思いをしたくはなかったが、どうしても確認したいことがあり、ジェルヴェは密かに深呼吸をした。
 アデールから身をはなして一転して冷やかな眼差しをおくり、一言。
「俺の前から消えうせろ。この化け―――」
 最後は強烈な痛みに声にならず、またもや床に崩れ落ちるジェルヴェ。
「きゃぁっ! ジェルヴェ様!」
 何度目かの同じことの繰り返し。
 痛みの中で、ジェルヴェはひとつのことを確信した。
 冷たいアデールの手が、そっとジェルヴェの身体を揺する。
 大丈夫ですか、と意識の有無を確認するような声を、ジェルヴェは目を閉じて聞いていた。
 それからしばらくして、すべての痛みがなくなってから、ゆっくりと起き上がった。
「アデール。心配をかけてすまなかった。今朝から調子がすぐれなくてな」
 弱々しげな笑みを作って言うと、アデールは眉根を寄せる。
「だが、こうやって君の顔を見たらだいぶ落ち着いた」
 信じられないが、おそらくアデールに対して悪いことを言うと激痛が走るようだ。
 内心不満で苛立つも、痛いのはこりごりだと表情はあくまでも平静さを保つ。
 ジェルヴェはどうすればいいのかと考えながら、小さな笑みを浮かべアデールを見つめた。
「ところで、今日はどうしたんだ?」
 ジェルヴェの腕の中で頬を赤らめて惚けていたアデールはハッとしたように目をしばたたかせた。
「はい。昨日儀式が途中まででしたので、続きをしにまいりました」
「……"儀式"?」
 そんなものした覚えなどない!
 なにを言っているのだ、この女!!
 と、叫びそうになるのをグッと堪える。
 反してアデールは昨夜のことを思い出しているのか、うっとりとした表情で頬に手をあてていた。
「夢のようでしたわ。お母様から聞いていたとおりの素敵な儀式で」
 ―――指先へ口づけ、つぎに指輪をささげ、その指輪へ口付けを。
 歌うようにアデールが昨日の行動と儀式について語りだす。
 ―――そして、誓いの言葉と、誓いの口付けを。
 その行程を聴きながら、ジェルヴェは頭を抱えたくなった。
 なんと恐ろしい偶然。
 なんの考えもなく、ただこの少女を頂くためにとった行動が―――この少女にとっては他の意味を持っていたなど、どうしてわかるだろうか。
「昨日は、ここまででした。ですから、儀式を終わらせるために、続きをと思いまして」
 心の底から嬉しそうに微笑んでいるアデール。
 精神的なものからくる頭痛に、アデールにたいして怒鳴りだしたくなっているジェルヴェ。
 だが無闇に怒鳴れば自分が痛い思いをする。しかも相手は吸血鬼だ。
 迂闊なことをすれば、己の身が危険にさらされてしまう。
 とりあえずなんとかこの場をやりすごさなければ、とジェルヴェは必死で言葉を選びながら、しばらくしてようやく口を開いた。
「ところでアデール儀式のことなんだが……それから俺はどうすればいいのだったかな? 調子が悪いせいか、大切な儀式だというのに忘れてしまったようだ」
 不審に思われないように、さりげなく苦笑いを作り尋ねる。
 アデールは一瞬きょとんとするも、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あとは血の交換で終わりですわ」
 血。
 血?
 思わず、おうむ返しに訊きそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「私がジェルヴェ様の血を飲み、誓いをたてます。そして私の血をジェルヴェ様が飲めば、滞りなく儀式は完了いたします」
 晴れやかな笑顔でアデールが言った。
 反してジェルヴェは笑みを作るのも忘れ、血の気の引いた青白い顔になっている。
(――――吸血鬼の血を飲む!? 冗談だろー!!!!)
 心の中で絶叫し、ふらりとよろめくジェルヴェ。
 それを慌ててささえるアデール。
「ジェルヴェ様、大丈夫ですか? やはりお顔色が悪いですわ」
 顔を曇らせ、心配そうに見上げてくるアデールに、ジェルヴェは「大丈夫」だというのが精一杯だ。
 とりあえずソファに座りましょう、と小柄なアデールに促され、二人で腰を下ろした。
 いたわるように背に添えられたアデールの手のぬくもりを感じながら、ハッとジェルヴェはひらめいた。
「アデール……。申し訳ないが、今日は体調が悪いので儀式は延期してもらえないか? 明日にしよう」
 とりあえず一晩でも時間がかせげればいい。
 その間に、この村を去るのだ。
 ジェルヴェは密かな決意を胸に、一世一代の演技とばかりに憂いの表情を作りアデールを見つめた。
 心配そうにしていたアデールの表情は、悲しげに曇り、だがすぐに寂しそうではあるがジェルヴェのことを思いやるようなものへと変化していった。
「そうですわね。ジェルヴェ様の血をもらって、さらに体調がわるくなったら大変ですものね。明日にしましょう」
(ヤッター!!!)
 内心歓喜の雄たけびを上げつつ、嬉しさからアデールを抱きしめる。
 最後の抱擁、というアデールへの餞別でもある。
「すまない、アデール。でも明日などあっという間さ」
 その明日は永遠にこないがな、と胸のうちで呟く。
「……ええ、ジェルヴェ様」
 素直に頷くアデール。
 だが―――、この抱擁がとかれたとき、
「あら?」
 と、またもや運命の悪戯は起こった。
 なにかを見つけたようなアデールの声に、すでに逃げる算段を頭の中でしているジェルヴェは浮かれ気味に「どうした?」と返す。
 ふっ、とアデールの指先がジェルヴェの首筋に触れた。
 そこは昨夜アデールが噛み付いた場所だ。
 そして触れられた瞬間、ジェルヴェはそこに異物感を感じた。
「あの……ジェルヴェ様、ちょっと失礼致します」
 そう断りを入れ、アデールがロザリオやにんにくのネックレスをとくに怖がるでもなく普通にはずす。そして、首筋をなぞるように辿り、すこしだけジェルヴェの襟元を開いた。
 異物感のもとがなにであるか。
 その場所から胸元にかけてなにができているか。
 恐怖から開放されていたジェルヴェはすっかり忘れていた。
「まぁ!」
 驚いたような、だがそこに喜色を滲ませた声。
 なんだ?、とアデールの指先に視線をやり、ようやくジェルヴェは思い出したのだった。
 アデールに噛み付かれたあとに出来たものに―――。
「なんということでしょう! 昨夜はほんの少し、ほんとうに一滴ほどしか口にしなかったものですから、まだ途中だと思っていたのですが!」
 なにが?
 と、訊くことはできなかった。
 悪い予感が背筋を這いずりあがってくる。
 喜びに顔を輝かせたアデールはジェルヴェの手をとり、ぎゅっと握り締めた。
「"誓いの証"はすでにジェルヴェ様の身体に刻まれています! あとは私が誓いを立て、私の血を飲んでいただければ、もう儀式は完了ですわ!」
 悪い予感は確固たる忌まわしい現実となって、ジェルヴェを凍りつかせる。
「血を飲むだけでしたら、すぐにできますし」
 アデールは言って、わずかに甘えるような眼差しでジェルヴェを見つめた。
「今日―――儀式を完了できますわ」
 ね?、と小首を傾げ愛らしくアデールが微笑んだ。
「ま、ま、ま」
 待て、その一言がなかなか出てこない。
 浮かれていた気分は、すでに真っ暗闇のどん底の中。
 どうすればいい。
 どうずればいい。
 混乱する頭。
 考えても考えても答えが出ない。
「よろしいですわよね? ジェルヴェ様」
 にっこりと、アデールが言った。

 どうする?
 儀式を。
 逃げねば。
 儀式が。
 どうする?

 と、混乱を極めた思考は、ある答へとたどり着いた。

 そうだ。儀式を終わらせて、逃げればいい、と―――。


「わかった!」


 逃げることだけを考えていたジェルヴェは勢い良く言った。
 これからの自分の運命を決めてしまう一言を。
 いともあっさりと。
 そしてさらにもうひとつ、ジェルヴェが失念していたことがある。
 彼は、訊いていなかったのだ。
 この"誓いの儀式"が―――、一体なにの儀式かということを。

 
「儀式を終わらせよう!!」

 そしてそのあと逃げるのだ!


 そう、言った瞬間。
 二人のいる部屋の窓が大きな音をたて一斉に、砕け散った。
 





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2007 ,1,13