『Sweet Eden』
2
『好きなんだ。付き合ってくれないか』
そう夏希が初めて告白されたのは中学2年生のとき、同級生の裕也からだった。
気軽に話せる友達で、嫌いじゃなかったし、彼氏というものに憧れも抱いていたから、よく考えず承諾したのだ。
付き合いだして、それなりに毎日は楽しかった。
そして一ヶ月たったある日、付き合っているのならばあってあたりまえのことが起こった。
放課後の学校。校庭から通学路へと抜ける人気のないところで、不意に裕也が夏希の手を握り締めて立ち止まったのだ。
共通の友人の恋愛話をしていたときだった。
怪訝そうに見る夏希に、裕也はあたりをキョロキョロ見回し、そして顔を近づけた。
触れる唇。
だがぎこちなく触れた唇はほんの一瞬で離れる。
照れて顔を真っ赤にさせる裕也に、夏希は目をしばたたかせて笑顔を向けた。
だが少しの沈黙のあと、校舎を振り返ってそして言った。
『ごめん。―――――先生に放課後職員室にくるように言われてた。先に帰ってて』
驚いて、『待ってるよ』という裕也に『大丈夫、あとで電話するから』と笑ってその場を走りさった。
不自然なほど、急いで走っていった。
校舎に入り、ようやく歩を緩める。わずかに上がった息を落ち着かせながら、そっと唇に触れる。
ファーストキス。
恥ずかしかったわけじゃない。
興味もあったし、いやだったわけじゃない。
だが、なんとなく―――――。
なんとなく、一人になりたくなった。
カチッ、爪を噛み、ほっと息を吐く。
(………あとでフォロー入れとかなきゃなぁ…………)
下駄箱のところでぼんやりと立ち止まる。自分の下駄箱のそばに寄りかかって、疲れでもとるかのように首を回す。
ふと、正面の下駄箱に自分と同じ苗字のネームプレートを見つけた。
開けてみるとまだ靴はあった。
『伊織……教室かな………』
たまには一緒に帰ろうか、いや一緒に帰りたい、そう思って夏希は放課後の校舎を歩き出した。
教室に伊織の姿はなく、図書室と職員室を見て回ったがどこにも見当たらなかった。
どこにいるのよ、とため息混じりに呟いて、そういえば委員会かと気づく。毎週水曜日はクラス委員の集まりがあったはずだった。
委員会があっているのは別館にある視聴覚室。
まだ終わっていないだろうと思い、少し教室で時間を潰してから向かった。
別館は人気がなく、静かだった。まだ建てられて新しい別館の廊下は軋む音もたてず、ぴかぴかに磨かれている。
校庭から運動部の掛け声が聞こえてくるだけ。別館のあまりの静けさにすでに帰った後だったらどうしようと、わずかに焦った。
3階の一番奥にある視聴覚室の前にたどり着く。
ドアのはめこみガラスから中をのぞいたとき、
『伊織くん』
囁くような女の声が聞こえた。
なにか嫌な感じを受けながら、そっと見る。
伊織の横顔と、そして見たことのある上級生の女生徒がいた。
あれは確か伊織と同じ委員会の――――――。
そう思った瞬間、女生徒が伊織にキスをした。
勢いよくあふれ出す水に手を突っ込む。水しぶきが制服と顔を濡らす。
どんどん冷たくなっていく手とは反対に、体中が異様なほど熱かった。
心臓が、激しく脈打っていた。
胃がムカムカするほどの吐き気を覚える。だが、吐くことはできずに、いいようのない不快感が全身に広がっていた。
あの瞬間―――――身が、凍った。
わけのわからない。自分でもよくわからない苛立ちにも似た感情が渦巻いている。
手だけじゃなく、頭から水をかぶってしまいたい衝動にかられる。
ドン――――。
鈍い音が響く。
洗面台を力いっぱい叩いた。
痛みが手のひらから広がる。一層吐き気を強くさせる鈍痛。
だが、そんな痛みなどたいしたことではなかった。
痛みよりも激しい全身の血が騒ぐような感じと、強烈に頭が締め付けられる感じ。
相反する感覚は不快でしかたない。
『なんだ、あいつ……彼女いたんだ』
呟きがこぼれ、それに反応するように、頭痛はひどくなった。
知らない。
彼女がいるなんてしらない。
聞いていない。
知らない。
知らない。
なにも考えることができない頭の中でグルグルそれだけが回り続ける。
伊織がキスしているのを見てから、なぜ自分が逃げるように駆け出したのか、わからなかった。
ただ、ただ、胸を締め付ける見知らぬ感情。
どれくらいの間そうしていたのだろう。
女生徒の話し声が近づいてきて、トイレのドアが開いた。
キュッ―――――。
あくまで自然に蛇口を閉じる。
ハンカチで手を拭きながら、うつむき女生徒たちと入れ違いにトイレを出る。
そして結局その日夏希は一人で家に帰った。
***
玄関をあけると甘い香りがした。
なにも声をかけずに2階への階段をのぼろうとしていると、キッチンから母親が顔を出した。
「あら夏希、早かったのね。遊びにいったんでしょ。いまホットケーキ焼いてたんだけど、食べる?」
のんきそうな母親の声に「いらない」と短く答える。
部屋に入ってクーラーをつける。外はまだ明るく、日差しは強い。
カーテンをしめきって、藍色のベッドカバーのかけられたベッドに身を投げ出す。
横を向いて、枕を抱え込むようにして目を閉じる。固めの枕はいつも夏希が使っている枕とは違うものだ。
だが、落ち着く。
ぼんやりと眠気が襲ってくる。あくびをしながら一瞬開いた目に映るのは夏希の部屋にはない本棚。
そこは伊織の部屋だった。
誰かと別れるたびに、夏希は伊織の部屋で一時眠るのが習慣だった。
そうやって充を振った今日もまた、同じように眠りの中に落ちていった。
***
わけのわからない頭痛に、昨夜は夕食もとらずに、伊織と顔をあわせることもなくずっと寝ていた。
それなのに朝寝坊してしまい遅刻ギリギリになりそうな頃に家を出た。
結局半日ほど伊織と会っていない。
モヤモヤと胸の内を渦巻く感情がなんなのかわからないまま、学校に着いた。
教室に入ると、とたんに目が合った。
『おはよう』
そうぎこちない笑顔で走りよってきたのは裕也。
一瞬夏希はきょとんとして、思い出した。
自分が、裕也と付き合っていること。
きのう、ファーストキスをしたことを。
『………………おはよう』
小さな笑みを向ける。
だがはっきりとした違和感に気づく。
『裕也―――――』
『なに?』
とっさに呼びかけたが、そのまま夏希は固まったように黙り込んだ。
どうした、と怪訝そうにする裕也に『なんでもない』と首を振る。ぎこちなく視線をそらし、席につく。
『あのさ、きのう―――』
裕也が言いかけた。だが裕也を呼ぶ男子生徒の声に、仕方なさそうに裕也は夏希を一瞥してその場を離れていった。
その後姿をさりげなく見つめる。
ややして視線を流す。教室の前の開いた戸から廊下が見え、横切る伊織の姿が映った。とっさに立ち上がって、教室を出る。
『伊織!』
2つ隣の教室に入ろうとしていた伊織が首をかしげて振り返る。
胸が妙に苦しかった。締め付けられるような、だが大きく脈打つような持て余す苦しさに胸を押さえながら伊織のもとへ走る。
なに、というように夏希を見る伊織。
顔を合わした途端に、きのう伊織がキスしていたシーンがフラッシュバックする。
『………あ………の……』
珍しくはっきりしない双子の片割れに、伊織はふっと笑った。
『お前寝坊しただろ。いい加減遅刻多すぎると、放課後居残り説教会受けさせられるぞ』
柔らかな笑みに少し息苦しさが解ける。
『…………んなこと言うなら、起こしてくれればいいじゃん』
『お前、起こしても起きないもん。それで? なに。もうホームルーム始まるぞ』
『あ、ああ……あのね』
なにを言いたいでもない。
なにを聞きたいでもない。
なぜ自分がこんなにも焦って、いや緊張して双子の兄に話しかけているのかわからない。
『あの………。英和辞典貸して』
ようやくしぼりだした言葉は呆れるほどどうでもいい言葉だった。
『また忘れたのか』
言いながら伊織は自分の席にとりにいき、そして辞書を夏希に渡した。
ちょうどチャイムがなって、伊織が夏希のクラスのほうを見て、夏希に手を振った。
『先生』
そう短く言って、伊織は自分の席へと戻っていった。
夏希は一瞬伊織の後姿をじっと見、あわてて教室へと走った。
中学に入学するときに買い与えられたお揃いの英和辞典。ほとんど家の机に置いたままの夏希のとはちがって、使い古された感のある伊織の辞書。
胸に抱きしめると、なにかほっとした気がした。ほんの少し頭痛が緩和され知らず頬が緩んだ。
それでもまだわからなかった。
あまりに近くにありすぎて、気づかなかったのか。
『帰ろう』
いつものように言ったのは裕也で、いつものように、だが妙な違和感を感じつつ夏希は頷いた。
裕也があたりまえのように繋いでくる手が、ひどく心地悪かった。
きのうまでとは違う感覚。
『あのさ………きのうは突然ごめん』
『なにが?』
顔をわずかに赤くさせて、もごもごと口を動かす裕也。それを見てキスのことを言っているのだとようやく気づく。
別に………、と言いかけ、ふと黙る。
“別に”なんだというのだろう。
眉を寄せ自分の中に生まれた冷めた気持ちに気づく。
そんな夏希の心など知る由もない裕也はギュッと夏希の手を握り締めた。
『でもさ……。あの……俺、あの………嬉しかった』
恥ずかしそうに裕也は言って、少し不安げに夏希を見た。
『夏希は………その……いやじゃなかった……?』
『別に―――――』
イヤでも、嬉しくもない。
『キスって……付き合ってるならして当然だし』
そう好き同士なのだから、当然。
言って、夏希は自分の言葉に、さらに違和感を感じた。
好き?
漠然と、ふとそんな問いかけが頭の中で聞こえた。
キス。
きのうの裕也とのキスを思い出そうとするが、靄がかかったようにはっきりとしない。かわりに伊織のキスシーンだけが、はっきりと思い浮かぶ。
なんなんだろう、夏希は強く首を振った。夏希の言葉にほっとした様子の裕也を盗み見る。
わからない――――。
そのまま、違和感を抱えたまま、それから1週間付き合った。
だが日に日に辛くなってきた。
わけのわからない違和感。いままでと同じように接するが伊織のそばにいると、変に胸が痛む。
そして突然終わりは来た。
デートをしていたときだった。
夕暮れ時で、公園で、裕也がキスをしようとした。
顔が近づいてきて、思わず身を引く。だが”我慢”して、キスを受ける。
『…………違……う』
え?、と裕也が怪訝そうにした。
『私……』
違う、と思った。
なぜ裕也とキスをしているのだろう。
そう、思ってしまった。
自分の知らないところで、伊織は自分以外の女とキスをしているのに。
そんな考えが浮かんできて、夏希は首を振る。
『夏希? どうかした?』
裕也の心配そうな声に、違う、と涙がこぼれた。
自分以外の女が伊織に触れている、一緒にいる。
自分の知らないところで。
こんなどうでもいいキスをしているときにも、伊織はあの上級生の女とキスをしているかもしれない。
カッと顔が熱くなるのを感じた。
『夏希……? 泣いてるの……か。どうしたんだよ』
オロオロとした声に、夏希は口を押さえ、涙を地面に落としていった。
『ごめん………。ごめんね……』
何度も、繰り返し言った。
初めて告白され、好きと言ってくれた相手を、初めて―――振った瞬間。
それはとてつもなく重く、苦しいことだった。
だがずっと感じていた違和感がなんなのか気づいたから、一緒にはいられなかった。
付き合いをやめると告げ、呆然とした裕也から逃げるようにして家に帰った。
なぜか自分の部屋じゃなく伊織の部屋へと入った。
伊織のベッドに横になって、目を閉じると気分も少し落ち着き、それと同時にまた涙がでてきた。
気づいてしまった。
裕也は”特別”じゃないと。”特別”にはなれないと。
自分にとって”特別”なのは―――――。
***
「伊織…………」
自分の寝言に夏希は目を開けた。
うっすらと開いた目に、本を読んでいる伊織が映った。寝入ってしまっている間に帰ってきたらしい。
夏希の呟きに、伊織も顔を上げて夏希を見た。
「ねー……伊織」
寝ぼけた声をかける。
「なに」
「暑い」
夏希がこの部屋に入りクーラーをつけたとき、たしか21度に設定したはずだった。だが今はほのかに涼しいくらいで、微妙な暑さを感じる。
あまり冷房を強くしない伊織がきっとドライに変えたのだろう。
「なら自分の部屋で寝ればいいだろう」
「………小学校のときまでは私の部屋でもあったもん」
2段ベッドで寝ていた頃。もう5年も前のことだ。
ため息をつく伊織に夏希はぼんやりと話しかける。
「あの広瀬って子………彼女?」
本に再び視線を落とし伊織は、
「違う」
と言った。
「……ふーん………。彼女の一人ぐらいつくれば」
半分そう思う。半分絶対に嫌だと思う。
「…………それで、お前はまた振ったわけ」
夏希が付き合っている相手を振った日に、なぜか伊織の部屋にくることを知っている。
ため息混じりの言葉に夏希はため息混じりに返す。
「恋は難しいの」
「あっそう」
そっけない返事。
だが流れる空気は穏やかだ。
「ねぇ………伊織」
枕に顔をうずめ、くぐもった声をかける。
「なに」
「カフェオレ作ってきて」
「は? やだよ」
「飲みたいー」
手足をバタつかせる。
「お前な……」
「お願い、お兄ちゃん」
枕から顔を上げて、わざとらしい口調で言うと、伊織は大きなため息をついた。そして重い腰を上げて部屋を出て行った。
なんだかんだ言ってたいてい伊織は結局言うことを聞いてくれる。
階段を降りて行く音に耳を澄ませながら、
「お兄ちゃん、か――――」
呟き、また枕に伏せた。
気づいてしまった。
中学生だったあの頃、あの日。
"特別"だと。
双子の片割れの伊織が――――"特別"だと。
「ねぇ伊織」
伊織がついさっきまで座っていた空間に話しかける。
「ねぇ、伊織――――。私ね、伊織のこと」
好き。
そう音のない呟きが、部屋にこぼれた。
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