『第24話』





 愛する人の伴侶となり、愛する人の子供を生む。
 そして唯一無二のかけがえのない家族を作る。
 それだけが幼いころからの夢だった。
 生まれたときから病弱で、成人まで生きられるかわからない。
 そう両親が告げられていたことも知っている。
 だから平凡な夢は、アルバーサにとってはとても大きなものだったのだ。 





「早かったのね」
 日が傾きかけてきた午後、アルバーサの寝室にヴァスがやってきた。
「ああ、商談が早く終わってね。今日は具合のほうはどうだい?」
「大丈夫よ…」
 そう言いながらもアルバーサの顔色は晴れない。
 ベッドのそばにこしかけ、怪訝そうに声をかけるヴァス。
「なにかあったのか?」
 アルバーサは無言でうつむく。
「昨日も…少しおかしかったな。どうした? せっかくサラが元気になってきたというのに」
 サラ。
 愛する娘の名に、アルバーサはいっそう表情を暗くする。
「アルバーサ?」 



 かけがえのない家族。
 愛する夫と娘。
 それだけが宝物なのだ。
 ほかに望んだものなど、なにもない。



 アルバーサはゆっくりと視線をあげた。
「ねぇ、あなた………」
 頭から離れないのは、きのう自分を厳しい表情で見つめていた愛しい娘の姿。
 なんだい、と優しくヴァスは見つめる。
 アルバーサは少し逡巡したのち、静かに口を開いた。
「…………ヴィクトールに…この屋敷から出て行ってほしいの」 


 赤の他人は、家族ではないのだから。




































 すっと深呼吸をする。
 だが心臓はこれ以上ないほど早鐘をうっていて、とても落ち着くことができない。
 サラはぐっとこぶしを握り締め数秒、大きく息を吸い込み止めると、思い切ってドアをノックした。
「サラ?」
 と、後方から声がかかる。
 振り向くとヴィクトールが立っていた。
 ドアの前でずっと立ち往生していたのを見られていたのだろうか、と顔がいっきに真っ赤になる。
「どうかした?」
「ヴィ、ヴィック―――」
「ん?」
 笑顔を向けられ、サラも笑顔を浮かべようとするが若干引きつってしまう。
「あ、あの散歩にいかない?」
「散歩?」
「…といっても…庭にだけど…」
 もじもじしているサラにヴィクトールが吹き出す。
「どうしたの、サラ? 挙動不審だよ」
「きょ!? ……とにかく行こっ」
 そう頬を膨らませ、ヴィクトールの手を取り歩き出した。 


 手はつないだまま。 


 離しがたくて、最後だから、とそう自分の中で呟き、ヴィクトールの手を握り締めていた。









 繋いだ手から伝わってくるのは体温と、そして愛しさ。
『泣いていいんだよ』と言ってくれたサラの笑顔を思い出す。
 あの時、思わず抱きしめてしまったのは想いが溢れてしまったから。
 そうして自分はいったいなにを彼女に告げようとしていたのだろうか。
 彼女は婚約者を亡くした自分を励ましてくれていたのに。










「ヴィックがこの屋敷にきてもう2年近くたつんだよね」
 正面を向いたまま、歩きながらサラが呟いた。
「そうだね…」
「ね、覚えてる? 初めて会った日のこと」
 小首をかしげヴィクトールを覗き込む。
「もちろん。僕がゆっくりくつろいでいると、ノックもなしに部屋に飛び込んできて」
「ひどい〜! 私はヴィックのために薔薇を持っていってあげたのよ」
「そうだった?」
「そうよ! もうっ! ヴィクトールなんて、そのとき蜜蜂になりた〜いとか変なこと言ってたじゃない!」
「…そ、それは」
 サラは勝ったというように、大きな笑みをこぼす。
 声を立てて笑いながらヴィクトールの前に回りこむ。
「でもね、私ほんとにヴィックに出会えてよかったと思うの」
 頬をうっすらと赤く染め、真っ直ぐにヴィクトールを見あげる。
「だって毎日楽しくて毎日幸せなんだもの」
 手はまだ繋いだまま。
 激しい動悸が伝わってしまっていないか心配になる。
 だがそんなことを気にしている余裕ももうない。
 サラは緊張しつつ、それでも飛び切りの笑顔を浮かべた。
「あのね。私ねヴィックのこと――――」


 伝えて、そして。 


「初めて会ったときから……好き…だったの」  

































 ヴァスの顔が困惑に歪む。
「…アルバーサ…、今なんと言った?」
 険しい声にアルバーサは眉を寄せる。
「………ヴィクトールにこの家から出て行ってほしいのよ」
「なぜ」
「なぜ? だって彼は家族ではないのだし、もう二十歳よ? 一人立ちしたほうがいいと思ったのよ」
 ヴァスは額をおさえ、ため息をついた。
「なぜ急にそんなことを言い出すんだ? ヴィクトールは婚約者を亡くしたばかりで今が辛い時期なんだぞ」
 咎めるような口調。
 アルバーサは顔を背ける。
 なぜ急に―――?
 急でもなんでもない。
 最初からヴィクトールが屋敷にくることには反対だったのだ。
「…それだってヴィクトールの責任でしょう。マリスは自殺だったのでしょう? 婚約者の悩みも苦しみも気づかないような人にそばにいてほしくないのです」
 夫も娘もなぜこんなにもヴィクトールに肩入れするのだろう。
 厳しいヴァスの視線に不満が沸く。
「アルバーサ! ヴィックに多少なりとも非があったとしてもだ、大切な人を亡くして辛くないわけがないだろう?」
「そんなことわかっています」
 アルバーサは声を荒げ、ヴァスを見た。
「でも、もう嫌なのよ。他人が家に上がりこみ、家族の一員のようになっているのが」
 サラは『家族なのだから』と言った。
 もう何度となくそう言われていた。
 家族のように、と。
 家族のように?
 なにをして他人が家族になりうるのだ。
 アルバーサにとってどれだけ一緒に暮らそうが部外者は部外者でしかない。
「アルバーサ、いい加減にするんだ!」
 初めてヴァスはアルバーサにたいして怒鳴った。
 生まれて一度たりとも怒鳴られたことなどなかったアルバーサは目を見開く。
 14歳で初めて出会い、そして何年の時をともに過ごしてきただろう。
 世間知らずのアルバーサにさまざまなことを教えてくれたヴァス。
 いつも優しく力強く、支えてくれていた。
 だからこんなにも怒りをあらわにしているヴァスを見るのは初めてだった。
 驚きと困惑。
 声が出せずに、幼い子供のように身をすくめるアルバーサ。
 その様子を見て、ヴァスは深いため息をついた。
「―――――怒鳴って悪かった」
 目をふせ低く呟くヴァス。
 アルバーサはだが呆然としているだけ。
 ヴァスは椅子に座りなおし、気を落ち着ける。
「……だが…私は悲しいんだよ。なぜヴィトールを受け入れてくれないのか」
 ゆっくりとアルバーサが視線を向ける。 




 なぜわかってくれないのだろう。
 それが想い。
 ただ、ただ愛する夫と愛する娘と幸せに暮らして生きたい。
 それだけなのに。
 それを望むのが悪いことなのだろうか。



 わからない。




「……受け入れるのを拒むのは…遠慮しているからか」
 ふと視線をずらし、窓の外に目をむけ、ヴァスが言った。
 遠慮?、と不思議な想いが胸中をよぎる。
 ヴァスはしばし無言になり、そして重い口を開く。
「……………ヴィクトールはとてもいい青年だ。ジョージに似て優しく真っ直ぐな心根をしている」
 すっとアルバーサの顔が強張る。
「ジョージは一人でよく育てたと…思う」
 アルバーサは目を眇めた。
 なぜか苛立ちを感じる。
 夫がなにを言いたいのかがわからない。
「………あなた…。そんなことは…関係ないわ…」
「だが、ヴィクトールも母親というものを知りたかったはずだ」
 頭痛がしてきた。
 額を押さえ、うつむくアルバーサ。
「私がヴィクトールをこの屋敷に呼んだのは」
 ひどく寒気を感じた。
 窓はしまっているのに、風が首筋をすり抜けていくような気がした。
「私には関係のない話だわ。私は一番大切な家族がそばにいてくれればいいのよ」
「だから」
 合いの手をうつように、ヴァスが言い、間が空いた。
 だから――――――。





 言うつもりはなかった。
 だが、一向に狭まることのない母親と息子の関係に、ヴァスは告げた。




「ヴィクトールが君の言う本当の『家族』だから、私は彼を呼んだのだ」 











「――――――――――え?」











「彼のため、そして君のために」
 ヴァスは静かに言った。
 困惑だけだ。
 意味がわからない。
 なぜ自分のためなどと言うのだろう。
 なぜヴィクトールのためなどと言うのだろう。



 過去の汚点はないものと。
 過去の過ちは切り捨てて。
 愛する人との間にできた子供だけが、自分の子供だと。



「なぜ、それが私のためになるというの」
 素直な疑問が唇からこぼれた。
 ヴァスはじっとアルバーサを見つめる。
「…ヴィクトールの成長を見たいのではないかと、彼と一緒に暮らしたいのではないかと、そう思ったからだ」
 ゆっくり、ゆっくりとアルバーサは首を横に振る。
 なにをしてヴァスがそう言うのか、少し考えればわかりそうなこと。
 だがわからない。
 いやわかったからこそ、混乱し、見極めきれないのかもしれない。
「…………そんなこと…ないわ」
 それは正直な気持ちだった。
「一度も…ヴィクトールのことを考えたことはなかったと?」
「ないわ」
 迷いのない言葉に、沈黙が流れる。
「…アルバーサ………」
「……………」
「――――――母親として…息子であるヴィクトールのことを想ったことはないと、言うのか」
 それは咎める言葉ではなく、すべてを受け入れ、そして二人のことを考えているからこそ出た言葉。
 だがそれは、絶望の一言。
「誰が……誰の母親…と………」
 震える声が響く。
「私は、ずっと前から…知っていた。君が…ジョージの子を」
「産んでないわ!!」
 アルバーサが叫ぶ。
 激しく体が震えだした。
「なにを、言っているの。あなた、なにか勘違いをしているのだわ」
「…アルバーサ」
「なんという誤解をしているの?」
 乾いた笑いが漏れる。
 引きつった笑顔。
「アルバーサ。私は、君を責めているんじゃない」
「だから…ねぇ、誤解だわ」
「君とヴィクトール。そして私とサラ、四人で家族になろうと、思ったのだよ。ジョージが死んでしまったときに。
 ジョージを許すことができず、親友であったのにずっと会うこともしなかった。
 だが、後悔したんだ。なぜもっと早くに受け入れなかったのだろうと。
 そうすれば、私は大切な親友を永遠に失わずにすみ、ヴィクトールもさびしい思いをせずにすんだのだろうに、と」
 アルバーサは愕然として夫を凝視する。
 身体が震え、すがりつくようにヴァスに手を伸ばす。
「ねぇ、ねぇ、あなた―――。思い違いをしているわ」
「責めてるんじゃない。認めていいんだ、アルバーサ」
「だって、だって、なぜそんな思い違いをするのか、わからないのですもの」
「あの日、私は、行ったんだ」
 ふいに話が変わり、怪訝にする。
「あの日。君がヴィクトールを産んだあの日、仕事が一段落したから、あの療養所へ行ったのだよ。急だったので、連絡もなしに」
 小さな悲鳴が、零れ落ちた。
 目の前が暗闇に閉ざされていく。
「赤ん坊の泣き声がしていた」
 遠い昔を思い出し、ヴァスの瞳が苦しげにゆれる。
「意識をなくし病室へ戻る君がいた。そして、ジョージが」
「や、やめてっ!!!」
 アルバーサは耳をふさいだ。
 顔を伏せ、大きく身体を震えさせる。
「……………アルバーサ、落ち着くんだ…。私は責めているのではないんだ。確かに最初は悩んだし、つらくもあった…。だが」
「お、お願い、やめて。ち、違うのよ。あの時は、あの」
 激しく首を振り、アルバーサはヴァスの腕をつかむ。
「ヴァス、わ、私は…」
 これ以上ないほど目を見開き、ヴァスを見る。
 その時――――――。
 異様な緊張感の漂う部屋にノックの音が響いた。
 無機質なその音に、ワンテンポ遅れてヴァスは扉のほうを見る。
 メイドの声がかかって、扉が開く。
 青ざめた髪を振り乱しているアルバーサと、深刻な表情のヴァス。
 メイドは一瞬あっけにとられ、そして萎縮する。
「あ、あの…」
「………どうした」
「だ、旦那様にお客様です…。アリード氏がいらっしゃっています。……今日あった取引のことで急用ということです…」
 戸惑い気味にメイドは小さく言う。
「………わかった…。応接室へとお通ししておいてくれ」
「はい…」
 メイドはちらりアルバーサを見、部屋を出て行った。
 腕をつかむ細い手をやさしくとる。
「…アルバーサ」
 石のように固まったアルバーサはやつれた表情でうつむいている。
「少し落ち着いたほうがいい…。すぐに仕事の話はすませて、戻ってくる。それから、ゆっくり話そう」
 アルバーサの手を握り締め、そっと離す。
 力なく手は滑り落ちる。
「すぐ戻ってくる」
 そう言い残し、ヴァスは静かに出て行った。 



 ガランとした空虚感が漂う。
 身じろぎひとつできないでいたアルバーサの瞳が、数十秒後、わずかに動く。
「……ちが…う…の」
 小さく小さくもれた声は抑揚ない。
 言葉とともに涙が浮き上がる。
「違う…………違う」
 シーツをぎゅっと握り締める。
「私の子じゃな――――い」
 堰を切ったように涙は溢れ出し、シーツは濡れていく。 



 どうしよう。
 どうすればいいのだろう。
 すべて。
 あの『夢』が。
 ヴァスのいない寂しさを紛らわすためだけだった、あの『夢』が。
 たしかな『現実』となって、いまアルバーサを追い詰めている。 



 産むだけ、それだけだった。
 愛情なんてないのだから、育てるなど、気にするなど、そんなことはなかった。
 愛しいヴァスに迎えられ、愛しい子を授かったとき、ジョージとの子供のことなど頭に欠片もなかった。
 なぜかアルバーサと結婚後ジョージとヴァスは疎遠になったから、アルバーサにとってはとてもありがたく、流れていく幸せな月日は『夢』のことなど洗い流してしまう。
 だが、疎遠になったことこそ、ヴァスがすべてを知ってしまっていたから。
 そういうことなのだろうか。



「あ、………あぁ…」
 重く、悲鳴のような声が響く。
「いや………いや………」
 幼子のようにアルバーサは繰り返す。
 手で顔を覆い泣きじゃくる。
 どうすればいいのか、まったくわからずアルバーサは嗚咽をあげ続けた。
 考えねば、考えねばと心の中で必死に呟く。
 だがあせればあせるほど、すべては手のどかないところへ逃げて行くかのような、滑り落ちてゆくような感覚に捕らわれる。
 いや、すでに、すべてなど、なかったのだ。
 最初から、なかったのだ。
 あると思っていた幸せな家族。
 そんなものはなかったのだ。
 ヴァスは自分の罪を知っていた。
 最初から、壊れていたのだ。
「あ………あ……………」
 呻き、胸を押さえる。
 キリキリと心臓が痛んだ。
 悪寒が走り、苦しさにベッドに顔を埋める。
 唇を血が出るくらいにかみ締め、荒い呼吸を漏らす。
 激しい痛みが襲い、一瞬頭の中が真っ白になった。
 その瞬間、浮かぶのは愛しい夫と娘の顔。
 アルバーサは歯を食いしばり、痛みを耐えた。
 そしてベッドからおりた。
 ヴァスに話さねば、それだけが心を占める。
 ふらふらと壁づたいに歩いていく。
 すぐ戻るという夫の言葉を待てず、アルバーサは自室を出た。
 廊下に出、だが数歩で崩れるように窓へと身を寄せる。
 











「―――――――」



 輝く笑顔は誰に向けられたものか。












 アルバーサの瞳が大きく、窓の外を見つめた。
 眼下の庭園に注がれる視線。
 その先にいるのは大切なわが子サラ。
 そして、すべての元凶ヴィクトール。
 



 仲良く手を繋ぎ微笑みあっている二人。 



「……………ヴィクトール」 



 その呟きは、目が覚めたような声。 





 壊れたのなら。



 元に。  





 最初から、なかったことにすればいいのだ。  





 アルバーサは再び歩き出した。
 ゆっくりと、だが確かな意思を持って。  





 





 





 





 






「奥様―――――?」
 白いガウンが揺れ、廊下の角に消えた。
 メイドは気のせいだろうかと首を傾げる。
 だが、目前にわずかに開いた扉に、やはりアルバーサだったのだろうかと思う。
 その部屋はヴァスの書斎。
 メイドは扉を閉めようと近づく。
 部屋の中が視界に入り、そしてふと中に足を踏み入れた。
 机の上に無造作に置かれた鍵のついた箱。
 ガラスのふたは割られ、中に入っていた物がなくなっている。
 メイドは眉を顰める。
「……………奥……………様……」
 そこにあったはずのもの。
 それは―――――銀の短銃。
 呆然と立ち尽くし、そしてメイドは部屋を飛び出した。