『第16話』





 久しぶりに見るアルバーサは青ざめて、やつれていた。
 寝息は乱れていないが若干頬が強ばっている。
 サラはベッドの横に膝をつくと、アルバーサの手をそっと握った。
 確かな体温が伝わってきて、ほっと安堵する。
 それと同時に目が潤む。
「お母様……」
 小さく呟いて、サラはしばらくの間じっとアルバーサを見つめていた。
「サラ」
 静かに声がかけられる。
 サラは立ち上がり、寝室のドアのところに佇む父親を見た。
 もう一度アルバーサに視線を移し、微笑を浮かべ「また来るね、お母様」と囁く。
 静かに部屋を出ると、ヴァスが優しくサラの頭を撫でた。
「ずっと休んでいないんだろう? ゆっくり眠って、疲れをとりなさい」
「はい。お父様もお休みになられてね」
 こぼれるような笑顔を向けるサラ。
 愛しい娘の微笑みに、心がゆったりと癒されていくのを感じる。
「ああ」
 娘の悲しみに泣きくれるのを見ずにすんで、本当によかったと心から想う。
「ちゃんと休むんだよ」
 サラは笑顔で頷いて、部屋をあとにした。



 数時間前までの重く辛かったのが嘘のように足取りは軽い。
 廊下を歩いていると、メイドが「お食事の用意が出来ています」と声をかけた。
 そう言えばほとんど食事をとっていなかったことを思い出す。
 それと同時に空腹感が突然わきあがる。
 微かにお腹が鳴り、サラは手を当て見下ろす。
 そして献立に思いをはせながら食堂に行った。
 中に入るとマリスがいた。
 すでにデザートを食べている。
「どんなご様子? アルバーサ様」
 マリスの正面に腰を下ろす。
「まだ少し辛そうだったけど、よく眠ってたわ」
 笑顔で返す。
 すぐにメイドが食事を運んできた。
 暖かな湯気をたちのぼらせる野菜のたくさん入ったスープにパン。スクランブルエッグなどが食卓に並ぶ。
 さっそくスープを飲む。
 暖かさが身体中に染み渡る。
 ほっと息をつき、これまでの分を取り戻すかのように勢い良く食べていくサラ。
 そんなサラをマリスが微笑ましそうに見ている。
 猛スピードで一通り食べ終えた頃メイドがデザートのアップルパイを運んできた。
 紅茶を飲んで、ようやく落ち着く。
「ああ、すっごくお腹一杯」
 言いながらアップルパイにフォークを入れる。
 クスクスと笑うマリスに、サラも恥ずかしそうに頬を緩めた。
 でも甘いものは入るところが別なのだ。
 焼きたてのアップルパイをあっという間に平らげた。
 大きく深呼吸をして、紅茶を味わう。
「それにしても…本当によかったわ」
 自分のことのように嬉しそうにマリスが呟いた。
 サラはマリスに視線を向ける。
 目の下には少しクマができている。
 自分に付き合ってずっと傍に居てくれたのだということを思い出す。
 本当に優しいんだな、と頬を緩める。「マリス、ほんとうにありがとう」
 心からの言葉。
 マリスは少し頬を染め、照れたように微笑を浮かべる。
「いいえ。私はただ傍にいただけだもの」
「そんなことないわ。マリスがずっと一緒にいてくれて嬉しかった」
 傍にいただけ、だがそれがどんなに大変で、思いやりに溢れているか。
 感謝の気持ちで一杯になりながら、なにかお礼をしなければと思う。
 少し考えを巡らせ、ふと気づいた。
 あの日からもう1週間近く経とうとしている。
 あの日とは、サラがラナルフとあったあの日。
 考えてみればあのあと、マリスは外出をしていないような気がした。
 安堵に満ちた心は、ゆったりとマリスの幸せを願った。
「ね、明日お出かけしてきたら?」
 マリスが怪訝そうにする。
「この街にお友達いるんでしょう? 気晴らしにお出かけしてきたら?」
 でも…、と躊躇うマリスにサラは笑いかける。
「ここ数日、気疲れしただろうし、息抜きに買い物とかしてきたらいいし」
 ね?、と笑顔を向ける。
 マリスは逡巡して、微笑んだ。
「それじゃあ明日お出かけしてこようかしら。ありがとう、サラ」
 楽しんできてね、と頷く。
 好きな人と一緒に居ることが一番癒されるだろう。
 難題はまだ沢山残っているが、ひと時ぐらいすべてを忘れてゆっくりしなければならないときもある。
 ゆっくりとそんなことを考えながら、そう言えば、と食堂を見回す。
「あれ? ヴィックは? もう寝ちゃったのかな」
「少し散歩してくるって言ってたわ」
 そう、と頷き、それから少し喋って二人は別れた。
 自室へと戻る途中、立ち止まり廊下の窓から外を見下ろす。
(散歩…ってどこにいるのかな…)
 薔薇園だろうか、ぼんやりと景色を見つめる。
 数秒してサラは踵を返した。
 久しぶりの陽射しに、眩しく思いながら薔薇園へと行く。
 薔薇園の中をゆっくりと歩いているヴィクトールの姿はすぐに見つかった。
「ヴィック」
 明るい声で呼びかけ、駆け寄る。
 ヴィクトールは微笑を浮かべ振り向いた。
「やぁサラ。まだ寝てなかったのかい?」
「ヴィックこそ。早く寝ないと、今度はヴィックが倒れちゃうわよ」
 冗談交じりに言うと、ぽんとサラの頭に手をのせる。
「もうすぐ寝るよ」
 優しい眼差しはわずかな疲労と安堵の光を宿している。
 ヴィクトールもまたずっと傍にいてくれた。
 ありがとう、と言葉にしようとして、突然思い出した。
 そういえば、アルバーサが倒れた日、ヴィクトールに泣いてすがったことを。
 あの時は心配からとはいえ、抱きしめられたのだ。
 その時はなんでもなかったことが、思い返してみれば恥ずかしくてたまらない。
 顔が真っ赤になる。
「どうしたの? サラ」
 きょとんとしてヴィクトールが覗き込む。
「え、あ、うん? あの…ずっと傍に居てくれてありがとうね…」
 ヴィクトールは小さく笑い、頭に載せたままの手でくしゃっとサラの髪を撫でた。
「いいえ。サラのお役に立てるならなんでもしますよ」
 軽い口調だったが、優しさが溢れている。
 そういえばずいぶんと久しぶりのような気がした。
 こうやって自然に会話しているのが。
 ずっと逃げていたから。
 サラは無意識にじっとヴィクトールを見つめる。
 その視線にヴィクトールはややして首を傾げる。
「サラ?」
 ハッと我に返って、視線を揺らす。
「早く部屋に戻って寝たほうがいいよ。すごくぼんやりしてたし、今」 笑みをこぼし言うヴィクトール。
 それはぼんやりしていたじゃなくて見つめていたのだ、とそう思うも口には出せない。
 うん、と頷きつつ、ヴィクトールを盗み見る。
「…………………あの…ヴィック……?」
 長い沈黙の後、ぽつり呟く。
「なんだい?」
「…あの…ね。なんだか…その…ほっとしたら……なんだかさらに目がさえちゃったみたいで……。それで…その…」
 前に進みたい。
 その思いが、不意にわきあがる。
 ほんのりと頬を朱に染めながら、サラは小さく言った。
「え?」
 聞こえなかったヴィクトールが「なに」と優しく返す。
「あの……その…抱きしめて…くれない…」
 ようやくのことで、言葉に出した。
「……………え?」
 明らかに驚いている声に、わずかにひるむ。
 だがもう一歩の勇気を振り絞る。
「あの…この前、……私が泣いてる時抱きしめてくれたでしょう? あの時………すっごくホッとして…あの………穏やかになったって言うか…眠くなったというか……その…」
 しどろもどろで言い募る。
「だから…………してくれたら……ぐっすり眠れそうで…」
 そう言ってサラはうつむいた。
 胸が早鐘のように打っている。
 顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 しばらく沈黙が流れ、「いいよ」と声が聞こえた。
 自分が頼んだことなのに、驚き顔を上げる。
 瞬間、ふわっと抱き寄せられた。
 この前よりも優しくそっと。
 だが意識が違う。
 混乱していたあのときと、今では状況が違う。
 背に手を回すことも出来ず、棒立ちのまま。
 緊張に支配されている。
 だが、強烈な幸福感が身体の中を駆け巡るのを感じた。
 そっと息をつき、目を閉じる。
 と、不意に抱く手に力が加わった。
 ぎゅっと抱きしめられる。
 驚いた瞬間、身体が離れた。
 ほんの一瞬のことに、気のせいだったのだろうかと思う。
 ヴィクトールはいつものように優しい微笑を浮かべている。
「眠れそう?」
「え、あ、うん。すっごく」
 そうじゃあ、早く眠るんだよ。
 サラの背を軽く叩く。
「う、うん。ありがとう。ヴィック…」
 引きつりそうになるのを必死で押さえ、笑顔を作る。
 そして手を振って駆け出した。




 胸を押さえ、早歩きで部屋へと戻る。
 寝室へと入り、ベッドに身を放り出す。
 仰向けになって天井を見上げながら大きなため息をついた。
「ああ、なんか……すごいこと…しちゃった…」
 ほんの数秒のことだった。
 だがその感覚ははっきりと憶えている。
 サラは枕に顔をうずめ、何度も何度もため息をつく。
 ヴィクトールは自分の思いに少しは気づいてくれただろうか。
「……普通…わかるよね…」
 そう呟くも、
「…でも…ヴィックって鈍感そうだし………」
とため息が漏れる。
 ああ〜、とサラは熱くなった頬を押さえた。
 眠くなるため、とか言いながら、まったく目がさえてしまっている。
「ね、眠れない…どうしよう………」
 必死で目を閉じてみた。
 だが目を閉じるとまぶたの裏にヴィクトールの顔が浮かぶ。
 それでもなんとか眠ろうと、小一時間ほど頑張ってみた。
 だが結局睡魔はやってこず、しょうがなくサラは身を起こした。
「………お母様の様子でも見てこよう…」
 そうすればいい加減落ち着くだろう。
 そう考えて、サラはアルバーサの部屋へと向かった。
   






















「本当にホッとしました」
 頬を緩め、吐息とともにヴィクトールは呟いた。
「ああ、私もだよ」
 頷くのはヴァス。
 ここはヴァスの自室だ。
 ヴァスは今は亡き親友の面影を宿すヴィクトールを目を細め見つめる。
「君がサラの傍についていてくれて本当によかった」
 普段は厳格さを漂わせたヴァスが柔和な笑みを浮かべる。
 ヴィクトールは小さく首を振る。
「僕はなにもしていません」
「いや、あの子は本当に君になついているし、支えにしているようだ。私も君がサラの傍にいてくれると信じていたから、アルバーサのそばにずっとついていることができたのだ」
 ヴァスは親しみを込め、頭を下げた。
「ありがとう、ヴィック」
 慌てたようにヴィクトールは苦笑する。
「そんなことないです。僕も………おじさんのおかげでこうして……傍に居られるんですから…」
 目をわずかに伏せる。
 ヴァスはしばらく沈黙し、ヴィクトールを見つめた。
「ヴィクトール…。もう何度、言ったことかわからないが…」
 真剣な眼差し。
「私は君を本当の息子だと思っている。そしてこの屋敷で『家族』として暮らせることを、とても幸福だと思っているのだよ」
 その言葉はとても暖かく、そして優しかった。
 ヴィクトールに切なげな影が落ちる。
「おじさん………。ありがとうございます……」
 ヴァスの気持ちが胸につまり、目が潤んだ。
「もっと早く…ジョージにも会っておけばよかった…」
 しみじみとヴィクトールを見つめ、ヴァスは呟いた。
 


 ヴィクトールの父ジョージはずっと一人だった。
 10代半ばで両親を亡くし、一人で生きていた。
 そんな中でヴァスは常にそばにいて支えてくれていのだ。
 かけがえの無い親友なんだよ、と幼き日、ジョージがそう言っていたのを思い出す。
 だが実際はヴィクトールはヴァスの顔を覚えるほど会ったこともなかった。
 懐かしそうに話す思い出にかならず登場する親友。
 なぜ疎遠なのか。
 なぜ父はヴァスの話をするとき、どこか辛そうなのか。
 解らなかった。


 父が死ぬまでは。


 そして父の葬式へと来たヴァス。


『君は…私の大切な親友の息子であり、私にとっても大切な息子だ。
 一緒に暮らさないか。
 『母』と『妹』と4人で―――――』


 どういう想いを経て、ヴァスが自分を引き取ろうと決意したのか。
 それを考えると、辛く申し訳が無い気持ちで一杯になった。
 素直に申し出を受けれないでいるヴィクトールが、ヴァスのところへと行く決意をしたのは一つの理由。


 ヴァスが苦しそうに眉を寄せ、告げた一言が、理由。


『アルバーサは……長くてあと――――――』





「ずっと終わりが来ないで…僕がこの屋敷を出て行く日が…来れば…」

 ヴィクトールの唇からそっと漏れた言葉。
 深い意味を持つ言葉に、ヴァスは黙って頷く。
 沈黙が流れ、少ししてヴィクトールが言った。
「おじさん…。アルバーサ様の様子を…見てきてもいいですか」
 もちろんだよ、とヴァスは微笑んだ。



























 音を立てないように気をつけながら部屋に入る。
 奥の寝室へと静かに歩み寄ると、ドアがわずかに開いていた。
 そっと中を覗くとヴィクトールがいた。
 真剣な、なにか哀しそうな愛しそうな眼差しで眠るアルバーサを見つめている。
 なぜか、部屋に入れなかった。
 声がかけきれなかった。
 ヴィクトールの唇がゆっくりと動く。
 そして、一つの呟きが、聞こえた。
「早く元気な姿を見せてください……」


 平和な日々の終わりの、言葉。





「―――――母さん」  

   

 ヴィクトールの切なげなため息が、部屋に響いた。