『第15話』





 なにを言っているのか、とっさには理解できなかった。



 先天性の心臓病をわずらい、幼い頃から病気とともに暮らしてきたアルバーサにとって、微熱や倦怠感は習慣的なもの。
 だからここ数日ずっと微熱が続いていたが、気にもとめていなかった。
 ジョージの恩師であるゴードンがアルバーサを診察したある日。
 ゴードン医師がある異変に気づいた。
 しきりに腹部のあたりを触り、なにか気にしている様子だった。
 医師はアルバーサを眉を寄せ見つめ、そして傍らに立つジョージを見た。
 その深刻そうな表情に、わずかに不安がよぎる。


 先生、どうかしました?

 微熱が続いているけど、ただの風邪だと思うんです。


 アルバーサはそう言った。
 ゴードン医師は静かに微笑すると、明日少し検査をしましょう、と言った。
 検査?、と訊くと、大丈夫ですよ、と医師は言った。
 少し貧血気味のようだから、尿と血液の検査をしてみるだけですよ、と。
 その時、怪訝そうにしていたのはアルバーサだけでなくジョージも。


 あたたかくしてちゃんと寝ているんですよ。
 医師が言い、部屋を出て行った。
 そしてジョージも出て行った。
 いつもなら診察のあと、そして夕方になるとお見舞にくるジョージが、その日は来ることがなかった。


 次の日。
 採血を済ませると、ゴードン医師が言った。
「しばらく、薬の量を減らしましょう」
 増えることはあっても、少なくなることなどなかった薬。
 アルバーサが不思議そうにする。
「検査結果がわかるまでの少しの間だけですよ」
 ゴードン医師の真意などわかるわけもなく、ただ「ハイ」と頷いた。


 そしてそれから数日後、ゴートン医師は複雑な表情で、重く口を開いた。
「アルバーサ。あなたのお腹には―――――新しい生命が宿っているのですよ」

 おめでとうございます。

 少しもめでたそうではない、暗い声で医師は言った。
 アルバーサはしばらく呆けたように、医師を見つめる。
 そして笑った。


「なにかの間違いですわ。だって、私が妊娠するなんてあり得ないでしょう?」


 17歳になる少女。
 子供ができる過程を知らないわけがない。
 だが、少女は思い違いをしていた。
 いや、思い込みか。


 愛しいヴァスとの初めての夜は、結婚式の一夜だけ。
 この療養所にきて半年以上が経とうとしているのだ。
 妊娠しているのなら、とうにわかっているはずだ。
 だから、アルバーサは笑って医師を見た。
 医師は「もうすぐ3ヶ月です」と告げた。
 妊娠の兆候が出にくい体質のようだ、とさらに重く付け加える。
 アルバーサは笑みを浮かべたまま、意味がわからないといったように視線を揺らした。
 目が、合った。
 ジョージは哀しそうに、アルバーサを見ていた。
 アルバーサは笑みを張り付かせたまま、心の中の笑みを消す。


 たった一度。
 たった一夜。
 過ちでもなんでもない。
 『夢』をみた夜。
 愛しい『夫』に――――――。


 スッとアルバーサの顔から血の気が引く。
 ジョージの顔を穴のあくほど見つめる。
 医師は少女の子供の父親が誰か知っているのだろう。
 医師は目を伏せる。


「だって……」
 引きつる笑顔。
「私の愛するのはヴァスなんです」
 戸惑い、震える声。
「私の愛する『夫』はヴァスなんです」
 それは真実無二の想い。

「『子供』というのは愛しあう『夫婦』のもとに産まれるのでしょう?」

 同意を求めるように、アルバーサは言った。
 ジョージは顔を歪め、アルバーサから目をそらした。
 重い沈黙が流れる。
 ゴートン医師が、ゆっくりとため息をついた。
「アルバーサ。それは違いますよ」
 なにが違うのですか、感情なく、オウム返しにアルバーサが言った。

 違いますよ。
 
 医師がなにか言った。
 だがアルバーサにはなにを言っているのかわからなかった。
 生まれついての病弱さゆえ、大切に大切に箱のなかで育てられた。
 両親はいつも温かく、自分を愛してくれている。
 そして両親はずっとお互いを尊敬し愛し合っている。
 愛し合う夫婦と、その子供。
 それが家族。
 幸せな家庭。
 アルバーサは外の世界を知らない。
 愛と慈しみしか与えられていないから、外の世界に多くある、辛い現実を知らない。
 子供を捨てる母親。
 子供を虐待する父親。
 政略結婚。
 強姦。
 中絶。
 なにも知らない。


 両親のように、幸せな家庭を作る。
 それだけがアルバーサにとって夢であり理想であり、未来だった。


 愛し合う二人に神様が子供を授けてくれるのですよ。
 そう顔を赤くさせて恥ずかしそうに教えたのは、メイドをしていた少女だった。
 どこから子供は来るの?
 幼子のような純粋な疑問に、4つ年上だったあのメイドが教えてくれたのだ。
 それは真実。

 だがすべてではない。




「いや…」


 すべての世界が、変わってゆく。
 輝いていた世界が、暗く沈んでゆく。
 

 思い違い。
 過ち。
 罪。
 





『この身体の中にいる“生き物”はなんなの?』



 

 ゴードン医師は、感情を隠し、ただ淡々と、状況を説明した。
「出産をするとなるといま飲んでいる薬は出来るだけ飲まなくしなければならない。
 中絶をするとなると、もうすぐ10週目。まだなんとかなる段階だが、だからといってすべてが安全と言うわけでもない。
 感染症を引き起こす可能性もあるし、それに…。中絶をしたことによって、子供が出来にくくなる可能性もないとはいえない」
 アルバーサはただぼんやりと話を聞いていた。
 医師は「決めるのはあなたですよ」と言い残し、部屋をあとにした。
 ジョージを残して。
 ジョージは虚ろに空中を見つめているアルバーサにそっと近づく。 そして頭を下げた。 


「お願いだ、産んでくれ」
 悲壮な声で、ジョージは言った。
「絶対に隠しとおすから」
 なにを隠し通すの?
「母親は子供を産んで死んだことにするから」
 母親? 誰のこと?
「君に母親になってくれなどと言わないから」
 私がなんの母親?
「僕が育てるから」
 誰を?
「だから、産んでくれ。お願いだ」
 なぜ、私が―――?


「殺さないでくれ」
 一際切なく、哀しげな声が響く。
 アルバーサはぼんやりとジョージを眺めた。
 お願いだ、とジョージは懇願し続ける。






 産むことなど考えられない。
 だが、殺してしまうなどと恐ろしいことも考えられない。





 どうすることも出来ないまま日々が過ぎ、そしてアルバーサの母親が見舞いにやってきた。
 母親はすべてを知る。
『お母様』
 母親は愕然と我が子を抱きしめる。
『アルバーサ。あなたのしたことは大きな過ちであり、罪です。ですが子供にはなんの罪もないのです』
 産め、と母親が言い、アルバーサは取り乱す。
『産まれた子は遠縁に預けてもいい。もしあなたがそれでも嫌だというのなら…。あの青年に…育ててもらいなさい』
『でも、お母様…。ヴァスに…』
『関係を壊したくないのなら、黙っているのです。
 罪を犯したのはあなた。それを背負って、幸せになるです。
 真実がすべて幸せなわけではないのですから』
 そう強く母親は諭した。
 アルバーサは泣きながら、頷いた。
 





『産みます』

『でも、この子供は―――――』

『私の子供ではありません』 













 





 リード医師がアルバーサの青白い腕に注射をしている。
 ヴァスそれを見つめながら、祈る。
 早く目覚めてくれと、切実に祈る。
『アルバーサ』
 胸のうちで呼びかける。
 そっとその手をとる。
 幾度となく、発作に苦しむアルバーサの姿を見てきた。
 そのたびにどれほど悔しい思いをしたか。
 アルバーサの苦しみを変わってあげられないことが、自分はただアルバーサが病に打ち勝ってくれるのを待つことしかできないのだ。
 

 そして今も。


 目を閉じ、アルバーサの手に額をつける。

 なにもして上げられることはない。
 だけど、いつものように、この発作から抜け出して、笑って欲しい。 


『……アルバーサ』


「………」


 リード医師が動いた。
 ヴァスも顔を上げる。
 なにか、聞こえたような気がしたのだ。
 苦しげな呼吸の中、微かにアルバーサの唇が動く。
「…アルバーサ…!?」
 その目が薄くぼんやりと開いた。
 だが何も映してはいない。
 そしてまた言葉を発することなく、唇が動く。
『…ヴァ…ス……』
 音はない。
 だが、わかる。
 ヴァスはギュッとアルバーサの手を握り締めた。
 アルバーサの目から一筋の涙が零れ落ちる。
 そして。
 アルバーサの目が、閉じた。











 * * *




 





 心配そうに握り締められた手。
 気を失ったのは数時間だった。
 それから丸一日がたつ。
 もうなにも言葉を発することなく、ただただ母の身を案じ、祈り続けている。
 そしてそんなサラのそばにずっと一緒にいるマリスとヴィクトール。
 マリスは離したらいけない、とでもいうように、ずっとサラの手を握り締めている。
 会話はない。
 誰も喋らず、ただ時間だけが流れていく。
 ふと、マリスが顔を上げた。
 足音が、近づいてくる。
 忙しく、大きな駆けてくる音が近づく。
 ヴィクトールも扉のほうに視線を向けた。
 足音は扉の前で、一旦止まり、そしてノックの音が響いた。 
 不安な面持ちで、扉を見る。
 ヴィクトールが返事をし、扉が開いた。
 肩で息をしながら、真っ青になったメイドが部屋に入る。
「ア…アルバーサ様が」
 サラは表情無くメイドを見る。
 強烈な不安に支配される。
 メイドは大きく息を吸い込み、言った。

「持ち直されました」

 一瞬、シンとした。
 言葉を失くしてメイドを見つめるサラとヴィクトール。
 マリスが問い返す。
「ご無事なのね?」
 そしてメイドはようやく笑みをこぼした。
「はい! まだ絶対安静ですが、危険な状態からは脱せられたと、リード先生が仰られました」 

 その言葉に、一斉に緊張の糸が解ける。

 マリスは顔を輝かせてサラを見た。
 サラは呆けたようにメイドを見ていたが、じょじょに顔を緩ませ、泣き出した。
 大粒の涙をこぼしながら、声をあげて泣いた。
 その涙にマリスもメイドも、目を潤ませた。 

 そしてヴィクトールは優しい眼差しで、サラを見つめていた。