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「明日からオセの家の仕事に回ってもらうよ」
仕事の合間にカテリアの部屋へやってきていたハーヴィスが言った。
カテリアの毛並みを整えていたマリアーヌはきょとんとしてハーヴィスを見る。
この館に来て一ヶ月がたっていた。
早朝から昼間までの仕事はすっかり慣れ、すこしづつではあるが同僚たちと打ち解けてきた頃だ。
それなのに、と思わず残念そうな表情を浮かべるマリアーヌ。
「まぁ仕事内容はそんなに変らないよ。客室の掃除が主だからね。ただ時間帯は少し変る」
火が入っていない暖炉傍のロッキングチェアに座ったハーヴィスは、ゆったりと足を組んでくつろいだ様子でマリアーヌたちを眺めている。
「朝は9時起床で朝食。その後10時からマリーの大好きなお勉強の時間。昼食を挟んで3時までだ。そして4時から8時までカテリアの世話。そのあとオセの家の仕事。夜中の3時ごろまでになる」
マリアーヌは手を止めて、頭の中で時間の計算をする。
確かに仕事の時間帯は間逆になるが、睡眠時間はさほどかわりはない。
「仕事内容はあまりかわりないんだけど、地下は入り組んでいるからよく場所とか教えてもらって覚えるんだよ」
ハーヴィスの言葉にマリアーヌは静かに頷いた。
もう1ヶ月経つというのに、マリアーヌはいまだに地下の構造をよくわかっていない。
朝仕事に行くための通路からそれたことはなく、実際地下で客を見たこともなければ、店がどのように機能しているのかも知らなかった。
新しい仕事場、いやオセの家でようやく働くことになるのだ。
娼婦ではなく雑用としてだが、マリアーヌは無意識のうちに緊張していた。
ニャァ―――、とカテリアの澄んだ鳴き声がマリアーヌをはっとさせる。
慌てて再びカテリアの背にゆっくりとブラシをかけ始めた。
「また一からで大変かもしれないが、すぐに慣れるよ。マリーは仕事を覚えるのも早いようだしね」
にっこりと微笑を向けられるも、マリアーヌは視線を合わせることなくカテリアのつややかな毛並みを見つめる。
ハーヴィスはいつものようにそんなマリアーヌを気にする様子もなく、静かにロッキングチェアを揺らした。
***
扉から一歩踏み出すと、まるでどこかの宮殿に足を踏み入れたかのような気がした。
広い円形のホール。その床に敷きつめられた深紅の絨毯を照らすのは緻密な細工の施された大きなシャンデリア。
まるで宝石のような輝きを放つシャンデリアの灯。
そして中央には地上の扉からつながる螺旋階段がある。
階段の手すりは眩い光沢を放つ金。
鏡のように磨き上げられたその手すりの先、階下の部分には白い女神の彫像がある。
穏やかな、聖母のような雰囲気をした彫像は手すりに右腕を置き、そして左手をこの場所へと促すように差し伸ばしている。
絨毯と同じ深紅の薔薇が、女神の彫像の足元に散らばっている。
そして円形ホールの四方にそれぞれ扉があった。
南にある扉は阿片窟へ。
東西にある扉は娼館へ。
北にある扉はあらゆるものの売買の部屋へ。
客人は地上より案内人に促され螺旋階段を降り、各々の目的の扉へと消えて行くのだ。
光に溢れる、まるで闇の入る隙間もないような場所。
だが一歩扉を開ければ、そこは堕落のみ―――――。
マリアーヌはゆっくりとフロアを見渡し、そしてもう一つの扉――裏へと通じる隠し扉を開きもとの部屋へと戻って行った。
「仕事の内容は難しいことはないです。客室の清掃と、娼婦の娘たちに食事を運ぶのが主な仕事です」
淀みのない声で、そう説明するのはオセの家の支配人マロー。
40代くらいの痩せた男で、華やかさはないが控えめな笑みと穏やかな口調は好感が持てた。
地上の支配人ドリールと地下の支配人マロー。
そして総支配人がハーヴィスとなっているのだ。
「お客様と鉢合わせるようなことはないように。もし万が一会った場合はすぐに低頭し、お客様が通過されるまで頭を上げないこと。移動は迅速に静かに」
マローは言いながら、流れるような美しい字で仕事のポイントを紙に書いていく。
「客室の清掃はお客様が帰られた後に行います。清掃の時間帯は不規則です。食事についても同じ。A棟の娘たちは大部屋にいるので、そこに食事を運びます。B棟に関しては客室ごとに専属の娘がついているので、各部屋へ運びます。
あと、フロアへの立ち入りは厳禁です。あのフロアはお客様のためのものですから」
神々しいシャンデリアと女神のいた螺旋階段のあるフロア。
特別に、とマローに許可されて少しだけ見てきたのだ。
「私達は裏の通路を使います。客室には裏通路につながる隠し扉からはいるようになっています。裏通路はかなり入り組んでいますから迷わないように。それと早く位置関係などを覚えてください」
言い終わってマローは要点を書いた紙をマリアーヌに渡した。
紙には簡単な地下の図面も書かれていた。
マリアーヌは紙面に目を通す。
いくつか読めない箇所があったが、一通りは頭に入った。
「マリアーヌ様にはジェシカという少女と仕事をともにしていただきます。ジェシカは2年働いているベテランですので、なにかわからないことがあったら遠慮なく聞いてください。なお、ここ地下でも通り名は"マリー"とさせていただきます」
そしてマローに促され、彼の執務室から働き場所となる作業部屋へと案内された。
そこには数人の少女が働いていた。
「ジェシカ」
マローが呼ぶと、金髪の少女がやってきた。
つい先日までともに働いていた娘たちよりも静かな落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
地上と地下、その性質の差なのだろうか。
ピンと張った背と一つに纏められた髪、黒いドレスは、この場所に不似合いながらも、まるで修道女のようにも見える。
ジェシカだけでなく、マリアーヌも同じ格好をしていた。
それが地下でのスタイルだった。
「今日からここで働くマリーだ。指導をよろしく頼むよ」
ジェシカは頷きながら、マリアーヌを見る。
「多少慣れるまでには時間がかかるかもしれませんが、頑張りましょうね」
微笑みかけられ、マリアーヌは一呼吸置いて元気に返事をした。
娼婦をする少女達の部屋は華やぎにあふれていた。
入ってすぐの部屋はリビング、その奥はダイニングとなっており大きなテーブルがある。
他に扉が4つあり、彼女たちの寝室となっている。
ジェシカによると、3番人気までの娼婦にはそれぞれ個室が与えられ専属のメイドがついているそうだ。
マリアーヌはジェシカとともにダイニングテーブルに食事を並べていった。
今はこの部屋に本来いる10人の娼婦のうち4人残っている。
残っている少女たちは本を読みながら紅茶を飲んだり、談笑したりしていた。
娼婦たちの年齢は下が11歳、上が28歳までだった。
彼女らは一見すれば娼婦には思えない優雅さがあった。
ナプキンにファーク、ナイフをテーブルに並べつつ、内心マリアーヌは呆気に取られていた。
以前いた娼館とは比べ物にならない、娼婦達の質の高さ。
下世話で粗野で下品な笑い声の絶えなかったあの娼館と、華やかで洗練された雰囲気の漂うこの場所は、本当に同じ仕事場なのだろうか。
そう思わずにはいられない。
この部屋に来る前、2部屋客室の清掃をしてきたが、その客室もまた豪華だった。
「みなさん、食事ですよ」
ジェシカが声をかけると、少女たちは「はい」「今まいります」など可憐な響きをもつ声色で返事をする。
料理を見て、一人の少女がどうやら嫌いなものがあったらしくため息をついている様子が、年相応さを感じさせ微笑ましい。
マリアーヌはジェシカによって皆に紹介された。
よろしくね、と口々に言う少女たちの気さくさと優しげな眼差しに、マリアーヌは必死で笑顔を浮かべるのが精一杯だった。
そしてマリアーヌとジェシカは一通り給仕を終えると、少女たちはお祈りをし、食事を始めた。
――――アーメン。
その言葉が聞こえて、マリアーヌはひどく違和感を感じた。
地下にある厨房へジェシカとともに向かった。
空になったワゴンに、今度は質素な食事が置かれる。
流動食のように思える料理。そして液体の入った小瓶。
B2棟の103だ―――、コックの1人がそう言った。
ジェシカはマリアーヌをちらりと見、行きましょう、と促した。
B棟。
どこかで聞いたことのある単語。
マリアーヌはワゴンを押しながら記憶を巡らせる。
だが思い出すことなく、西側にあるB棟へと着いた。
『103』の番号のついた扉をジェシカがノックする。
B棟では客室にそれぞれ娼婦がついているとマローが言っていたことを思い出した。
どんな豪華な部屋なのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、ジェシカに続いて部屋へ入る。
足を踏み入れ、なにか鉄臭さや、あまり良いとはいえない匂いがするのに気づく。
廊下のほうが明るく感じる部屋の薄暗さ。
部屋は広く、ベッドも大きかった。
そこまでは、A棟の客室と同じだった。
だが―――――。
マリアーヌは無意識のうちに眉をひそめた。
質素、いや何もない。
部屋にはベッドだけ。
それが逆に不自然に思えた。
A棟の客室にはソファーや暖炉があり、美しいシャンデリアに照らされていた。
だが、この部屋はベッドが置かれ、明かりは点在する蝋燭の灯だけだ。
そして絨毯に広がる奇妙な染み。
掃除はしてあるが、どす黒い広がりが、なにか不気味に見える。
なにか居心地の悪さをマリアーヌが感じていると、ジェシカが部屋の中央にたち、声高に叫んだ。
「イレイン!」
そうだ、とマリアーヌは視線を走らせる。
この部屋には専属の娼婦がいるはずだった。
だが、人の気配がない。
そう思った瞬間、チャリ―――と金属の擦れる音が響いた。
マリアーヌは音のしたほうを見る。
ジェシカは最初からその方角に隠れていることを知っていたらしく、一瞥しただけでワゴンを持ってくるようにマリアーヌに指示を出した。
マリアーヌはジェシカとともにベッドの向かい側の死角となっている場所へ行った。
暗がりの中にうずくまった少女がいた。
マリアーヌたちの姿を見、身体を強張らせた少女。
その首につけられた首輪から壁へと繋ぐ鎖が動き、不快な音を響かせた。
「イレイン、食事よ」
ジェシカが言う。
どこかで聞いたことのある名だ、とマリアーヌは思った。
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2006,1,29
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