第3部
31
さらさらと爽やかな風が木立を揺らしていた。
熱をはらんだ太陽の光に照らされ、いくつもの影が生まれている。
等間隔に並んでいるのは十字の白い墓。
「――――"グレーデルの作るキャンディはとても甘くって美味しいから、ぜったいお土産に持って帰ってきてあげるね"」
便箋に目を走らせながら、読み上げていく静かで落ち着いた声音。
語りかけるかのように、読み聞かせているように、しばらくの間、墓所に手紙を読む声が響いていた。
そしてしばらくして、便箋から墓へと視線が向けられる。
「それにしても……いつものことだけれど、あの子たちの手紙にはお菓子のことばかりだわ」
マリアーヌは苦笑を浮かべながら呟いた。
「私たちがいつもお菓子ばかり食べていたせいかしら?」
そう目を細める。
しばらくして再びマリアーヌは便箋に視線を落とした。
この手紙を書いたイアンとイーノスのことを思い浮かべた。
帰ってくる、手紙に書かれたその言葉が必ずしもオセへ戻ることを意味しているわけではない。
聞いたところによるとあと2ヶ月ほどで戻ってくるらしいが、双子がそのままオーレリア夫人のもとに引き取られることになったのは、すでに決まっていた。
二人のことを考えればオセへ戻るよりもオーレリア夫人のそばにいることが最良だろう。
何度か送られてきた手紙から、二人が楽しく、そして健やかに過ごしているだろうことが読み取れた。
二人は少しは成長したのだろうか?
マリアーヌは遠く、だが同じ空の下にいるイアンとイーノスに思いを馳せる。
ほんの数月の間でも、育ち盛りの子供たちならば背も伸びているだろうか。
オセへ戻ることはなくとも、再び会うことはできる。
マリアーヌはしずかに便箋を封筒に収めた。
そしてそれを墓の上に置く。
白い墓石に刻まれた名は"エメリナ・ルートン"。
わずか16歳でこの世を去った美しい少女の眠る墓。
「虫歯だらけになってないといいわね」
笑みを含んだ声で語りかける。
返事はない。
だがそのことに対しマリアーヌが顔を曇らせることはなく、ややして微笑を浮かべたまま立ち上がった。
「それじゃぁ、エメリナ。また、明日ね」
百合の花を残し、マリアーヌは墓所をあとにした。
マリアーヌはオセへ戻ると、地下ではなく地上にある厨房へと向かった。
時計を見、近くにいる者にお湯の準備を頼む。
そして今朝摘んだばかりの薔薇を活けた白磁の花瓶を持ち、庭園に面した客間へと赴く。
テラスには既にテーブルの用意がしてある。椅子は3つ。
準備にぬかりはないか丁寧にチェックをし、置時計を見る。
もうまもなく2時になろうとしていた。
マリアーヌはメイドを一人呼び、ともに玄関ホールへと向かった。
玄関を開けると、ちょうど馬車がやってくるのが見えた。
しばしして馬車がマリアーヌの前で止まる。
御者に促され馬車から降りてきたのは二人の貴婦人。
一人はマリアーヌのマナーの師であるジョセフィーヌ。
そしてもう一人は30代半ばのカーディン伯爵夫人リネット。
「ごきげんよう、マリアーヌ」
声をそろえにこやかな笑顔を向けてくる婦人二人にマリアーヌはもまたにこやかな笑顔を返す。
「いらっしゃいませ。リネット様、ジョセフィーヌ様」
恭しく頭を垂れる。そして先ほどの客間へと案内していった。
週に一度、三人でお茶会をするのが習慣となっていた。
マリアーヌが調合した茶葉で紅茶を淹れる。
茶菓子はカーディン伯爵夫人リネットの好きなナッツクッキーとチョコレート。
「やはりマリアーヌの淹れる紅茶は美味しいわ。どうしてこんなに奥深い風味を出せるのかしら」
リネットが優雅な手つきでティーカップを口元に運んで言った。
自然と唇をほころばせるリネットにマリアーヌも微笑を返す。
「リネット様にお喜びいただけるようにと、お淹れしているだけですわ」
「ありがとう、マリアーヌ」
花のほころぶような笑顔を浮かべるリネットは"オセの家"を創ったエリーザの姪にあたり、ニュールウェズ公の4女だ。
リネットは3人の子を生している。だが子がいるとは思えないほど華やぎと若々しさに溢れている。
それはまるで少女のように奔放な性格とともに、社交界でも先端を行く女性だからだ。
この週に一度のお茶会はリネットから最新の社交界の話などを聞くためのものだった。
社交界に出入りしているリネットとお茶会をすることで、実質的な社交界のしきたりを覚える意味もある。
エメリナの一件からすでに半年以上の月日が流れていた。
すでにマリアーヌも15になり、幼さはわずかに残ってはいるが、大人びた風貌は社交界へ出ても決して引けをとらないだろう風格と気品が備わっていた。
あの白の別荘からオセへ戻って来た日、マリアーヌの生活は再び一変した。
娼館での仕事からハーヴィスのそばにつく仕事へと変えられたのだ。
そこで初めてマリアーヌはハーヴィスが上顧客への売買を直接行っていることを知った。
客の望むものはなんでも提供する―――。
そしてそこではそれまで以上の勉強という名の情報収集を必要とした。
上得意である顧客たちは貴族や高官たち。
彼らの社交界での地位、さまざまな繋がりなど。
仕事のために覚えなければならないことは山のようにある。
そのために、そのための用意されたひとつであるこのお茶会で、マリアーヌはリネットの話を一つも聞き漏らすことがないように耳を澄ませる。
「――――ねぇ、ご存知?」
リネットが楽しげに噂話を披露すべく扇を口元に当てる。
マリアーヌは微笑をたたえ、夫人の会話に相槌を打つのだった。
***
「リネット様が今度カメオが欲しいと仰られていました」
「夫人はどんなものがお好みだったかな」
「そうですね。リネット様は精巧なつくりのものがお好きだから、台はフィリグリーで、絵柄はオリエンタルなものがいいのではないでしょうか?」
「わかった。数種類手配しておこう」
お茶会を済ませた後、報告していると、上司が手をさし伸ばしてきた。
くれ、と言わんばかりの動作。
マリアーヌは雇い主であり、オセの家のオーナーであるハーヴィスににっこりと笑顔を向けた。
「なにか御用ですか? オーナー」
ハーヴィスのそばで仕事をするようになって、一応の区切りをと敬語を使うようにしていた。
ハーヴィスは片肘で頬杖をつくと、ため息混じりにマリアーヌを見つめる。
「夫人からなにか預かっていないかい?」
「なにかってなんでございましょう?」
そ知らぬふりをして首を傾げてみせる。
わずかに眉根を寄せるも、すぐに笑顔に切り替えるハーヴィス。
「クラレンス様がなにかとても良い品ものを手に入れたとかで、僕に下さると言ってらっしゃったんでね。夫人に預けているかと思ったんだが」
「ああ……! ようやく思い出しましたわ。どうぞご安心を。夕食の席で出すようにと指示をだしていますから」
わざとらしくマリアーヌはぽんと手を打ち、微笑を返す。
なんのことはない、夫人から預かったものというのはスコッチのことなのだ。
ハーヴィスは今度ははっきりと顔を引き攣らせると、マリアーヌを見つめる。
「………夕食の前にね、少し味見してみたいんだが」
「今はお仕事中ですし」
マリアーヌがにこやかに拒否すると、恨めしげな視線が返ってくる。
「最近マリーは冷たいね……」
「最近オーナーは飲みすぎです。毎日ワインを何本空けてると思っておいでですか?」
「仕事をスムーズに運ぶためには潤滑油という名の酒が必要なんだよ」
「酒気を帯びてお客様にお会いするのは失礼にあたるかと思いますが?」
「………グラス1杯でいいんだけどね」
妥協するからお願いします、といった感じの眼差しに、ようやくマリアーヌもわずかに頑なな微笑をやわらかくした。
「わかりました。グラスに1杯ですね」
「できるだけ大きなグラスにね」
一番小さなリキュール・グラスに注いでくるつもりでいたマリアーヌに、すぐさまハーヴィスがけん制をかけてくる。
だがそれには答えず、話を次に進めようと口を開きかけたとき鳴き声がひとつした。
玲瓏な声の主は、軽やかに机に飛び乗る。
ニャァ―――。
マリアーヌは見上げてくるカテリアを抱きかかえた。
「カテリア。今日は夫人からとても美味しいパイを頂いたのよ。あとで貴方にも食べさせてあげるから」
カテリアの喉元を撫ぜながら、その瞳を覗き込む。
それに答えるように楽しげに鳴くカテリア。
「なんだか、カテリアには優しいくないかい?」
若干不貞腐れたようにハーヴィスが言うと、当然、とでも言うようにカテリアが一声鳴く。
マリアーヌは思わず笑いながら、カテリアの頭を撫で目を細めた。
「カテリアはどこぞのオーナー様と違って自己管理は出来ているから。それに、お酒を控えてと言っているのは体調のことを心配してのことなのよ?」
ハーヴィスの側について仕事をし始めて、マリアーヌはいかにこのオーナーの生活が不規則かを知った。
ほとんど一日中ワインなどお酒を手元に置き、たまに仕事絡みで出かけているか、この部屋にいるのだ。睡眠時間は1日に3〜4数時間ほどしかとっておらず、毎日の食事の量も少ない。仕事の合間合間に休んではいるが、しかしそれで疲れがとれるとも思えない。
よくこれまで病気にならなかっものだと、マリアーヌはしばしば思っていた。
「ハーヴィスの食事の主たるものと言ったらワインとチーズ。そして少しの果物とかでしょう? もっときちんと食事をとらなきゃだめよ。きのうの夕食だって、せっかくの美味しい子羊のお肉だったというのに一口しか食べてなかったでしょう。そんなことでは―――――」
「……わかった。わかりました、マリー嬢」
最近つい小言を言い始めてしまうマリアーヌに、うんざりしたようにハーヴィスが手を振り遮った。
「……本当にカテリアやジョセフィーヌに似てきたな」
ぼそり呟くハーヴィス。
なぁに?、とマリアーヌが笑顔を向けると、なんでもないよ、と笑顔が返る。
ややして気分を変えるように咳払い一つして、ハーヴィスが書類をマリアーヌに渡した。
カテリアを机の上に乗せ、その書類を受け取り目を通す。
「了解しました」
それまでとは一転して事務的な凛とした声が響く。
「それと、明日"買い"に行くから、マリーもついておいで」
マリアーヌは一瞬目を眇め、そして頷いた。
以前今度連れて行くと言われていた日が来たのだ、と内心複雑な思いがよぎった。
何を、と示すものがない"買い"。それは"人間"を買いに行くということだ。
このオセでは専属の人買いがいるものの、ハーヴィス自ら闇市へと赴くこともある。
自分が売人に買われたときのことを一瞬思い出しかけ、マリアーヌはそっとそれを押し込めた。
それから仕事の話をいくつかし、マリアーヌは執務室を後にした。
書類を手にし、向かったのは地下の奥まった一室。この部屋に来るのは限られた者だけだ。
二度ノックし、中へ入る。
濁ったような空気の蔓延した室内。
中にはさまざまな液体の入ったビーカーや、すり鉢、薬草などが散乱といっていいような形で置かれている。部屋の奥には豚やカエルの死骸。
そしてその中に埋もれるようにして動いている小男が一人。
マリアーヌはここへ来るたびに魔女の家とはこんな感じではなかろうかと思わずにはいられなかった。
「――――ヨアン。二時間後に取りに来ます」
書類の一枚を机に置き、マリアーヌはこの部屋の主である男ヨアンに言った。
ところどころ灰色の混じった白髪頭のヨアンは頷くでもなく、マリアーヌを見るでもない。
マリアーヌもまた返事を待つこともなく部屋を出る。
ヨアンは置いていった書類に書かれた薬を調合する薬師である。
このオセに依頼される"薬"が、どういう用途に使われるのか知る由も知る必要もない。
この薬部屋の存在をはじめて知ったときマリアーヌが思い出したのは、まだオセに来た頃出会ったイレインという名の少女のことだった。
あの少女が飲まされていた薬もまた、ここで作られていたのだろう。
そして続けざまに思い出したのは、ハーヴィスの言った言葉。
『"オセの家"で殺しはしないよ』
それが意味するのは"この敷地内でオセの者が手をくだすことはない"ということ。
だが、そうでない場合、その言葉は意味をなさなくなるのだ。
お客様の望むままに――――。
それが、すべて。
ヨアンに依頼した先ほどの書類に示された薬が、どういった種類のものであるか、マリアーヌはすでに知っている。
娼館、阿片窟。
それらでさえ地上の社交場となんら変わらぬ、ある意味"健全"であるということを、マリアーヌはハーヴィスの側で働くことによって知った。
廊下を照らす蝋燭の灯は頼りなげで、ともすればあっという間に闇に飲まれてしまうほどか細い。
床に大きく伸びる自らの影を引き連れ、マリアーヌはゆっくりと歩いていった。
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2006,7,15
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