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 白い封筒に赤い蝋燭を傾ける。
 溶け出した蝋が落ち、その上に金造りの印を押し封をする。
 顧客宛の数通の手紙。蝋が乾ききってから、マリアーヌはコートを羽織り、それを持って仕事部屋を出た。
 いずれも依頼されていた商品を入手したことを知らせる手紙である。それをオセの家の運び屋である男に渡すと、屋敷の裏門へと向かった。
 すでにハーヴィスもでてきており、馬車の前で御者と話をしていた。
 闇色のコートをまとったハーヴィスはマリアーヌに気づくと、闇に反した柔らかな微笑をマリアーヌへと向ける。
「やぁ、マリー。そのコート似合うね」
 マリアーヌが着ているのは先日仕立てたばかりのダークパープルのコートだ。
 昼出かけるときには地味すぎる色合いにも思えるコートは、夜の薄明かりの中では静かに映える。
「お褒めに預かり光栄です」
 軽くお辞儀をすると、ハーヴィスは目を細め「今日はその堅苦しい物言いはなしにしてくれないかな」と苦笑した。
 マリアーヌは一瞬きょとんとするも、すぐに顔をほころばせる。
「わかったわ」
 手を差し出され、マリアーヌはそっと手を重ねる。
「さぁ、行こうか」
 気軽に、まるでピクニックにでも行くかのようだ。
 そしてハーヴィスとともにマリアーヌを乗せた馬車は、だが決して湖畔でも草原でもない場所へと赴く。
 馬車をとりかこむのは夜の闇。
 これから向かう場所にふさわしいかのように月もない、暗い雲に覆われた陰鬱な夜だ。
 マリアーヌは深い夜闇を窓から眺め、細い吐息をこぼす。
 仕事、とわかってはいても、奴隷市場に行くことは楽しいことではない。
 売られる立場でも、買う立場であってもだ。
 やがて馬車はゆっくりと歩を止めた。
 御者がドアを開き、ハーヴィスの後に続きマリアーヌも地へ降り立つ。
 そして僅かに目を見開いた。
 そこは教会だった。
 そして出迎えるように立っていたのは小太りの男。
 かつてエメリナを贔屓にしていた"美しい髪"に目がないジェイル神父であった。
 マリアーヌは驚きを密やかに隠し、軽く頭をたれる。
 ハーヴィスもまた挨拶をし、神父と談笑しながら教会に入っていく。
 マリアーヌは一歩下がってそのあとをついていった。








 ―――今回はなかなかの粒揃いだよ。
 ジェイル神父はそう言い残し、場を離れていった。
 マリアーヌとハーヴィスがいるのは教会の地下だ。
 階上の聖堂そのままの大きな空間に数十人の"買い手"たちが集っている。
 いずれもそれなりの身なりをした男達ばかりだ。さすがに身分が高いというわけではないが、どこぞのお屋敷の使用人といった者も多い。
「ここではね、大きな奴隷市場に売られていく前の段階で、質の良い子たちだけを選り分けて売っているんだよ」
 そうハーヴィスが囁いた。
 ややして、壇上に進行役らしき男が現れ恭しく頭をたれる。
「マリーも、気に入るような子がいたら言うんだよ。参考にするからね」
 ハーヴィスがちらりとマリアーヌに視線を向け言った。
 小さく頷くマリアーヌの視界に、壇上に上る一人の少女が目に入った。
 少女はなにも着ておらず、華奢な身体を震わせている。
 買い手たちの視線を感じてか、所在無さ気にうつむいた表情は暗い。
 進行役の男は、少女の出身地、年齢、身長体重などを読み上げていく。
 マリアーヌはそっと息を詰めて、その少女を見つめる。
 マリアーヌもまたオセへは売られてきたが、こういった奴隷市場にだされることはなかった。人買いの手によって、直接売られてきたのだ。
 進行役の男が、スタート値を告げる。
 集まった男達が、少女を眺めながら、思い思いに値を吊り上げていく。
 ちらりマリアーヌがハーヴィスを横目に見ると、目に適うことはなかったのか興味なさ気だ。
 ややして売り手は決まり、次の子供が現れる。
 年のころは10歳前後から15歳程度の少年少女が主だった。
 黒い肌の少女もいれば、黒い瞳が印象的な異国風の少女もいた。国が違えば言葉も違う。
 売られているという今の状況に怯えた子供たちはたまに母国の言葉で泣いていた。
 その中でハーヴィスはフランスから売られてきたという亜麻色の髪をした14歳の少女を競り落とした。
 マリアーヌが見る限りでも、それまでの中で一番光りそうな少女であったと思う。
 そして残り二人というとき、マリアーヌは僅かに目を眇めた。
 やせ細った少女だった。
 年は12歳。骨と皮ばかりと言っても過言ではない手足。頬もこけて、生気のない顔。
 だがうねるように少女のまとう白銀の髪と、青い空をそのまま切り取ったかのような美しい瞳に目を奪われた。
 そしてこの状況にまったく臆した様子がないところも。
 マリアーヌの胸のうちに、ひとつの想いが落ちる。
 それは売られているという、その少女にたいする憐憫でも同情でもなく、
 ――――使える。
 という、もの。
 娼婦たちの世話係をしたことで、どういった少女が向いているか、向いていないかを感覚的にだが理解していた。
「気に入った?」
 不意にかけられた声にハッとして見ると、ハーヴィスが微笑している。
 マリアーヌは曖昧に視線を逸らす。
 目を惹かれた、というのは事実だ。
 だがあの少女が使い物になるかと問われれば、自信を持って肯定はできない。
 それに―――――。
 チリ、と胸の奥が疼くのを感じながら、マリアーヌは再び少女を見た。
 そしてその横で、ハーヴィスが、その少女を競り落とした。











 教会を出ると、空には月が出ていた。
 今夜買ったのは少女2人だけ。その少女たちはのちほどオセヘ連れて来られることとなっている。
 ジェイル神父に挨拶をし、馬車へと向かう。
 だがハーヴィスは乗り込まず、空を見上げている。
「ハーヴィス?」
 どうしたのかとマリアーヌが声をかける。
 ハーヴィスはあごに手を当て、わずかに逡巡している様子を見せた。
「たまには散歩がてら歩いて帰ろうか?」
 ややして楽しげな笑みを浮かべ言った。
 歩いて?、と思わず怪訝になってしまう。
 綺麗な月が見えるしね、そうハーヴィスが夜空を見上げた。
 陰鬱で暗い雲はまだ空を多く覆っている。だがところどころ雲の切れ間からは星が見えている。
 そして真珠色をした満月も、また。
 マリアーヌが空を見上げている間に、ハーヴィスは御者に先に戻るよう伝えていた。
「さ、行きましょうか。お嬢さん」
 にこりと儀礼的な微笑をたたえたハーヴィスが腕を差し出す。
 マリアーヌはきょとんとして、だがすぐに笑みを浮かべるとハーヴィスの腕に腕を絡めた。
 教会を出るまでに雨でも降ったのか、石畳はわずかに湿っている。
 カツン、カツンと時折ハーヴィスの持ったステッキが地面を鳴らす。
 通りは深夜とあってか、人通りはほとんどなく、静かだった。
「ジェイル様が、あの娘の髪は手入れをすれば素晴らしく美しくなるだろう、と言っていたよ」
 軽い笑いを含んだハーヴィスの言葉に、マリアーヌはぎこちなく笑みを返す。
「どの少女?」
「マリーが選んだ少女だよ」
 幾度目かの胸にチクリとした痛みを、マリアーヌはおぼえる。
「そう」
 自分が選んだあの少女。
 彼女はオセで光を得るのか、闇を得るのか。
 顔を曇らせマリアーヌは視線を石畳に落とす。
「――――僕たちが買わなくとも、誰かに買われていた。あの少女にとっては誰に買われようが同じだったと思うよ」
 まるで心のすべてを見透かすような、穏やかな声音が優しく耳を打つ。
 不意にかけられた言葉にマリアーヌは戸惑ったようにハーヴィスを見上げた。
 視線が合う。
 ハーヴィスは目を細め、続けた。
「そしてその先、あの少女がオセへ来てどうなるかなどわかる由もない。選べない道もあるが、予期しない場に遭遇したとき、どういった態度をとるかは本人次第。人は道を選び、ただ生きていくしか出来ないんだからね」
 ――――だから君が罪悪感を感じるのは、半分ほどにしておいたほうがいいよ。
 歩はいつのまにか止まり、マリアーヌはハーヴィスを見つめる。
 なにか言葉を返そうとするが、できない。
 あの少女が競り落とされたとき感じた胸の痛みの根源は―――そう、罪悪感とそして恐怖。
 目を惹かれ気に入ったのも事実。
 だが実際自分が目をつけたことによりオセへと買われたことが、彼女にとって最良かわからない。
 もしも、彼女が、最悪の状況になってしまったら、と、考えずとも浮かぶ想い。
「君が選び、僕が買った。そしてあの少女はオセへ来る。だがあの少女の未来すべての責任を負う必要はないよ」
「………ええ」
 小さく、か細い声で、マリアーヌは頷く。
 同意の返事だが、表情はついていかない。
 ややして、そっとハーヴィスの指がマリアーヌの頬に触れた。
「あの少女と君の人生は違う。いまは交わっているがね」
 つと撫でられた頬にわずかな暖かさが伝わる。
「ごめん、説教臭くなってしまったね」
「……ううん。大丈夫、わかっているから」
 マリアーヌがぎこちなく笑みを返すと、ハーヴィスは目を細め、
「不安を消すことができないのなら、あの少女がオセを出て行くまで見守ってあげるといい」
 そう言った。
 小さくマリアーヌは頷く。
 ハーヴィスの言う通りにしたいと思う。だが、一方でできるだろうか、と思ってしまう。
 心の奥深くに封じ込めた傷が、ジクジクと痛むのだ。
 毎朝欠かすことなく親友だった少女の墓を参る。
 在りし日のように、他愛のない会話を投げかける。
 決して帰ってこない少女の声。
 ハーヴィスによって少女を失った悲しみ、後悔、それらから目を背けることをしなくなった。
 罪も罰も、そして幸せからも、逃げない。
 そう、決めたのだ。
 だが、それをすべて成すことはできない。
 マリアーヌの意志を無視し、傷は鈍い痛みを持ち、そして痛みにより、恐怖を覚えるのだ。
 逃げ出したい。
 いや、逃げたいのではない。
 ただ、怖いだけ。
 いつになったら、すべてを享受できる大人になれるのだろうか。
 そう思い、マリアーヌは知らずため息をこぼした。
「―――――僕も、初めてのときは怖かったよ」
 ハーヴィスの手がそっと腰に添えられ、再び二人はゆっくりと歩き出す。
 マリアーヌはハーヴィスの横顔を見つめた。
「……初めて……奴隷市場へ行ったとき?」
「そう。今日のようなところではなく、大きな広場でね。まるで家畜のように連れられてきていたな」
 そのときのことを思い出しているのか、ハーヴィスは遠くを見るように目を細めていた。
「買ったの?」
「買ってもらったよ、我が主に。可愛らしい少女をね―――」
 あの少女は気の毒だったな。
 ぽつりと、聞き取れないくらいの呟きに、え?、とマリアーヌが聞き返す。
 なにか引っかかりを覚えたが、それよりもハーヴィスにも怖いと思うことがあるのだということが驚きだった。
「ハーヴィスでも怖いことってあるのね」
 思ったことを素直に口にした。
 とたんにハーヴィスが吹き出す。
「当たり前じゃないか」
「そうかしら」
「そうだよ」
「うーん」
「そう見えない?」
「……ええ」
 頷くと、ハーヴィスは大きく笑い出した。
 なにがそんなに可笑しいのだろうと思うほど、しばらくの間ハーヴィスは笑っていた。
 そして、
「いつか、マリーに教えてあげるよ」

 僕の怖いものを――――。

 笑いの中で呟かれた言葉。
 怪訝に思うも、ハーヴィスの笑顔からはそれ以外なんの表情も読み取れなかった。










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2006,7,26