26
どこへいくのだろう。
マリアーヌたちを乗せた馬車は街並みを抜け出し田舎道を進んでいた。
ガタゴトと揺れる馬車の窓からマリアーヌは流れる景色を眺める。
畑や、小さな民家が立ち並ぶ風景は、かつて暮らしていた村を思い出させた。
オセを出て2時間ほど走った先の湖畔で馬車は止まった。
緑に囲まれた静かな空気に包まれている。遠くで鳥,たちが楽しげにさえずっていた。
窓から見える湖にマリアーヌは目を細める。
太陽の光が水面に反射し、キラキラと輝いて見えた。
どこなんだろうか、マリアーヌはちらり隣にいるハーヴィスを盗み見る。
ややして馬車の戸が開かれた。
カテリアが降り、続いてハーヴィスが降りる。
―――お帰りなさいませ。
外で男の声がした。
―――久しぶりだね。
そう返事をしているハーヴィス。
男とハーヴィスは少しの間なにか会話をしていた。
マリアーヌは馬車から降りずに、じっとしている。
ややして、「マリー」とハーヴィスが顔を覗かせた。
「なにやってるんだい。早く降りなさい」
マリアーヌは返事をせずに顔を背ける。
「……まったく。さっきみたいに抱きかかえて運ぶよ? いいのかい」
馬車がわずかに軋む音を立てる。ハーヴィスが馬車の中へ身を乗り出し、手を差し伸べた。
こんなところでじっとしていても埒があかない、そう思うが、返事をしたくなくマリアーヌは口をつぐむ。
ハーヴィスのため息が響いて、その手がマリアーヌの背に回される。
抱き寄せようとするハーヴィスに、ようやくマリアーヌは身をよじりながら口を開いた。
「一人で降りれます」
久しぶりに出した声は、わずかに掠れ冷たい響きを持っていた。
「そう、じゃあ降りなさい」
まるで気にする様子もない、逆に笑いを含んだハーヴィスの返事に、マリアーヌはムッとしながら降りようとした。
だが、ふっと動きを止め、自分を見下ろす。
そこでようやくマリアーヌは自分がネグリジェ姿だということに気づいた。
わずかに青ざめたマリアーヌに、ハーヴィスが「どうしたんだい」とからかうように声をかける。
ハーヴィスを見ると、小さく笑っている。
まるでさも「だから着替えなさいといっただろう」と言っているような眼差し。
歯軋りしたい思いに駆られながら、マリアーヌは羞恥を抑えて平然さを装い馬車を降りた。
だが馬車のそばに使用人らしき人間が5人集まっているのを見て、ひるむ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
侍女らしき少女二人、女中頭のような40代くらいの女性が一人、門番のような屈強な男が一人。
そしてその四人を引き連れて立つ執事のような50代くらいの男が、そう言った。
初めて会ったことは間違いないし、この場所にくるのも初めてだ。
そもそも"お嬢様"などと呼ばれるいわれも、立場でもない。
困惑したマリアーヌは一瞬すべてを忘れて、助けをもとめるようにハーヴィスを見た。
微笑をたたえたハーヴィスと目が合って、マリアーヌは我に返って視線を逸らす。
「マリー。彼はコンラッド。なにか入用なときは彼に言うといい」
コンラッドと呼ばれた男は恭しくマリアーヌに向かって頭を垂れた。
とりあえずマリアーヌもお辞儀を返す。
顔を上げ、改めて彼らを見て、その後方に一軒の家があるのに気づいた。
真っ白な、館というにはちいさな建物。
2階建ての、だが民家というには洗練された感じを受ける家だった。
「それじゃぁ、なにかあったら来るよ」
ハーヴィスはそう言って、マリアーヌを振り返る。
行くよ、と歩き出した。
向かう先は白い家ではなく傍らに広がる森の小道だ。
道というには足場の悪い細さのそこをカテリアがさっさと走り抜け、ハーヴィスもまた進んでいっている。
マリアーヌは戸惑ったようにコンラッドのほうを見る。
低頭したいたコンラッドは微笑して、「ごゆっくりお過しください」と促した。
仕方なくマリアーヌは憂鬱な眼差しをハーヴィスの後姿に向け、後を追った。
ネグリジェの裾を持ち上げて、薄いルームシューズで小道を歩く。
見ていた以上に道と呼べるものではないと思った。
小高い丘を登っているような坂道を過ぎると、一気に視界が開ける。
そこにはふもとにあった家と同様の真っ白な館があった。
オセの家よりはずいぶんと小さいが館と呼ぶにふさわしい邸宅。
ハーヴィスはその館の玄関のところでマリアーヌを待っていた。
「早くおいで」
ハーヴィスが柔らかな笑みで手招きする。
マリアーヌは視線をあわせないようにしながらゆっくりと歩を進めた。
近づいてみると扉も白く、表面には草花の彫刻が施されていた。
ハーヴィスが鍵を開ける。
開かれた扉の向こう側から微かな花の香りが漂ってくる。
「お入り」
屋敷の中もすべて白かった。床は白の大理石。
広い玄関フロアは円形になっており、正面に続く長い廊下とすぐそばに2階へと続く螺旋階段がある。
壁には風景画が多くかけられている。
白を基調としているからか、静かな場所だからか、オセとはまったく違う空気をマリアーヌは感じた。
爽やかな香りを漂わせる館内をぐるりと見渡す。
ふっと足元を風が吹く。
視線を落とすとカテリアが迷いなく廊下を進んでいっていた。
「ここはね、エリーザの別荘なんだ。おいで、マリー。部屋に案内してあげるよ」
オセの家の主―――エリーザ。
オセとはまったく趣のことなるこの館。
エリーザとはどういった女性だったのだろう、一瞬そう思う。
「さぁおいで」
螺旋階段に足をかけたハーヴィスがマリアーヌに手を差し伸べる。
だがやはりマリアーヌはその手をとることなく、黙って後についていった。
二階の最奥の一室に案内された。
その部屋もまた白を基調にしてある。
調度品もテーブルも、ソファも、カーテンもまた白。
広いテラスと、その向こうに緑が広がっているのが見える。
「この部屋を使いなさい。僕の部屋は階段昇ってすぐのところだからね。ああ、カテリアのことは気にしなくていい。一人きままに過ごすだろうから」
笑みを浮かべ説明するハーヴィスに、ようやくマリアーヌは視線を止めた。
いったいここへ何をしにきたのか、無言で問いかける。
ハーヴィスは部屋の中へ入っていくと窓を開けた。風とともに木々のやわらかな香りが吹き込んでくる。
「ここでしばらく休暇を過ごすんだよ。僕もたまにはゆっくりしたいからね。――――君もゆっくり休みなさい」
ああ、それと小一時間ほどしたら昼食だから降りてくるように。あと、夕食は呼びにくるから。コンラッドたちはさっき馬車のとまったところにある家に住んでいる。ここに使用人はいないんだ。だから自分のことは自分でするように。いいね? 着替えはクローゼットにあるよ。
そう、ハーヴィスは言うと、マリアーヌの傍らを通り部屋を出て行った。
休暇?
眉を寄せ、ハーヴィスの背中へどういうことか問いかけようとする。
だが声をかけるのをためらっているうちに、扉は閉ざされた。
一人になった室内で、マリアーヌはしばらくしてから小さくため息をついた。
日当たりのよい部屋らしく、部屋中が太陽の光に溢れている。
オセの自室にはない爽やかな静けさ。
そのすべてが苦痛であるかのようにマリアーヌは顔を歪ませ、そしてソファに座り込んだ。
ソファの上で膝を抱え、顔を伏せていた。
すべてを遮断するように息を潜めて目を強く閉じている。
目を瞑ることで得られるわずかな暗闇の中で、マリアーヌは双子のことを思った。
仕事は続けているのだろうか。
無理はしていないだろうか。
幼い二人の泣き顔を思い出し、マリアーヌは唇をかみ締める。
と、扉がノックされた。
微かに肩を震わせるも、顔は伏せたまま。
扉は開くことなく、扉越しにハーヴィスが話しかけてくる。
「―――マリー。昼食の用意ができているから、来なさい。食堂は一階の廊下を挟んで左側奥から2番目の部屋になる。扉を開けたままにしておくからね」
なにも食べる気などしない。
「それと僕は昼食をとったら、少し出かけてくるよ。マリー、聞いてるかい」
もちろん返事はしない。
ぐっと身を縮め、自分を抱くように膝を抱える手に力を加える。
「あとでもいいからちゃんとお昼は食べるんだよ」
そう言葉が続き、再び静けさが戻った。
ほっとしたが、しばらくして、笑いを含んだ声が響いた。
「いつから君は食べ物を粗末にするほど、偉くなったのだい」
そして部屋の前から離れていく足音が静かに聞こえてきた。
マリアーヌは眉を寄せて、ゆっくりと顔を上げた。
最後のハーヴィスの言葉が胸に突き刺さっていた。
ろくに食事もとれなかった数年前が思い出される。
偉くなったなどと思っているわけじゃない。
粗末にしているわけじゃない。
ただ――――。
マリアーヌは苦しげに視線をさ迷わせる。
しばらくの間悩み、マリアーヌは静かに部屋の扉を少しだけ開けてみる。静けさに包まれた廊下には人の気配はまったくない。
マリアーヌは音を立てないように気をつけながら階段のところまで行き、階下の様子を伺った。
どれくらいしてからだろうか、微かな足音が聞こえてきた。
わずかに身を引いて隠れるが、こちらへくる様子はなく、どこかの部屋に入ったようだった。
そしてさらにしばらくしてから再び足音が響いてきた。
そっと伺うと、足音は玄関フロアのほうへ近づいてくる。
部屋に戻ろう、そう思って立ち上がろうとしたが、足音の主ハーヴィスは玄関の扉を開き出て行った。
マリアーヌはしばらく閉じた扉を見つめた。
ハーヴィスが戻ってくる様子はなく、マリアーヌは恐る恐る階下に降りる。
扉が開けたままになっている食堂へと行く。
食堂もやはり白を基調としていたが、大きなテーブルは木目の美しい磨かれたものだった。その上に昼食が用意されていた。
木の実のパン1個とサラダとミルク、それだけだ。
拍子抜けするほど少ない量だったが、食欲のなさを考えればそれでも食べれるか不安だった。
椅子に腰掛け、パンを手に取る。小さくちぎって口に入れる。
咀嚼し、飲み込もうとするもなかなかできずに、ミルクで流し込む。
数日ろくにものを食べていないためお腹は空いているような気がするのに逆に嘔吐感を覚えた。
マリアーヌは小さくため息をつき、まだほんのわずかしか欠けてないパンを憂鬱に見下ろす。
食欲は一向にわきはしないが、残すことははばかられてマリアーヌはしかたなくゆっくり一口づつ食べる。
結局、食べ終えるのに小一時間ほどかかり、食器の片づけをしてからマリアーヌは部屋に戻った。
ただ食事をするだけのことでひどく疲れた気がする。
寝室に入ってみると、オセの自室よりも大きい天蓋つきのベッドがあった。
天蓋は金色だがシーツもなにもかも真っ白で、ベッドのある壁には花畑の描かれた絵が飾られていた。
ふらりとベッドに横になると、身体をつつみこむようなやわらかな感覚。
ふわふわの枕を引きずり寄せ、マリアーヌは目を閉じた。
音楽のように感じる小鳥の囀りと、木々のざわめき。
久しぶりの満腹感とあいまって、マリアーヌはいつのまにか眠っていた。
***
頬を撫でられたような気がした。
ややしてそっと髪を撫でられたような気がした。
眠りの中から、意識がゆるゆると現実に浮上する。
ほんのわずかに目を開け、すぐに閉じる。
ほんの一瞬のまばたき。
そしてそのまばたきをした瞬間、目に映ったのはハーヴィスだった。
なんの感情も見出せない、無表情な眼差しをしていた。
優しく髪を撫でる感覚はずっと続いている。
それを感じながら、マリアーヌは再び深い眠りの中に落ちていった。
***
「マリー、マリー」
肩を揺さぶられ、マリアーヌは目を開けた。
とたんにハーヴィスの微笑が目に映る。
「夕食の準備ができたよ」
正装していないハーヴィスに、マリアーヌは思わずきょとんとしてしまう。
見覚えのない部屋に半身を起こすときょろきょろとあたりを見渡す。
「寝ぼけてるのかい? ほらほら、僕の美味しい手料理が冷めないうちに下へ降りてきなさい。それといい加減に着替えるように」
いいね、と笑みを残すとハーヴィスはさっさと部屋を出て行った。
覚醒するにつれ、ようやく今朝ハーヴィスに連れられ別荘へきたことを思い出す。
さっき昼食をとったと思ったのに、もう夕食?、そう視線を揺らすと窓の外はすでに闇に包まれていた。
どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。
まだわずかに睡魔の残る頭を、軽く振った。
まだなにも食べる気分ではない。
そう思うも、ふとマリアーヌはハーヴィスが去っていった扉のほうを見る。
「………手料理?」
確かに聞いたその言葉に、思わず呟いていた。
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2006,5,28
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