27






 クローゼットには数十着のドレスがあった。
 どれも見たことのないデザインばかり。わざわざこの休暇用に用意したのだろうか。
 マリアーヌは迷った末に、一番地味なモスグリーンのドレスに着替えた。
 だがどうしても食堂に行く気になれない。
 ハーヴィスの顔など見たくない。
 ハーヴィスの声など聞きたくない。
 なにも食べたくも、動きたくもない。
 深いため息がこぼれる。
 憂鬱な気分でしばらく悩み、マリアーヌは仕方なく食堂へと向かった。
 食堂に入るとツンと鼻につく香辛料の香りがした。
 ハーヴィスとカテリアはすでに食事をしている。
「少し冷めてしまったよ」
 ワインを飲みながら、ハーヴィスが目を細めマリアーヌを見る。
 マリアーヌは顔を背け、食事の用意がされた席へと腰をおろした。
 そして目の前に並べられた料理を見て、わずかに眉を寄せた。
 赤い色をしたスープらしきものの中には野菜とチキンが入っているようだ。あとはパンとサラダ。
 昼食同様夕食もまたオセと比べて質素だ。
 マリアーヌはじっと赤いスープを見つめる。
「ああ、それはねいろんな野菜とチキンをトマトで煮込んだものなんだよ。味付けは少しスパイシーにしているよ」
 これをハーヴィスが作ったのだろうか?
 ちらりとハーヴィスのほうを盗み見る。同じメニューが並んでいるが、相変わらずワインばかり飲んでいるようでパンしか手をつけていないようだった。
 そしてさりげなくカテリアのほうも見てみる。こちらのほうはメニューが違い、彩りの良いサラダと白身魚がプレートにのっていた。カテリアは美味しそうに食べている。
 マリアーヌはスプーンを手にし、逡巡したのち思い切ってスープを口に運んだ。
「…………っ!」
 妙な辛さに顔が強張る。
「美味しいだろう?」
 得意げな微笑を浮かべたハーヴィス。
「……どっ、どこがっ―――」
 スパイシーどころじゃない、味見はしたのか?、とマリアーヌは思わず文句を言いかけた。
 だが小さく笑ったハーヴィスと目が合い、言葉を途切れさせる。
 ぐっと気持ちを押し殺し、パンや水でごまかしながらスープを食べだした。
 だが若干刺激が強いせいか、胃が痛くなり嘔吐感を覚える。
 一口、二口とスプーンを動かすのに数十秒要する。
 まだほんのわずかしか食べていない段階で、耐え切れずスプーンを置いた。冷や汗が背筋を伝う。
「具合でも悪くなったかい?」
 かけられたハーヴィスの声は心配そうではなく、なにか笑いを含んだものだ。
 不快感にマリアーヌはにらむようにハーヴィスを見た。
 テーブルに頬杖をついたハーヴィスはワインを揺らしながら笑う。
「ろくに食べていなかったから胃が弱っているんじゃないのかい」
 マリアーヌは無視するように無理やりスープを口にする。
 だがやはり食べ進めることが出来ない。
「具合が悪いのなら無理に食べることはないさ。ただこれからは少しでもいいからきちんと食べるようにしなさい」
 厳しいでもなく、冷たいでもない、単調な声だった。
 マリアーヌはうつむき、唇をかみ締める。
「――――片付けは僕がしておくから、部屋に戻りたいんだったら戻っていいよ」
 ちらりともマリアーヌを見ずに、ハーヴィスが言った。
 マリアーヌはぎゅっと拳を握り締め、しばらくして席を立った。
 早足で部屋に戻って、ベッドに倒れこむ。
 言いようのない悔しさと、そして苦しさが胸を軋ませる。
 マリアーヌはきつく目を閉じ、すべてを遮断した。

 






***











 別荘へ来て5日が過ぎた。
 だが初日となんら変わりはない。
 ハーヴィスとカテリアとともに夕食はとる。だがそれ以外はずっとオセにいたときと同じように部屋にこもりっきりだ。
 ただ一つ違うのは部屋が明るすぎるということ。
 部屋中に差し込む陽射しは暖かく、窓越しにも響いてくる鳥達の戯れる鳴き声は優しい。
 穏やか過ぎる空気が、痛い。
 できるならば、なにも感じず、なにもしたくない、みたくない。
 必死で目を閉じていることしかできない。
 だが時折、眩しさに憂鬱に窓の外へと視線を転じることがあった。
 そのつど、重いため息がこぼれる。
「――――マリー」
 ここへきてからの日課になりつつあるハーヴィスの訪問。
 ノックをすることもせず、突然部屋にやってくるのだ。
 ただ、散歩してくるよ、というだけのために。
 そしてマリアーヌもまた、いつもと同じように返事をしない。
「出かけてくるよ。今日もいい天気だよ」
 だが今日はそのまま部屋をでることなく、ハーヴィスはベッドに腰を下ろした。
 ベッド脇に座り込んでいたマリアーヌの髪を撫でる。
「君も一緒に出かけないかい? ずっと閉じこもっていると腐ってしまうよ」
 笑いを含んだ声と優しく撫でつづける指先。
 マリアーヌはひたすらに無言を通す。
「まったく君はほんとうに頑固というか……。その悪い癖は治したほうがいいねぇ」
 最後のほうは独り言のような呟きだった。
 かすかにベッドが軋む音がして、ハーヴィスがマリアーヌの前に立つ。
 その手がマリアーヌへと差し出された。
「ほら、出かけよう?」
 反応しないマリアーヌ。
 ハーヴィスがマリアーヌの手を取る。
 伝わるハーヴィスの手の暖かさに、とっさにマリアーヌは振りほどいた。
 苦笑混じりのハーヴィスのため息が響く。
「オセに来たころの君に逆戻りだね。まぁ……いいけど。あとで、おいで」
 僕は湖へ行っているよ。
 そう、ハーヴィスは言った。
 頑なに口を閉ざし、マリアーヌは必死に顔を背けていた。
「――――イアンとイーノスのことで話があるから」
 さりげなく告げられた言葉に、びくりと、身体が震える。
 ゆっくりと顔をあげたころには、すでにハーヴィスの姿はなかった。









***












 マリアーヌは外に出、あまりの眩しさに目を細めた。
 木々の香りをはらんだ風が髪を揺らす。
 空には細い雲がわずかにうかぶばかりで、目に痛いほどの光をたたえた青さを広げている。
 重い足取りでマリアーヌは道とはいえない道を下っていく。
 使用人たちが住んでいる白い家の横を通ったとき、なにか甘い香りがした。
 家の向かい側から、かすかに馬のいななきが聞こえてくる。
 ハーヴィスと過ごす別荘は広すぎ、静か過ぎて生活感を感じない。
 白い家から漂う人の生活する音を漏れ聞き、マリアーヌは久しぶりに現実を実感した。
 ゆっくりと湖に向かい、湖をぐるりと見渡す。
 木陰になったところにハーヴィスの姿があった。
 歩み寄ると、手に釣りざおをもっていることに気づく。
 糸はしずかに湖の水面に下がっていた。
「マリーは釣りしたことある?」
 足音で気づいていたのか、ハーヴィスから若干離れたところで足を止めたマリアーヌに声がかかった。
「久しぶりなせいか、まったく釣れないんだよね」
 マリアーヌの返事をはなから期待していないのか、ハーヴィスはそう言って笑った。
 風にほんのすこし凪ぐ水面を眺め、マリアーヌは双子のことに想いを馳せる。
 二人になにかあったのだろうか、早く話を聞きたいと思うもそれを問うことができない。
「父も釣りはいまいちだったから遺伝かな」
 ごく自然な言葉。
 だがマリアーヌはわずかに驚いたようにハーヴィスの横顔を見た。
 オセのオーナーであるこの男にも親がいる。
 当たり前のことなのに、違和感さえ覚えてしまう。
 ハーヴィスの家はオセであり、彼がほかに故郷を持っているなどと想像できなかった。
「…………どこに……いるの」
 思いがけず口をついて出ていた。
 ハーヴィスはきょとんとしたようにマリアーヌを見る。
 そして笑った。
 明るく、だが真意の取れない笑み。
「さぁ? どこかで生きてはいると思うけどね」
 どこかで―――?
 どういう意味なのだろうか、と思うマリアーヌの視界の中で水面が大きく揺れた。
 パシャン、と小さな水しぶきが上がる。
 目を向ければ釣り糸が震えるように動き、その先に小さな魚を捕らえていた。
 平べったい小さな魚がなんという名をもつのかマリアーヌは知らない。
 ハーヴィスは跳ね回る魚を気にもとめず、さっとつかむ。
 傍目にはわからずとも強く掴んでいるのだろう。魚は頭と尻尾を激しく振るも、ハーヴィスの手から逃れることができない。
「ところでイアンとイーノスのことだけど」
 慣れた手つきで魚の口元から針を外しながらハーヴィスが言った。
 ぼんやりとその光景を眺めていたマリアーヌはハッとして顔を曇らせる。
 ひとつ息を吸い込んで、止める。そして心を落ち着かせるように空気を飲み込む。
「オーレリア夫人が以前ご病気になられたことは知っているよね?」
 その名が出たことに、安堵とともに苦しさを感じる。
 数ヶ月ほど前だが、オーレリア夫人は病に倒れた。最初はただの風邪だったらしいが、こじらせてしまい生死をさまようほどの状況に陥ったらしいということ。そしてそれ以降体調を崩されることが多くなったとも聞いていた。
「精神的にも最近は気落ちする日々が多いらしくて、田舎の別荘へ静養に行こうかと考えていらっしゃったんだ。それでそこへイアンとイーノスを同行させられないかと最近打診されていたんだ」
 マリアーヌは思わず息を止め、そして緩くため息を吐き出した。
「同行といっても、それ次第ではそのまま身請けされる可能性も多いからね、少しお返事をするのに時間をいただいていた。だが先日、あの一件があって―――」
 イアンとイーノスが仕事中に泣き出してしまった、あの日。
 マリアーヌは息苦しさを感じ胸元に手を当て、目を伏せた。
「事情をお話したら、どうしても二人を連れて行きたいとおっしゃられたんだ。二人のためにも、静かなところで休養が必要だろうと」
 言葉にかぶさるように、再び水の跳ねる音がした。
 視線を向けると、さきほど釣った魚を逃がしたようだった。
 手のひらよりも小さかった魚の姿はすぐに水の中に消えていった。
 いまの魚は子供だったからね、とハーヴィスが呟いた。
 そして餌をつけなおされた糸が弧を描き水面に落ちていく。
「オーレリア夫人の言うことももっともだからね、ご好意に甘えることにしたよ」
 そうだろう。
 それが、いまはいいだろう。
 そう、マリアーヌは俯き、自分に言い聞かせるように胸のうちで呟く。
 オーレリア夫人ならイアンとイーノスを大事にしているし、きっとよい方向へ彼等の人生を導いてくれるだろう。
「………いつ」
 出発するの、と最後は言葉にならなかった。
 わずかな沈黙のあと、
「明日朝―――。急だったが、オーレリア夫人が双子のためにも早く出発したほうがいいだろうと仰られてね」
 とりあえず明日午前中、僕は一旦オセに戻ってくるよ。
 ハーヴィスは静かに言った。
 そして再び沈黙が流れる。
「元気で、と。私のことは心配しないで、と」
 震えそうになるのを必死で堪え、マリアーヌは唇を動かした。
「そう、伝えて。イアンとイーノスに」
 このまま二度とイアンとイーノスにも会うことがないかもしれない。
 エメリナのときとは違う。
 オーレリア夫人は必ず双子を幸せにしてくれるだろう。

 だから。
 だから、送り出さなければいけないのだ。

 歯を食いしばって、マリアーヌは身を翻した。
「二人にはちゃんと、伝えておくよ」
 歩き出したマリアーヌの背に、ハーヴィスの声がかかる。
 振り向くことなくマリアーヌは歩き続ける。
 早く、早く部屋に戻りたかった。
 足早に屋敷にたどり着き、中へ入ると二つの足音と甘い香りがした。
 食堂から玄関へと向かってくる侍女が二人、マリアーヌの姿を見て立ち止まった。
 二人はすぐに頭をたれる。
「お帰りなさいませ。申し訳ございません、お帰りになられる前には戻っておくつもりだったのですが」
 侍女の一人が恐縮しつつ言う。
「―――あのお嬢様、いま焼きたてのパイをお持ちしたのですが、よろしければお召し上がりになりませんでしょうか?」
 もう一人の侍女が言う。
 すぐにお茶もお持ちいたしますので、初めて喋る侍女二人は柔らかな笑みを浮かべている。
 マリアーヌはせっかくの好意を無下にできず、ぎこちなく微笑みを返すと頷いた。
 そして部屋に戻り、しばらくすると紅茶とパイが一切れ運ばれてきた。
 侍女たちは深く礼をし、湖のほとりの家へと戻っていった。
 静けさを取り戻した部屋の中で、ようやくマリアーヌは重くため息をついた。
 暖かな湯気をただよわす紅茶に手を伸ばす。
 鼻腔をくすぐる香りは懐かしさを感じる。
 ゆっくりと一口だけ飲み、パイを一口食べる。
 まだ暖かいパイはぎっしりとリンゴや木の実が詰まっていた。
 甘酸っぱい味。

「………っ」

 フォークが手から滑り落ちる。
 つとマリアーヌの頬を涙が流れていた。
 ひとつ、ふたつと零れ落ちていく。
 ギュッと胸を締め付ける哀しさに、マリアーヌは顔を伏せ、泣き出した。
 泣く資格などない、そうわかっているのに。
 止まらなかった。
 エメリナやイアン、イーノスと毎日していたお茶とおしゃべりの時間。
 お菓子を食べ、ただひたすら笑いあっていた日々。
 まるでそれがずっと続くかのように思っていた。
 強く、強く手を握り締める。
 もう、この手にあの日々をつかむことはできない。
 すべて、なくなってしまったのだから。



 自分はエメリナだけでなく、イアンとイーノスになにもしてあげられなかった。
 だから、ただ、願うことしかできない。
 これから、幸せになってほしいと。
 
『大丈夫だから』

『僕たちが守るから』

 そう、言ってくれたあの二人が、幸せになるようにと。
 とめどなく涙を流し続けながら、マリアーヌはそれだけを願った。








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2006,6,4