24





 いったいどこで間違ってしまったのだろう。

 つい数日前まで、幸せはあったはずなのに。

 こんなにも、あっけなく崩れてしまうものなのだろうか?






***








 頭が、身体がだるい。
 マリアーヌはぼんやりと目を開け、天蓋を見つめた。
 それは毎朝目覚める自室のベッドのものだ。
 ゆっくりと視線をさ迷わせ、部屋の中を見渡す。
 はっきりとしない頭でいまは何時なのだろうかと考える。
 倦怠感のある身体を起こし、ようやくマリアーヌは気づいた。
 自分がドレスを着たまま寝ていたことに。
 このドレスは朝、着たものだ。
 薄いクリームイエローのドレス。
 なぜドレスのまま寝ていたのだろう。
 そう考えると不意に、ずきり、と頭に痛みが走った。
「………リナ」
 ぽつり呟かれた自分自身の声に、すべてを思い出した。
 ベッドから転げるように出て、リビングへ行き、そして部屋を出ようとした。
 だが、扉が開かない。
 必死でドアノブを回すが、開かないのだ。
「……鍵? なぜ」
 呆然と一歩後退りして扉を見つめる。
 不安と困惑、そして恐怖にマリアーヌは床に座り込んだ。
 ボーン……、柱時計が静かに鳴り出した。
 目を向けると6時をさしている。
 そして、ガチャリと鍵の回る音とともに扉が開いた。
「――――マリアーヌ様」
 座り込んでいたマリアーヌにシェアが驚いて声を上げた。
 シェアの姿を認め、マリアーヌはその足元にすがるように飛びつく。
「シェア!」
「マリアーヌ様。よかった、お目覚めになられたのですね」
 慌ててシェアは腰を屈め、気遣うようにマリアーヌと視線を合わせる。
「ご夕食……といいましても、お目覚めになられたばかりですから朝食ですわね。すぐに持ってまいります」
 優しくかけられる声。
 だが欲しいのはそんなものではない。
「シェア……。エ、メ、リナは………っ」
 シェアの腕をつかむ手が震えてしまう。
 必死に訴えるように叫ぶマリアーヌに、シェアはわずかに顔を曇らせる。
「マリアーヌ様。……エメリナさんはすでに埋葬を終えられました」
 その言葉に眉を寄せ、そしてマリアーヌは目を見開いた。
 シェアはゆっくりと言い聞かせるように言葉を続ける。
「心が落ち着かれましたら……墓地へご案内すると、ハーヴィス様が仰られていました」
 するり、とシェアの腕をつかんでいた手から力が抜ける。
 あの安置室で薬を飲まされ一日は経っているのだろう。
 その間に、すべては片付けられてしまったのだ。
 だが、遺体を見た今でさえエメリナの死が悪夢のように思える。
「……うそ」
 夢であればいい。
 仕事で疲れて、ドレスのまま寝てしまったのだ。
 そうこれは夢なのだ。
「嘘よ。エメリナが死ぬわけないわ。シェア、私エメリナのところへ行かなきゃ」
 自分に言い聞かせるように言って、マリアーヌは立ち上がろうとした。
 だがシェアによって阻まれる。
「マリアーヌ様」
 その声は悲痛と哀しみに溢れていた。
「エメリナさんは亡くなられました。お認め下さい。そして――――この部屋から出ることは……できません」
「……な、に?」
 現実に、引き戻される。
 シェアがここへ来る前、鍵がかかっていたことを思い出す。
 鍵が、かけられていた?
「ハーヴィス様はマリアーヌ様のことを大変心配されております。しばらくは混乱状態になられていらっしゃるでしょうから……お部屋でお休みくださるようにと……」
 だから、鍵をかける?
 それは――――。
「ご必要なものがございましたら、すぐにお持ちします。ですから、いまはゆっくりされてください」
 マリアーヌはうつむき首を横に振る。
 部屋に軟禁され、じっとしていれば、すべてがなかったことにできると。
 すべてが忘れられるというのか。
「シェア……、だめ、信じられないの」
 震える声で言ったマリアーヌの頬を一筋涙が伝った。
 シェアが辛そうに顔を歪める。
 マリアーヌはふらりと立ち上がると、「ごめんなさい、シェア」と呟き、彼女を突き飛ばすと部屋を飛び出した。
 マリアーヌ様……、咎めるでもない、ただ悲しげな声が小さく響いた。
 









 無残なほどに変わり果てたエメリナの姿が目に焼きついている。
 だが太陽のように輝くエメリナの美しい笑顔も、ずっと頭にあるのだ。
 もつれそうになる足で、エメリナの部屋へ向かう。
 わかっている、だが確かめなければならない。
 もしかしたら。
 もしかしたら。
 そう、マリアーヌは走り、エメリナの部屋へとたどり着いた。
 コンコン―――と、急くようにノックをする。
 返事がないことはわかっているのに、続けて何度もノックする。
 ――――はい?
 扉の向こうから、返事が聞こえてきた。
 びくり、とマリアーヌは動きを止める。
 昨夜見た"現実"と、否定したい想いからくる"幻想"。そして、不安に胸がざわめく。
「エメリナ?」
 ゆっくりとドアノブがまわり、扉が開いた。
 目の前に現れた、美しい少女に、マリアーヌは息を止めた。
 ゆったりと波打つ豪奢な金色の髪。
 白磁のようになめらかで美しい肌。
 大きな瞳は鮮やかで透き通るようなマリンブルー。
「――――どなた?」
 似て非なる、美貌を持つ少女は艶やかな笑みをマリアーヌに向けた。
 エメリナとは違う愛らしさを前面に押し出した可憐な美少女。笑みは同性でも見惚れてしまうものだ。
 だが、マリアーヌは見惚れるでなく、呆然と少女を凝視する。
 怪訝そうに小首をかしげる少女に、ややしてマリアーヌは呟いた。
「……だ、れ。………ここは」
 ここはエメリナの部屋。
 そう言おうとした瞬間、後ろから腕をつかまれた。
「ごきげんよう、アンジェラ。彼女ちょっと部屋を間違えてしまったらしいの。ごめんなさいね」
 にこやかな声が背後からする。
 そう?、とアンジェラと呼ばれた少女は不思議そうにするも、微笑んでから部屋の扉を閉めた。
 しんとした廊下、立ち尽くすマリアーヌの腕が強く引っ張られる。
「なにしてるのよ」
 マリアーヌは強張った顔で振り向く。
 冷たく、怒りを孕んだ眼差しを向けているのはジェシカだ。
 ジェシカはマリアーヌの目を見据える。それはいつもよりも真剣味を帯びたものだ。
「私が、このオセでは古株だっていうのはマリーも知っているでしょう?」
 ジェシカの問いかけがなんであるかはわからないが、マリアーヌにはなにも考えることができない。
 目の前のジェシカよりも、さきほどのアンジェラと呼ばれた少女のことが気になる。
 エメリナの部屋にすでに別の娼婦がいるという事実は、それだけでエメリナの存在をすべて消されたようで胸が苦しくなる。
「ねぇ、わかってるんでしょう?」
 無反応のマリアーヌの肩をジェシカが押すようにたたく。
「聞けっていってるんだよ」
 がらりと変わった口調と低い声色に、ようやくマリアーヌはジェシカを見た。
「わかってんだろう? エメリナはもういない。"身請けされた"エメリナの代わりに今日からbPを約束され買われてきたのがあのアンジェラなんだよ」
 あざ笑うような歪んだ笑み。だが、目は笑っていない。
 身請け、そう他の娼婦達には説明されているのか。
 ジェシカは反応の鈍いマリアーヌの顎をつかむと、自分のほうへと向けさせ、その瞳を正面から見つめた。
「だてに長くオセにいるわけじゃない。全部を知っちゃいないが、少しくらいなら情報は私の耳に入って来るんだよ。エメリナがいなくなったのは身請けじゃなく――――死んだからだってこともね」
 びくり、とマリアーヌは身を震わせた。
「セルマは仕事もできないバカだった。だが、エメリナは違う」
 マリアーヌを睨みつける眼差しは激しい怒りをあらわにしていた。
 ジェシカはマリアーヌからわずかに身を離すと、手を振り上げた。
 避ける余裕も、意志もなく、ジェシカに頬を叩かれる。
 力任せに叩いたのだろう、強い力に思わずマリアーヌは床に倒れた。
「アンタも昔娼婦だったらわかんだろう! 仲間を売った罰は重いよッ。それがたとえどんな理由であれ、そしてアンタの知るところじゃなかったとしてもねッ」
 吐き捨てるように言われ、マリアーヌはジンジンと熱を帯びる頬を抑えてジェシカを見上げた。
 ジェシカもまたマリアーヌ同様にオセへ来る前も娼婦をしていたと聞いたことがあった。
 娼婦には娼婦なりのルールがある。
「ガキどもが許そうが、私は許しはしない」
 言葉がでない。
 なにを言えばいいのかわからない。
 ――――許されないことをしたのは自分だ、それは痛いほどにわかっている。
 凍りついたように固まっているマリアーヌに、
「エメリナは……あんたの親友だったんでしょう」
と、ジェシカの震える声が響いた。
 怒りと、そして何かを耐えるような声音。
 ねめつけてくるジェシカの目を、ただマリアーヌは見返す。
 ややして、ジェシカはぎゅっと唇をかみ締めると身を翻した。そして振り向くことなく去っていく。
 マリアーヌはその背をぼんやりと見つめた。
 ジェシカに叩かれた頬は、いまだ熱を帯び痛んでいる。
 だがそれよりも、最後の言葉が胸に突き刺さっていた。
 聞かれるまでもなく、エメリナは親友、だ。
 かけがえのない友人だった。
『許しはしない』
 ジェシカの言葉がよみがえる。
 許しなど、誰に乞うというのだろう。
 許しなど、乞うつもりもない。
『ガキどもが許そうが――――』
 不意に、マリアーヌは息を止めた。小刻みに震えだす指を握り締める。
 ジェシカが誰を指して言ったのか。
 エメリナのことで頭がいっぱいで、哀しみと痛みに胸がいっぱいで、忘れていた―――双子の存在。
 イアンとイーノスは、知っているのだろうか?
 身請けされたと聞かされただろうか。
 それともジェシカのように、どこからか聞いてしまっただろうか。
 両親のいない双子がエメリナを、そして自分を本当の家族のように、姉のように慕っていることは考えるまでもないことだ。
 なにを言えばいいのか、会ってどうすればいいのかもわからない。
 だがいてもたってもいられなくなり、マリアーヌは双子の部屋へと走った。
 息を切らせ、部屋にたどり着くと、震える手でノックする。
 ―――はい、と部屋の中からイアンの声がして扉が開いた。
「………マリー」
 驚いた様子でイアンが呟いた。
 マリー?、と奥でイーノスの声がし、そしてパタパタと足音が近づいてくる。
「……だ……大丈夫?」
「しばらくお休みするって聞いてたけど」
 イーノス、そしてイアンが心配気にマリアーヌを見上げる。
 マリアーヌもまた双子を見下ろす。
 わずかに赤くなったイアンとイーノスの目。泣いたような跡に見えるのは気のせいだろうか。
 こらえきれずにマリアーヌは両手を大きく広げ、双子を抱き寄せた。
 ぎゅっと力の限りに抱きしめる。
 腕の中でイアンとイーノスは「マリー?」「どうしたの?」と不安そうに訊いてくる。
 双子の柔らかな暖かさに、不意に涙が沸きあがってきた。
 ぽたぽたと頬を伝い、涙は双子に落ちていく。
「………ごめんなさい」
 小さな小さな呟きだった。
 だが掠れた吐息ほどの言葉に、イアンとイーノスの身体は強張った。
 それを感じ、マリアーヌは二人がエメリナの死を知っているのを直感した。
 許さないと言ったジェシカ。
 許しを乞うつもりはない、それは変わらない。
 だが、ただ、ただ謝りたいのだ。
 まだ幼いこの双子から、血の繋がりはなくとも家族のように想っていた少女を取り上げてしまったことを。
「ごめ……んなさい……」
 とめどなく流れ続ける涙。
「マ……マリー」
 苦しげなイアンの声が響く。
 そしてその手がマリアーヌの頬に触れ、涙をぬぐう。
「泣かないで、マリー」
 必死に見上げてくるイアン。
「泣かないで。大丈夫だから、大丈夫だから」
 そう、イーノスもまたマリアーヌを仰ぎ見、泣き出しそうな表情で言う。
「……僕たちが守るから」
「エメリナと約束したんだ」
「僕たちがマリーのそばにずっといるって」
「だから、泣かないで? マリー。泣かないで」
 イアンとイーノスが交互に不安に揺れる瞳で言い募る。
 泣かないで、大丈夫だから、ね?
 そう言われるほどに、涙は止まらなくなる。
 まだ幼い二人に、こんな想いをさせた自分が許せない。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 エメリナは――――。
「ご……めん……なさい」
 それしか、言えない。
「………マリー」
 イアンの声が震え出す。
 静かに泣き声を響かせ出したイアンに、イーノスも泣き出した。


「ごめ……ん……なさい……っ」


 涙は傷を癒すことなく、ただただ流れ続けた。









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2006,5,9