23
最初にその言葉を聞いたのはいつだったか。
――――イレインに白薔薇を。
そうマローに報告したのはオセにきてまだ2ヶ月ほどしか経っていない頃だった。
仕事仲間であるジェシカとともにB棟へいつものように食事を運んだ時のことだ。
攫われ売られてきた気の毒な少女は、日々の暴力と陵辱に心身ともにボロボロになり、ある日あっけなく死んでいた。
骨と皮ばかりになっていたあの少女の最期は、いまでも覚えている。
オセの仕事に慣れてきてはいたが、死を前にして動揺を隠せないマリアーヌにジェシカはいつものように淡々と告げた。
『このオセでは"死"という言葉は使わないように。報告の際は"白薔薇"を使うのよ』
一輪の白薔薇とともに棺がオセの息のかかった教会に埋葬されるのだ。
それが。
その白薔薇が、何故、エメリナに捧げられなければならない?
「嘘」
永遠とも思える沈黙の中、マリアーヌは呟いた。
マローはただ立ち尽くし、ハーヴィスはじっとマリアーヌを見つめている。
「嘘よ」
もう一度、マリアーヌは呟き、ハーヴィスを見つめ返した。
ゆっくりとハーヴィスがマリアーヌへと足を向ける。
ほんの一歩、足が踏み出されたところで、マリアーヌは弾かれたように身を翻した。
執務室を出て、足にまとわりつくスカートの裾を持ち上げ、全速力で走る。
向かうのは、ある部屋。
重苦しく壁と同化した扉を持つ部屋。
そこには家具などなにもなく殺風景で、一つだけ寝台がある。
寝台といっても、ただ横たえるためだけの、簡素なもの。
"白薔薇"を捧げられたものが埋葬される前に、安置される部屋だ。
まるでその部屋自体が棺のように冷たい空気に包まれている。
マリアーヌは、その部屋へと走る。
部屋が見えてくると、男が2人出てくるところだった。
男達は走ってくるマリアーヌを怪訝な面持ちで見やる。
マリアーヌは男達の横をすりぬけ、部屋へと足を踏み入れる。
「お、おいっ」
男の1人が慌てたように叫ぶ。
中へ入るな!、そうもう1人の男も叫ぶ。
男が引きとめようと手を伸ばす。
だが間に合わない。
ミナイホウガイイ。
そう、男は言った。
そして、マリアーヌは寝台へとたどり着いた。
彼女の髪は絹のように艶やかで金色に輝いていた。
―――それが、なぜ色をなくし、ばらばらに切られていなくてはならない?
彼女の肌は透き通るように白く、滑らかだった。
―――それが、なぜ青黒く、無数の傷跡と血に彩られなくてはならない?
異様に腫れあがった身体。
縛られた痕が、
焼け爛れた皮膚が、
原形を留めておかないほどに殴られた顔が、
ひまわりのように輝いていた――――あの少女のものだというのか?
悲鳴は小さく細く、まるでひきつけを起こしたかのように唇からこぼれる。
全身が心臓になってしまったかのように、身体中がうるさくざわついて感じる。
口元に当てた手は大きく震えている。
「マリー」
肩に手を置かれ、マリアーヌは軋むような動作で首だけを動かす。
ハーヴィスが無表情にマリアーヌを見下ろしていた。
マリアーヌの唇が音なく、動く。
言葉を紡ぎだすために、唇がさ迷うように音を見つけだすのにしばし時間がかかった。
「エメリナじゃ……ないわよね……?」
哀願するような、いまにも泣き出しそうな声。
だがなんの躊躇いもなく、「エメリナだよ」とハーヴィスは告げる。
嘘、とマリアーヌは首を振る。
嘘、信じられない。
「なぜ」
混沌の中から出た声は押しつぶされたような重く低いものだった。
食い入るようにハーヴィスを見つめるマリアーヌ。
「遊びが、過ぎただけだ」
淡々とハーヴィスは言う。
「あ、そ……び?」
全身が震えだす。
それを抑えるようにマリアーヌはハーヴィスの胸元をつかみ握り締める。
「なぜ? エメリナは身請けされると言ったじゃない。ねぇ、なぜ?」
それなのになぜ今彼女はここで永遠の眠りの中にいるの?
どうして――――彼女の客があの男……ジェラードなの?
掠れ聞き取れないほどの声で問う。
ハーヴィスは表情をわずかにも変えることなく答える。
「身請けというのは嘘だよ。お客様があの方だったからね、傷が完治するのを待つ時間を考えて、あえてそう言っただけだ。それにエメリナも君に心配かけたくなかったのだろう」
まるでなんでもないことのようだ。
マリアーヌは頭を振る。
「違うっ」
そんなことを聞きたいのではない。
どうしてどうしてこんなことに―――――。
「エメリナはっ………」
言いかけ、ハッとして口を閉ざす。
自分とあの男のことを知っていたのだろうか?、と不安がよぎる。
「今回のお客様が嗜虐趣味のある方だとは説明してはいたよ」
「なぜ? なぜ、あの男に……」
また君を買うよ、そう言った男・ジェラード。
あの男の興味は自分にあったはずだ。
――――ニャァ。
小さな鳴き声が足元を通り過ぎる。
緊迫した空気の中、ハーヴィスだけが白い毛並みの猫を一瞥した。
ややして、ハーヴィスはそっとマリアーヌの頬に触れた。
「言っただろう? 2度と、君をあの方に触れさせないと。早急に手を打つ、と」
手の暖かさに反し、冷たい声に、マリアーヌは大きなめまいを感じた。
「……それは」
「君を諦めていただくかわりに、あの方はオセで一番の娼婦を望まれた。B棟でのご利用でね」
マリアーヌは身体が震えだすのを止められない。
「それで……?」
答はわかっているのに、訊かずにはいられなかった。
マリアーヌはじっとハーヴィスと視線を絡ませる。
「お好きなように―――と。お望みのままに、お遊びください、と言ったよ」
エメリナはオセで一番の娼婦だったのに?
「彼女の代わりは、いくらでもいるよ。マリー」
パンッ――――。
空気を裂くような音が響いた。
ハーヴィスはわずかに顔を背けている。
その頬はほんのり赤みを帯びていた。
そして、その頬を打った、マリアーヌの手もまた赤くなっている。
「な、んで、そんなっ」
怒りに身体のすべてが震える。
ハーヴィスは叩かれた頬を抑え、冷やかにマリアーヌを見つめると液体の入った小瓶を懐から取り出した。それを口に含み、マリアーヌを強い力で引きずりよせると、口付けを落とした。
唇を塞がれ、マリアーヌは激しく抵抗する。
だが無理やり唇をこじ開けられ、そこからどろりとした液体が口内に流れ込む。
マリアーヌは目を見開いた。
「………っ……ん」
ハーヴィスは身を離すと、今度は手でマリアーヌの口を塞ぐ。
耐え切れずに口の中の液体を飲み込んでしまう。
それを確認して、ようやくハーヴィスは手を離した。
「なん……っ」
唇に手の甲を擦りつけるように当て、ハーヴィスをにらむ。
あの液体がなんであるか。
それを察してマリアーヌは逃げるようにエメリナのそばへ行った。
例えどんな無残な姿をしていようが、エメリナにかわりないのだ。
労わるようにエメリナの身体に触れるも、急激に強烈な睡魔と倦怠感が全身を襲う。
「い……やっ。エメリナっ」
ぎゅっと、冷え切ったエメリナの手を握り締める。
この手を離してしまったら、もう2度と会うことがない、そう思った。
だが力はだんだんと抜けていき、マリアーヌは床に膝をついた。
ぐらり、と視界が揺れる。
足音を響かせ、ハーヴィスが近づいてくるのを感じる。
「―――しばらく、寝ていなさい」
倒れかかったマリアーヌの背にハーヴィスの手が回される。
だがそれを振り切って、マリアーヌはエメリナの遺体にすがった。
エメリナ、エメリナ、エメリナ。
心の中で何度も呼びかける。
しかし必死の抵抗もむなしく、しばらくしてマリアーヌの全身から力が抜けた。
眠りに落ちたマリアーヌの身体を、そっとハーヴィスが抱きとめた――――。
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2006,5,3
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