『5.虚像と現実』








 無我夢中で走り続ける日向。
 だがどこを走っても学校の中。
 自分自身、どこを走っているのか、走ることに意味があるのかもわからなくなってくる。
 走りつかれて息苦しくなり、意に反してその走りは遅くなる。
 走りは歩みとなり、そして最後にはふらふらと校舎から体育館へとつづく階段にへたり込んだ。
 胸を押さえ、弾む息を整える。
 あたりはしんとしていて、見上げれば当たり前のように青空が広がっていた。
 目に沁みる青空を見つめると、目頭が熱くなってくる。たまらずうつむく日向。
 大粒の涙が地面に落ちた。
 なぜこんなことになっているのか判らなかった。
 これからどうすればいいのか判らなかった。
(……なんで………嵐)
 頭を抱えるように髪を押さえる。
(あの2人の『世界』に私はいないのに…。なんで…なんで)
 強烈な孤独を感じた。
 何をすればいいのか、どうしたらこの『世界』から逃げることが出来るのか…。
(―――――――広哉……)
 混乱に朦朧とする頭に浮かぶ顔。
 ふらりと、視線を彷徨わせる。
 目の端に一つの影が映った。
 日向は地面に手をつき、身体ごとその方向を見る。知らず笑みが浮かぶ。
 疲れ果てた身体が楽に立ち上がる。
 日向は小走りで広哉の元へと向かった。
 広哉はコの字型の校舎の一角にいた。
 近づくにつれ、その顔に笑みがあることに気づく。その口が動いていることに気づく。
 日向の顔にあった笑顔がじょじょに消えていく。それとともに歩みも止まる。
 そして、ふと気づいた、といったように広哉が日向のほうを見た。
「よぉ、楠木」
 向けられた笑顔に日向の顔が引きつる。
 そして広哉の正面、日向から死角となっていた場所から声がした。
「日向?」
 ゾッとした。
 ひょっこりと顔を覗かせたのは由奈。
 とっさに後退りした日向の手を、広哉がつかむ。
「逃げんなよ、日向」
 日向にだけ聞こえるように素早く呟く。
 それでも逃れようとしていた身体は、無理やり広哉に引きずられる。
「日向? どうしたの?」
 うつむき血の気の引いた日向にかけられる優しい声。
 手錠のように日向の腕をつかんでいる広哉の手。
 ゆっくりと日向が顔を上げる。
 ―――――彼女と彼女は対峙した。
「日向………」
 わずかに目を見開いて、由奈が日向に近寄ってきた。
 その指先が日向の頬に触れる。由奈の体温を感じ、日向の全身が強ばる。
「……泣いて…たの?」
 驚き、そして心配の色を濃く浮かべた瞳。
「どうしたの!?」
 広哉が日向の手を離した。だが日向は動くことができなかった。
「………………なんでも…ない…」
 喉から搾り出すようにして、それだけをようやく言った。
 由奈は自分と目を合わそうとしない親友を戸惑ったように見つめ、黙る。


「言いたいことがあるんだったら、はっきり言えばいーんだよ」


 ぶっきらぼうな広哉の声が、空気を壊すように響いた。
 その声にうながされるように、由奈が口を開いた。
「嵐となにか…あったの…?」
 顔を背ける日向。
(…なにを…言えっていうのよ……。私はもう…)
 広哉の言葉に唇を噛み締め、胸を押さえる。
「……いいたくないなら…しょうがないけど…、心配なの…。だってそんなに泣きはらしてるのに」
 日向は手の甲で強く目をこすり付ける。
「…なんでもない」
 由奈は優しい眼差しで、日向を見つめる。
「……言ったら楽になることもあるかもしれないし…。だって、わたしたち友達じゃない」
『友達じゃない』
 その言葉がやけに空々しく日向の心に響いた。
 日向の止まっていたなにかが、動き出す。
「友達――――――――?」
 ずっと虚ろだった目がじょじょに光をおびてゆく。
 そして呟かれた言葉とともに、その目は由奈を睨んでいた。
 突然の豹変に由奈は呆然とする。
「………どうしたの…。日向…。友達でしょ…」
「友達? だって由奈の友達は嵐だけなんでしょ? 何でもいえるのが、相談できるのが友達なんでしょ? だったら私は由奈の友達じゃないってことじゃない!」
 噛み付くように、叫ぶ日向。
 大きく目を見開く由奈。
「な…に。訳わかんないよ…日向」
 声を小さくさせる由奈に日向は引きつった笑いを向ける。
「わかんないって? わかんないの? 家族のことを相談できるのは嵐だけなんでしょう?」
 声の出せない由奈に叩きつけられる言葉。
「あーそれとも実は前から嵐のことが好きだった? とか?」
 うっすらと由奈の目に涙が浮かび上がった。
「違…っ…。日向…違う…」
「違う? なにが違うのよっ!」
 日向が叫び、そして沈黙が訪れた。
 一気にまくしたてたせいで日向は息を切らしている。
 由奈が潤んだ瞳を悲しそうに細める。
 しばらくの間の後、ぽつりと呟いた。
「―――――――言いたくなかったの…」
 一瞬言われたことがわからなかった。だがその意味を理解し、ショックとともに頭に血が上るのがわかった。
 拳を握り締めた日向に、由奈は苦しそうなため息をついた。
「家のことは…すっごく辛くって、きつくって誰かに相談したくはあったの…。でも……考えたくなかったの」
 由奈は額に手を当て、目を細める。
「家で悩んで学校でも悩みたくなかったから…。日向に相談したら、たぶんすっごく心配して、気を使うだろうなって思って。すごく明るくしてくれるだろうな、って思って…」
 切なそうに微笑む由奈に日向は胸が苦しくなるのを感じた。
 当たり前じゃない…、と口の中で呟く日向。
 苛立ち混じりのその声。だが表情にさっきまでの険しさはない。
「心配とか…そんなのなくっても、学校にいるだけで、日向たちといるだけで楽しかったから…。日向と嵐とみんなといれば…それだけで悩みなんてふっとんじゃってたから」
 心の中に閉まっていたのを取り出すように、ぽつりぽつり言う由奈。「日向に心配かけたくなくて…、日向の心配そうな笑顔を見たくなかったから…」
 だから言えなかったの、と由奈は視線を伏せた。
「……………でも…でも…嵐に……」
 由奈は小首を傾げて、微かに笑う。
「あの日、弟が急に倒れてね…。ただの盲腸だったんだけど。なんかいっきに疲れが出ちゃって家に帰る途中でボーっとしてたの。そしたら偶然に嵐に会っちゃって…」
 ため息が出る。
「その時すごくブルーで笑う気力もなかったから、嵐がどうしたんだ〜!ってうるさく聞いてきてね。仕方なく相談したの」
 由奈は冗談っぽく言って笑った。
 だがすぐに笑みを消して、真剣な眼差しで日向を見つめる。
「ゴメンね…日向。結局…変な誤解させて、日向に辛い思いさせちゃったのね」
 由奈の目から涙が零れ落ちた。
 日向は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
 今までとは違う、なにかわからない感情が渦巻く。
 苛立つような、頭のなかにハエがいるような、激しく頭の中がざわつく。
「………ぁ…」
 日向は頭を押さえ、激しく首を振った。
「日向…ごめんね」
 涙を流す親友。
 つかもうとすると掌をすり抜けてゆく不思議な感情に、歯がゆさを感じながら、日向は呟いた。
「…由…奈……」
 自分がなにをしたいのかわからない。
 逃げたいのか、泣きたいのか、怒りたいのか、笑いたいのか。
 それでも日向の手は自らが意志をもったかのように、由奈の手を取ろうとした。
 だが、次の瞬間。
 ぐらり、と地面が揺れたような気がした。
 そして小さな悲鳴が漏れた。
「…きゃ…っ」
 見ると由奈が尻餅をついている。
「な…」
 日向は驚愕に目を見開いた。
 転んだ由奈。
 そこは、道路。
 つい一瞬前は確かに校舎の前で、道路などどこにもなかった。
 それなのに。
 ゾクッっと、身体のそこから寒気が走る。
 あまりにも知っている光景だったから。
 そう、あの時の――――――道路。
 日向の目の端に車が映った。
「なん…で」
 一瞬が長い時間のように感じる。
 立ち尽くす日向の脳裏に、一つの声が響く。
『――――本当に、同じことを繰り返す、と思うのか?』
 それは広哉の声だった。
 その意味を飲み込むより先に、車が由奈へ向かって走ってきていた。
 立ちすくむ日向。
 膝が震える。
 車が、迫る。
「………や……」
 呟き、考えるより先に、身体が動いていた。


「由奈!!」


 由奈のもとへ走る。
 その身体をかばうように、由奈の身体にぶつかるようにして突き飛ばす。道路の脇へと日向と由奈の身体が転がった。
「ハァハァハァハァ」
 心臓の音が、息が、思考を停止している頭に、大きく響き渡る。
 膝をすりむいたのかピリピリした痛みを日向は感じた。
 日向の手に、暖かな温もりが重なる。
 日向はうっすらと目を開けた。
 そして、思わず息を止めた。





 由奈が、笑っていた。
「ありがとう、日向」
 由奈がそう言った。
 ――――――日向は、顔を覆って泣き出した。





















 背中に感じていたアスファルトの感触が、固さをあまり感じない不思議な感触に代わっていることに日向は気づいていた。
 だが泣くのを我慢できず、ひたすらに涙を流す。
 そして一つの足音が静かに日向の元へやってきて、止まった。日向のそばにかがみこみ、なでるようにそっと日向の髪に触れる。
「…ぜん、ぶ…、あ……んたが…したんでしょ」
 そばにいるのが誰だかわかっているように、日向はしゃくり上げながら言った。
 返事をせず、日向のそばに腰を下ろす。
「……すっごい…むかつく…」
 顔を押さえたまま、涙を流したまま、息を整えながら日向は呟く。
 広哉は小さく笑った。
 だがそれは冷たいものではなく、なにか不思議な安堵感を日向に与えた。
 それでもそれを悟られないように、あくまでも強気に口を開く。
「……いやな…やつ。……しんじ…らん…ないよ…」
 ふーっ…ふーっ…と、深く息を吸い込む。
 静かな空間の中に日向の呼吸だけが響いていた。
 やがて広哉がこれまで聞いたことのない穏やかな声で言った。
「繰り返したか?」
 日向は細く吐息をつく。
 顔を覆っていた手のひらをずらし、今度は腕で目をふさぐ。
「…………わたし…」
 それだけ呟いて、沈黙した。
『本当に繰り返すと思っているのか』
 そう真剣に言った広哉の言葉を思い出す。
 ほんのついさっきのことなのに、もうずっと長い時間がたっているかのような気がした。
 広哉がなぜあの時あんなに怒ったのか、そのことを考え日向の口元が微かに緩んだ。
 それは自嘲しているような笑みだった。
「私ってさ…」
 もう日向は気づいたから。
 由奈が泣いて自分に謝るのを見たとき。
 由奈が笑って自分にありがとうって言ったとき。
 日向は気づいたから。
 自分の奥底にあった、心に。
「ばか…だよね」
 それは強烈な痛みと苛立ちを伴って日向を自覚させた『後悔』。
 逃げ続けてきた自分への苛立ち。
「ほんっ…とに…、バッカだよね」
 唇をギリッと噛んで、震える声で言った。
「ばっかみたい。……バカ…バカ」
 うわごとのように呟く。
 枯れてきていた涙がまた熱く流れ、床にポツンと落ちていった。
「私…」
 胸のなかのすべてを吐き出すようにため息をつく。
 目をふさいでいた腕をはずすと、すべてが眩しかった。
 日向は泣きながら、微笑む。
 そして、言った。







「私、なんで―――――――――死んじゃったんだろう」