『4.錯誤』








 陽光が青い葉にその愛をたくさん注いでいる。
 光は葉の隙間から漏れ、木陰にちらちらとその存在を示している。
 少年は眩しそうに太陽を仰ぎ、木陰の方へと視線を移した。
 校舎から別棟へと続く渡り廊下。その横に広がる中庭の一角。
 大きな木の下に、一人の女生徒がうずくまっていた。
 少年は優しい眼差しで、少しの間その少女を見つめる。そして気を取り直すようにため息をつくと、少女の方へと向かった。
「おぉ〜い」
 のんきな声で広哉は声をかけた。
 日向のもとにかがみこむ。日向の茶色がかった髪に手を伸ばし、小突くように頭をつつく。
 体育座りに顔を伏せているから、日向の表情はまったくわからない。
「お〜い。次の授業もサボる気か〜?」
 相変わらずにのほほんと広哉は首を傾げながら、言った。
「ひ〜な〜たちゃん」
 からかっているような、馬鹿にしているようにも聞こえる口調。
 少しの間があって、日向の身体がわずかに揺れた。
「………いい加減にして」
 小さく低く震える声。
 日向はキッと顔を上げると広哉をにらみつけた。
「もうほっといてよ! なにが学校よ! なにが授業よ! こんなの全部嘘じゃないっ!! 現実なんかじゃないじゃないッ!!!」
 気を抜けば涙が溢れそうになるのを必死で我慢して、日向は吐き出すように叫んだ。
 肩で大きく息をして、スカートをぎゅっと握り締める日向。
 広哉は顔を伏せ、大きくため息をつくと、ゆっくり立ち上がった。
 ポケットに手を突っ込んで、うっすらと笑う。
「はーいはいはい。その通りデス。ここは現実じゃございません。だから、もう学校来なくってもいいですよ。お嬢さん」
 笑顔とは対照的な冷たい声。
 日向は突き放されたような感覚を覚え、我慢していた涙が出そうになった。
 そんな日向の脇を通り過ぎてゆく広哉。
 日向は血の気の引く思いで広哉を振り返った。
「…っ…と待ってよっ」
 足を止め、顔だけを向ける広哉。
「どこに、行くのよ…っ……」
 キョトンとして、広哉は当たり前のように言う。
「教室」
 今度は日向がキョトンと、いやポカンとする。
「……なんで…教室なのよ…。だってこんなの…」
 現実じゃないのに、口の中で日向は呟いた。
 冷や汗と夏の空気に汗ばむ日向とは対照的に、汗一つかいていない広哉は涼しい顔で日向を見つめる。
「なんでってねぇ」
と言いながら、大きな欠伸をする広哉。
「…俺にとってはこれが現実なんだからさー。当たり前でしょ? 授業サボるわけにゃ、いかねーだろ?」
 あっさりとした口調の広哉に、日向は思わず不安な表情を露にした。
 無意識のうちに広哉の方へと、足を踏み出す日向。
「…………るの…」
 震える声が、震える唇から漏れる。
 広哉の無表情な目を気にする余裕も、なくなってきていた。
「私は…どうなんのよ…。私……一人で…どう…」
 うろたえた眼差しがキョロキョロとせわしなく動く。
 一人暗闇に放り出されたような気がして、日向は右腕をぎゅっと握り締めた。
 広哉はポケットに片手を突っ込み、開いている右手で髪をかきあげる。
「なぁ。日向」
 広哉はゆっくりとした足取りで眩しい太陽から逃れるように、木陰へと移動した。木にもたれかかる。
「お前にとって『現実』ってなんだ?」
「………?」
「お前はもう死んだから『現実』とも切り離されたって思ってんだろう? つーことは生きてること、その生きてる場所だけが『現実』っていうこになるんだろう? で、死んでるからここは幻、って」
 広哉は真剣な眼差しで、日向を覗き込むようにして見る。
 日向はその目に射すくめられたように、なにも声を出せない。
「お前、本当にそう思うわけ? 今さお前が考えたり怒ったりしてるの全部、幻だと思うのか?」
 日向はとっさに口を開こうとしたが、言葉は何も出ず、唇を噛み締めた。
「だってさ死んでるのが幻っていうのなら、今のお前も全部が幻っていうことになるだろ?」
 日向はうつむいた。
 自分の足元が目に入る。
 確かに自分はここに存在する。
 だけども、だ。
「だけど………、だって……」
 日向は上擦った声で、だって、と繰り返す。
「………こんなの…信じられるわけないじゃない…っ…。姿かたち変えただけの、こんな…紛い物みたいな世界…」
 木陰に微かにさまよう涼しい風が心地よい。広哉は涼みながら、ため息をついた。
「まぁ、確かにそう思うのもしょうがない」
 広哉は心地よい場所を離れ、日向のもとに歩み寄った。
 その腕をとる。
「でも、お前がここにいるっていうのは紛れもない真実で『現実』だ。そうだろ?」
 日向は広哉の手を振り払って、顔をそむけた。
「たとえ紛い物だとしても時間はどんどん経ってる。ついでに言うと今は4時限目の政治経済の授業中」
 冗談っぽく言う広哉。
「まぁ、あと20分ぐらいで昼休みだし、サボっても別にいいけどさー」
 広哉は腕時計を見て、そして日向の顔を覗き込んだ。
「やっぱ、戻りたくないか?」
 不意に優しくなった口調。
 気持ちが緩み、日向の目がわずかに潤む。
「………って…、もうあんなこと、繰り返すの……耐え切れない…よ」
 襟元をギュッと握り締め、苦しそうに呟く。
 広哉は黙って日向を見下ろす。
「せっかく……終わったと思ったのに………」
 顔を覆うと、掌が涙で濡れていった。
 不安と恐怖が息を苦しくされる。
 沈黙が流れる。
 次々と溢れてくる涙に、日向は嗚咽を漏らす。
『ヒナちゃん』
 心底心配しているといった感じの声。
 懐かしい声が自分を呼んだような気がした。
 脳裏に響いたその声に、思わず涙を止めて顔を上げと、広哉が目前に立っていた。
 自分が名づけた、名もない目の前の少年。
 そして日向の知っている幼い男の子・広哉。
 けっしてダブることのない二つの面影。
 同じ名前をつけても、あの広哉ではない。
 幼い頃、いつも自分のことを守っていてくれた大好きな男の子。
 引越しして、離れ離れになってしまったが、ずっと心にある男の子。
 あの、広哉ではないのだ。
 冷たい眼差しで自分を見つめる広哉に、日向はぼんやりとそう思った。
 そして『広哉』が冷たい声で言った。
「本当にそう思うのか」
「………え…?」
「本当に繰り返す、と思うのか?」
 広哉は強い口調で言い、怒ったような動作で日向の腕をつかんだ。
 さっきとは違い強い力でつかまれて、日向は眉を寄せる。
「離し…てよ……。だって…だって…一緒じゃない…。みんな…あの時と一緒じゃない!!」
 広哉の手を必死で振り解くと、日向は言い捨てた。
 重い空気が支配する。
 じっと見つめ続ける広哉。
 なぜかその視線に対することができずに、日向は目をつむって顔をそむけた。
 胸が激しくざわついた。

 考えたくないのに。
 もう、終わったと思っていたのに。
 もうなにも見たくなくて、もうなにも聞きたくなくて、だから…だから……。

「―――――わかった」
 張りつめた空気を、すべてを断つように広哉が短く言った。
 日向が間をおいて顔を上げると、広哉が身を翻すところだった。
「一つだけ言っとく。この『現実』はお前が動かないと進まないんだからな」
 背を向けたまま広哉の厳しい口調で言い放った。
 え…?、と口を開きかけた日向。
 だがその言葉はもう一つの声によって、邪魔された。
「お前ら、なにやってんだよ」
 それはやや不機嫌そうな声だった。
 見ると渡り廊下に一樹がいた。
 憮然とした表情で日向と広哉を見ている。
 そしてこちらへと歩いてきた。
 それと同時に広哉も歩き出す。
 広哉は一樹と肩を並べると、
「なんでもないよ。ちょっと楠木に聞きたいことがあっただけ」
と、やんわり言い、軽く手を振る。
「んじゃ、お先に」
 軽く言って、広哉はさっさと校舎へと消えていってしまった。
 一樹は顔をしかめたまま広哉の去っていったほうを見ている。だがすぐに再び歩き出した。
 渡り廊下のところまで歩いてきて、ふと日向を振り返る。
「日向? 一緒に来ないの?」
 キョトンとしていう一樹に日向は戸惑う。
 視線を逸らす日向に構わず、一樹は話しかける。
「俺さー今日、日直でしょ?」
 思わず『そんなこと知らない』と日向が心の中で呟いたことなど一樹が知る由もない。
「でさー5時限目に使う教材を今から取りに行っとこうと思ってさー。面倒なことは、さっさと終わらせて昼休みゆっくりしたいじゃん。ね、ヒナちゃん」
 くだけた口調、明るい声色。
 似てないのに似ている嵐の『複製』。
 日向は嫌悪感を覚えながら黙っていたが、ビクッとして顔を上げた。
 昼休み?、と思った瞬間日向の耳に、それまでの静寂が嘘のような喧騒がまわりに溢れた。
 午前中の授業が終わってほっとしたような生徒たちの楽しそうな話し声が風にのって響いてくる。
 顔を強ばらせる日向。
 一樹が歩みよって、その手を取った。
「行こ」
 引きずられるようにして日向もようやく歩き出した。
 一樹は教材のある別棟の準備室へと向かう。
 日向は沈んだ心で、自分を置いていった広哉の顔を思い出す。
(……なにがもうすぐ昼休みよ…。もう昼休みじゃない。なにが授業サボるなよ。そんなの関係ないじゃない。誰も何も気づいてないじゃない。現実じゃないって証拠じゃない…)
 重苦しくて、それ以上考えるのも嫌になった。
 日向はうなだれたまま顔を上げない。
 一樹が心配そうに日向のことを見ていたが、日向はそれに気づかない。
 やがて準備室につき、一樹が日向の手を離した。一樹は準備室の中から必要なものを集めだした。
 日向はただ黙って準備室の戸口に立っていた。
 少しして扉が閉まる音がした。ようやく日向は顔を上げる。
 見ると一樹が横にいた。
(…なんで閉めるんだろ……)
 ぼんやりと、だがどうでもいいやといった感じで日向は顔を背けた。
 どうせ本当じゃないんだから、と。
 そんな日向の横で戸に背もたれして、一樹は日向を覗き込む。
「日向」
「……………」
「ひーなちゃん」
「……………」
「…おい、どうしたんだよ? お前、今日変だぞ」
 うんともすんとも言わない日向に一樹は語調を強め、日向の前に立つ。
「…………別に…」
「別にじゃねーよ」
と、大きなため息をつく一樹。
「あーあ、女ってわけわかんねー。急に不機嫌になるんだもんなー」
 すねたような口調で言いながら、また戸にもたれかかる。
 また一樹は大きなため息をついた。
 すこし沈黙して、「あ」と一樹が日向を見た。
「もしかしてこの前貸してもらったCDぜんぜん返さないからムカついた、とか?」
 日向は何も言わない。
「日向のクシを勝手に使っちゃって、持つとこ折っちゃったの…とか? でもあれはさー細すぎた!」
 一樹は空気を和まそうと軽いのりで、指折り数えながら思いつくことを口にする。
「この前の日曜、実は約束すっぽかしたの実はムカついてたとかー」
『この前の日曜、日向一緒じゃなかったの?』
 反射的に日向の顔が強ばった。
 一樹はそれを見て反射的に身体を起こした。
 シン、とする。
「…………あの日は…ごめんな…」
 思い出したくない記憶。聞きたくない言い訳。
「しょうがないわよ。だって急に親戚が亡くなって法事になったんだから。気にしてない」
 日向は早口で言い切った。
 話を終わらせるように。
 そしてまた、シンとした。
 ああもういやだ、と目をつむる日向。
 こんなくだらないこと、いつまで続けなければならないんだ。
 広哉を探そう、そう思った。
 また口論になるかもしれない。いや、なるだろう。だがこんなところで、こんな意味のないことをしているよりマシだ。
 だって広哉は、日向が死んでいることを知っているのだから。
 そう考え出すと日向は早くこの場を切り上げたくなった。
「一樹、べつに私ふつうだから。気にしないでいいよ。ちょっと眠たくてボーっとしてただけ。だから……」
「ごめん」
 一樹の声がかぶさる。
 キョトンとして初めて日向はまっすぐに一樹を見た。
 一樹はわずかに顔を強ばらせている。
「この前の日曜……親戚が亡くなったのは本当なんだ…。葬儀の準備の手伝いも本当」
 言いにくそうに、重い口を開く。
「ただ………、使いっぱしりされて…いろいろ買出しとか行ってて…。そんで…その時に…昼過ぎごろかな……。その時に……」
 要領を得ない話。
 だが日向は唖然とする。
(……なにを…言い出すの………。なに言ってんの…?)
 困惑する日向。
「その時…その…凪にあってさ…。偶然だよ! でさ…あいつすっげーブルーになってて…」
 日向の唇から、小さく漏れる吐息。
「……両親と弟の…ことで…」
 その日向の呟きに、一樹はほっとしたように続ける。
「そう、そのことですっげー落ち込んでてさ。『気にしないで』って言われたって気にしないほうが無理だろ? 友達なんだし」
 一樹は優しい笑顔を浮かべて話す。
「でさ、こりゃなんとかせねば! って思ってさ。で…その映画を…見に行ったんだ」
 内緒にしててゴメン、と一樹は謝った。
「会ったのが映画館の前だったっていうのもあったし、ちょうどそこでコメディがあってたっていうのもあるし。日向も呼ぼうとは思ったんだけど…さ、その前の日に葬儀の手伝いサボらないように言われてたの思い出して、ちょーっと…どうしようかなって思って」
 馬鹿だね、と苦笑する一樹。
「やっぱり夜電話したときに言おうとも思ったんだけどさ…、なんか手伝い大変だったでしょ、とか心配してもらったから…なんか言いづらくなっちゃって。…でもやっぱなんか言わなくちゃなーとか思ってたん…」
「なんで」
 焦ったように話続けていた一樹の声を、震える声がさえぎった。
「なんで…………言うの」
「…え?」
「なんで……」
「ひな…た?」
 驚いたような声。
「なんで、お前…泣いてんだ…よ……」
 いつの間にか、日向自身知らないうちに涙が頬をつたっていた。
 そっと、困惑しながら一樹の指が日向の涙に触れる。
 それを逃れるように日向はかぶりをふって、顔を両手で覆った。
「やめてよ…!! 変なこと言わないでよ! 本当じゃないのに! 本物じゃないのに!
やめてよっ…………!」
 苦しげな口調。
 怖がる幼子のように泣いている日向。
 そして再三の沈黙。
 そして数十秒後、暖かい手がうつむく日向の肩を優しくつかんだ。
「……なんで…泣くんだよ」
 その声がついさっきまでの少年の『声』と違うことに泣きじゃくっている日向は気づかない。
「日向…」
 優しい声。
「……日向?」
 愛おしさのこめられた、その声。
 微かに日向の身体が震えた。
「………泣くな…」
 ゾクゾクと鳥肌がたつ。
「…日向」
「…………………あ…ら…し」
 喉が…震えた。
 自分を呼び続ける声の主の名。

 なんでなのかわからない。
 顔をあげることが、出来ない。

「大丈夫か…?」
 現実にあった声。
 ガタガタと激しく身体が震えだすのを止められない。
 なんでなんでなんで、と耳を塞ぐ日向。
「日向」
 もう聞くことのないと思っていた、声。
『イヤ』
「ひな……?」
「……ぃ…………い…や……っ!」
 肩にかけられた嵐の手を振り解く。
 その瞬間、ほんの一瞬、目があった。
 そして日向は身をひるがえすと、戸を勢いよく開け放ち廊下に飛び出した。
(誰か…助けて…)
 涙が、止まらなかった。