『sideA  nightmare-5』











 変わったのだろうか、それとも始まったのだろうか。






 あの日から最初の日曜日、グライスのことを心配してレゼが家へやってきた。
 シュッドはもちろんレゼを玄関にさえあげることもせず、廊下で数分話していた。
 グライスはただ黙って自室にこもっていた。
 だからシュッドがレゼとなにを話していたかはわからない。
 グライスは心配させないように一度顔を見せなければならない、と暗い心の中で思った。
 二人の生活は虐待という新たな要素によって、一変した。
 朝今までは朝食はかならず一緒にとっていたし、夕食もシュッドはなるべく早く帰るように気をつかっていた。
 だが、シュッドは朝早く出かけ、そして夜は遅く帰ってくるようになった。
 顔をあわせるのは滅多になくなった。
 シュッドの休日には勉強を教わり、買い物に出かけていたのが、少なくなった。
 買い物は数ヶ月に一度、一緒に行くことがあったが、二人の間に会話はない。
 接点がない二人の生活。
 だけれども暴力だけは、つきまとう。
 夜遅く、突然ドアが開き眠っている中、突然殴られることもあった。
 連日のように暴力が続いた日もあれば、10日ほどなにもないときもあった。
 だが日々は恐怖で彩られている。
 いつシュッドの手があがるかわからない。
 グライスは息をひそめて、日々を暮らす。













「おはよう」
 窓を開けると、庭からシルが声をかけてきた。
「おはよう」
 グライスは笑顔を作って、明るさを心がけて返す。
 シルがグライスの部屋にあがってからもう1年以上がたっていた。
 隣家との交流は断絶されず、わずかながら続いていた。
 あの日、あの頬の腫れが引いてから一ヶ月ほどしてようやくグライスはシルたちのまえに姿を見せたのだ。
 心配していたというシルたちに、親戚の家に遊びに行っていたのだ、と嘘をついた。
 そしてこれから勉強をたくさんしたいから、今までのようには遊べないということも告げた。
 シルはなにか言いたそうにしていたが、レゼは優しく微笑んで、いつでも遊びにきてね、と言ってくれた。
 グライスは隣家と少しづつ少しづつ距離をとっていった。
 シルやリーナたちとたまに遊ぶ時間はほんとうに最上とも思えるひと時だったが、家に帰ると辛くなる。
 暖かなシルたち家族を見ていると、どうしようもなく息苦しくなる。
 それはシルやリーナへの羨望。
 そして絶望から。
 家に帰ると、すべてが闇に閉ざされ、まるで牢獄の中にいるような気分になる。
 シルたちは光の中。
 自分は闇の中。
 どうしようもない、どうすることもできない。
 眩しすぎて、シルたちと一緒にはいられない。
 そうしてグライスは隣家と少しづつ少しづつ距離をとっていった。
 時は流れる。
 子供の一日はとても、長く、だがあっという間に過ぎていく。
 シルに新しい友達が出来ていくのを、グライスは嬉しいような寂しいような気持ちで見守るしか出来なかった。






















 季節は秋から冬に移り変わろうとしていた。
 11月の最初の日曜日、グライス達は久しぶりに二人で買い物にでかけた。
 もちろん会話などなく、ただ必要なものを買って帰るだけ。
 以前なら窓に引っ付くようにして見ていた景色も、今はそっと遠慮がちに見つめるだけ。
 それでもやはり外にでるのは好きだった。
 一通りの買い物をいつものモールですませ、車はあっというまに帰路につく。
 だが、帰り道が家への方向とは違った。
 はじめてみる街並みがグライスの目に映し出される。
 不思議に思いながらも、景色に目を奪われる。 
 そうして数十分走ったところで車は止まった。 
「用事がある。20分ほどで戻るから、待ってろ」
 シュッドがグライスのほうを見ずに言う。
 グライスは頷きながら、外を見回す。
 不意に一つの建物が目に映り、車から降りようとしていたシュッドをとっさに呼び止めた。
「あ、あの」
 自分から話し掛けるなんてどれくらいぶりだろう。 
 シュッドは冷ややかな眼差しでグライスを見下ろす。
「なんだ」
 グライスはうつむきながらも、小さな声で言う。
「………ちょっと散歩してきても…いい…?」
 恐々としたグライスに、シュッドはわずかに逡巡して、
「…車に気をつけろ」
と言った。
「うん」
 ぱっと顔を輝かせるグライス。
 車を閉めて、背を向け歩き出すシュッド。
 グライスも逆方向へと駆け出す。
 数歩行ったところでシュッドが振り向き、グライスが走っている方向を見やった。
 その先には十字架を掲げた尖塔をもつ建物。
 シュッドは胡乱な眼差しでしばらく見つめたあと、また歩き出した。
















 
 教会に近づいていくと、微かな歌声が聞こえてきていた。
 もう昼をとうに過ぎている。
 日曜の礼拝を終えて、聖歌隊が練習をしているのだろうか。
 そっと扉に手を触れる。
 開いたドアから溢れてくる歌声。
 賛美歌が教会中に満ちている。
 聖歌隊の少年少女の澄み渡る美しい歌声に、グライスは息を止めて聞き入る。







 我に来よと主は今 優しく呼び給う
 などて愛の光を 避けてさまよう


 帰れや、我が家に 帰れや、と主は今呼び給う


 疲れ果てし旅人 重荷を下ろして
 来たり憩え、我が主の 愛のみもとに


 迷う子らの帰るを 主は今待ち給う
 罪も咎(とが)もあるまま 来たりひれ伏せ



















 いつのまにか歌は終わっていて、聖歌隊は解散していた。
 ガランとした教会の中。 それでもグライスは余韻に浸ったまま、ぼんやりと祭壇を見ていた。
「歌が好きなのかな?」
 穏やかな声が、静かに響いた。
 グライスはドキッとして見上げる。
 50代後半ぐらいだろうか、優しい微笑をたたえ、司祭が立っていた。
 声をだせないグライス。
 司祭は急がせることもせず、ただ笑みを浮かべてグライスを見守る。
 優しい空気にグライスはおずおずと声をだした。
「…賛美歌が…とっても綺麗で……とても幸せで…」
だから聞き入っていたのだ、とグライスは頬をわずかに赤く染める。
 司祭は透き通るようなグライスの青い瞳を、目を細めて見つめる。
 純粋さに溢れた言葉が、とても微笑ましい。
「聖歌隊には入らないのかい? それとも他の教会で入っているのかな?」
 教会に来たのはこれで2回目だ。
 シルたちと教会へいく機会もあったが、虐待が始まってから自分は教会へ行ってはいけないような気がして足が遠のいていたのだ。
 暗い影が瞳をよぎる。
 わずかに翳ったその表情に、司祭は表には出さず怪訝に思う。
「…入っていません。あまり…教会には来ないんです…。……僕は…主のことを想っているだけで、幸せだから」
 今日、この教会が目に映ってとっさに来てしまった。
 だがいま、少しづつ後悔してきた。
 傷だらけで汚れている自分は、来てはいけなかったのだ。
 なぜかそう想い、哀しくなる。
 うつむいたグライスに司祭はあくまで優しく穏やかに話しかける。
「君は幼いのにとても信仰があるのだね」
 司祭の手がそっとグライスの肩に置かれる。
「教会に来ずとも、君が主のことを想っている限り、主も君のことも見守っていらっしゃるよ」
 少しでもこの幼い子供が抱えているなにか重いものを軽く出来るように、と司祭は笑む。
 暖かな司祭の言葉にグライスは目頭が熱くなるのをかんじた。
 グライスに素直な笑顔が広がる。
 その笑顔はとても眩しく司祭の目に映る。
 司祭はしばらくグライスを見つめ、そして胸に下げていたロザリオを外した。
 輝く銀製の十字架にグライスは見とれる。
 そしてそのロザリオが司祭によって首にかける。
 ひんやりとした感触に驚いて司祭を見上げるグライス。
「なぜだろうね、君に持っていてもらいたいと思ったのだよ」
 それは本心だった。
 出会ってまだほんの数分しかたっていない。
 だがグライスから溢れる信仰心とその純粋さを感じ、司祭は自然とロザリオをグライスに渡していたのだ。
 戸惑い、ロザリオに触れるグライス。
 十字架は冷たいが、だけれども触れていると心が落ち着いていく。
 光を吸い込み、身体の中からすべてが流れ出すような気がする。
 久しぶりの幸福なひと時。


 だがそれもほんの一瞬。
 自分の名を呼ぶ第三者によって崩される。 


「グライス」
 光の中に重く響く声。
 グライスの身体が瞬間、強張る。
 その様子を司祭が見つめていたが、グライスには気にする余裕もない。
 悪戯を見つかった子供のように、グライスは後ろを振り返った。
 シュッドが二人の方へと歩み寄る。
 司祭をに軽く会釈すると、「帰るぞ」と短く告げる。
 グライスは黙って頷く。
 シュッドがグライスの胸にかかっているロザリオに気づき、手を伸ばした。
 さらにグライスの身は緊張で硬くなる。
 司祭を一瞥するシュッド。
 司祭は笑顔を浮かべる。
「私がプレゼントしたのですよ、息子さんに」
 シュッドはまだ若いが、グライスぐらいの子供がいても不思議ではない。
 シュッドは微かな笑みを浮かべる。
「この子は甥です…。しかし…司祭様のロザリオを頂く理由などないのでは?」
 グライスと同じ透き通るような青い瞳。
 だがそこには深く暗いものを感じさせる光がある。
 司祭は叔父と甥の間に流れる息苦しいような重い空気を感じ取りながらも笑みを絶やさない。
「いいえ、甥御さんにはとても信仰があるようですから。持っていてほしいと、私が思ったのですよ」
 シュッドは目を細めてグライスを見つめる。
 視線が痛くて、シュッドはうつむく。
 ややして、「礼はちゃんと言ったのか」とシュッドが訊いた。
「うん…」
「…なくさないように、大事にしろ」
 シュッドの言葉に驚いたように顔を上げ、そしてほっとしたように頬を緩ませる。
「うん」
 大切そうにぎゅっとロザリオを握り締める。
 司祭がやわらかな微笑を向ける。
「なにか悩むことや迷うことがあたら主に相談しなさい。いつかきっと道は開けるでしょう」
 グライスに向かって言いながら、それはシュッドにも向けられた言葉。 
 シュッドは扉のほうを向き、息苦しそうに襟元を緩める。
 清浄な空気がシュッドの顔色を悪くしていく。
「それにいつでもここの扉は開いています。なにかあったらいつでも来てください」
 



 なにかあったら。
 なにかとはどんなことなのだろうか。
 虐待?
 虐待よりひどいこと?
 



 司祭の言葉にシュッドはさらに表情を暗くする。 



 神様助けて。
 そう祈ってそしてどうなるのだ?、と『彼』は思う。 



 
 司祭と視線を合わさないようにしながらシュッドはグライスに言った。
「帰るぞ」
「…うん」
 グライスは司祭にお辞儀をし、そしてシュッドを追いかけた。
 司祭は黙ってグライスとシュッドの背中を見つめていた。













 車に戻った途端に大きなため息をシュッドがついた。
 疲れたような横顔。
 自分は教会によって癒されるが叔父はちがうのだろうか、グライスは不思議だった。
 思わず見つめていたらシュッドが視線に気づいて横目に見た。
 慌てて視線を逸らす。
 シュッドはなにも言わずにエンジンをかけた。
 発進させながら、ぽつりと呟きが漏れる。


「神に…聞いてみるか……?」


 その言葉はとても小さく、グライスの耳に届くことはなかった。

















 次の晩のことだった。 深夜、眠っていたグライスは、ふとベッドのそばに人気を感じた。
 まどろみの中で薄く目が開き、自分を見下ろしている叔父が映る。
 一瞬で目が覚める。
 だが目を開くことはできなかった。
 いつ振り下ろされるか解らない拳に身体が凍る。
 目を閉じ、眠ったふりをする。
 ドキドキと脈打つ心臓の音が、聞こえてしまわないか心配でしかたない。
 いつ殴られるのか。
 だがどれだけたっても、シュッドが動く気配はなかった。
 ただ自分を見下ろしているだけ。
 その表情を見ることはできないから、シュッドの真意を推し量ることもできない。
 グライスはひたすら身を固めて、目を閉じていた。
 どれくらい後だったろうか。ほんの数分だったかもしれないし、とても長い時間だったかもしれない。
 ようやくシュッドは静かに部屋から出て行った。
 ドアの閉まる音がして、ようやくグライスの身体から力が抜けた。  
 極度の緊張感は疲労をうみ、グライスはほどなくして眠りに落ちた。
 だから朝目覚めたとき、まるで夢の中のできごとのようなきもした。





 そしてそれから1ヶ月ほど、ぱったりと暴力は影を潜める。




























 12月になった。
 日々、寒くなっていく。
 教会に行ってから、シュッドの暴力が止まった。
 最初の1週間はまったく油断することはなかった。
 以前も数日暴力がないときもあったから。
 だが2週間をすぎてもシュッドは手を上げない。
 そして3週間が過ぎ、グライスはシュッドの変化について考える。
 あの日、教会でシュッドはなにか感じたのだろうか、と思った。
 あの日からシュッドはわずかに変わったのだ。
 だがだからといってすべてがいいほうに向かっているとも思えなかった。
 シュッドの生活はさらに不規則になっていた。
 グライスが起きている間に帰ってくることがなくなった。
 たまに朝起きると部屋が酒臭いことがある。
 叔父は大丈夫なのだろうか。
 どんなに虐げられようと、幼い子供は自分を虐げるものの身を案じる。






 そして、クリスマスを目前に控えたある日、雪が降った。
 そして、その日、珍しくグライスが早く家へと帰ってきた。












03/6/3up