『7』














 拓弥は香奈を見ていた。
 すでにすべての授業は終わり、半数以上の生徒は帰っている。
 残っているのは部活動に行く前の生徒たちと、掃除当番だけ。
 香奈は掃除当番で、拓弥はほかのクラスの友だちを待っていたので、まだ教室に残っていた。
 教室の一番後ろのロッカーに座って、MDを聞いていた。
 その目はぼんやりと、だがさりげなく観察している。
 今日の香奈は、なにかいつもと違った。
 香奈はクラスメイトと明るく笑って話しながら、掃除をしている。
 香奈の、笑顔を見つめる。
 あの日の、笑顔と似ていた。
 あの二人で雑貨屋にいっていた、あの時の笑顔に。
 そして、由加里が死ぬ前、普通の憎しみなどとは縁の無い、女の子の笑顔に。
 拓弥は、目を眇めた。
(そろそろ…なのか)
 心の中で呟く。
 MDの曲が終わってしまい、音が途切れた。
 とたんに音楽のうるささとは違う、喧騒が耳に付く。
 男子生徒が大きな声で誰かの名前を呼んでいる。
 女子生徒の高い笑い声と会話が、響いている。
「香奈ちゃん。久しぶりに、遊び行こうよ〜」
 ほうきをもった女生徒が、香奈と喋っていた。
「うん。遊ぼう〜」
 屈託の無い、笑顔。
「ね、明日の放課後はー?」
「明日はねー、ママが海外から戻ってくるの」
「あ、そうなんだー。じゃあ、金曜日ぐらいにしよっかー」
「うん、いいよー」
 どこにでも聞かれる、ありふれた会話。
 だが、拓弥はその会話を聞き、表情を固くした。
 ロッカーからおり、自分の机からカバンを取る。
 そして教室から出て行くと、友人を見つけて言った。
「ごめん、急用できたから、先帰るな」
 拓弥は、友人の返事も聞かず、きびすを返した。
 その表情は暗く、とても厳しかった。


















 香奈は家に帰ると、お気に入りのワンピースを取り出した。
 姉も可愛いと言ってくれていた洋服。
 その上にジャケットを羽織り、バッグを持つ。
 髪に乱れが無いかをチェックして、そして家を出る。
 バスに乗り適当なところで降りる。
 スーパーを探す。
 そしてメモを取り出して、香奈は必要な食材をカゴに入れていった。
 にんじん、牛肉、じゃがいも、玉ねぎ、マッシュルーム。
 ぶつぶつと口の中で確認しながら、店内を回る。
「デミ…デミソース」
 香奈は缶詰のコーナーをぐるりと見回す。2種類メーカー違うのがあって、少し悩んで適当に選んだ。
 スーパーで買い終わると、次は100円均一の店へと行く。
 まな板と包丁、そして飲み物などを買う。
 ようやく買い揃えて、香奈は今度は電車に乗って、夏木の住む街へと向かった。
 車窓の外は、まだ少しは明るいが、すぐに暗くなってしまうだろう。
 夏木の家につくのは、6時半ぐらいになるだろうか。
 夏木はいるだろうか。
 いなくても、待つだけだが。
 香奈は流れ行く景色を見つめ思う。
 ようやく、この日が来たのだ、と。
 なぜか不思議なほど安堵感があった。
 これから人を殺すというのに、驚くほど冷静だ。
 楽しくさえもあった。
 それに、今日は朝からずっと由加里がすぐそばにいるような気がしていた。
 自分のことを見守ってくれているような気がしていた。
(お姉ちゃん…)
 窓に映る自分の横顔を見つめ、そして微笑む。
 由加里に、微笑みかけた。
















 携帯電話が、鳴った。
 うたた寝をしていた夏木は、ソファーから身を起こし、電話を取る。
「はい」
 欠伸を噛み締めながら言う。
「私だ」
「……おじさん…」
「すまんな…急に」
「いえ…」
 お互い、口調は重い。
 西野は少し黙り、そしてため息をついた。
「この前は、すまなかったな」
「…いいえ…」
 そしてまた沈黙。
「……和久」
 いつもとは違う弱々しい声だった。
「私はお前のことが心配なんだ」
「………相原香奈には…もう近づきませんよ…」
 でも、予備校のバイトは辞めない、という意志を込める。
「和久…。お前が妹を想う気持ちはよく…わかっている…」
「………」
 だが、と西野は黙る。
「だが、相原香奈の…………姉は」
 その時、インターホンが鳴った。
 夏木は「すいません、ちょっと待ってください」と西野に言い、玄関に行った。
 ドア越しに廊下をみると、香奈が立っていた。
 夏木の顔が強ばる。
 ほんの数秒逡巡し、夏木は
「すいません、おじさん。来客なので、あとから掛けなおします」
と言うと、西野の返事も待たずに電話を切った。
 そして、扉を開けた。























「こんばんは、夏木先生」
 にっこりと笑顔でいう香奈。
その手にはいろいろな野菜などの入ったスーパーの袋を抱えている。
「…相原さん……。どうしたの」
 笑みをつくることが、出来なかった。
 鉛を詰め込まれたかのように、胸が苦しかった。
 幼い日、この手に抱いた妹が、目の前にいる。
 真実を、告げられない、妹が。
 そんな夏木の気持ちなど知らない香奈は、屈託の無い笑みを浮かべて、スーパーの袋を掲げて見せた。
「あの…夏木先生にはいつもお世話になってるから……。そのお礼に夕飯を作ろうと思って」
 突然押しかけてすいません、と香奈は目を細めた。
 夏木は顔が強ばるのを感じて、香奈から顔を背けた。
 気さくないつもの夏木とは違う様子に、香奈は戸惑い気味に声をかける。
「…あの気分でも…悪いんですか…?」
 夏木はそっと息を吐き、無理やり笑顔を作って香奈を見た。
「いや。…ちょっとうたた寝してたから、まだ寝ぼけてるみたいなんだ」
「そうなんですか」
 玄関にも上がらせてもらえない香奈はもじもじと荷物を持つ手を動かす。
 夏木は気持ちを断つように、香奈を正面から見つめた。
「ごめん…。相原さん。今日は帰ってもらっていいかな…。ちょっと疲れてるんだ」
 瞬間、香奈は困惑した表情をする。
「……あ、あの夏木先生」
 そう言うと、香奈は今にも泣きそうな顔でうつむいた。
 夏木は胸がひどく痛むのを感じる。
「突然で…迷惑なのは…わかってるんですけど……でも…」
 香奈は言葉をつまらせ、そして真摯な目で夏木を見上げた。
「……西野くんのこと相談できるの…夏木先生しかいないし」
「…………」
 夏木は顔を歪める。
 香奈から顔を背け、迷う。
 何の返事もしない夏木に、香奈は寂しそうに微笑んだ。
「…すいませんでした。帰りますね……」
 そう言うと、ゆっくりと身を翻す。
 夏木は耐えれず、とっさに声をかけてしまった。
「相原さん…。上がっていっていいよ…」
 香奈が、じっと夏木を見つめる。
「……俺でよければ………相談にのるから…」
 重い口調で、ようやく言った。
 夏木は扉を大きく開けて、香奈をうながした。
 香奈はようやく微笑を浮かべると、中へ入っていたった。
 夏木は香奈の後姿を見ながら、そっとため息をつき、香奈のあとから部屋へと入った。
 香奈は買ってきた材料を、台所へ置いていた。
「…すごい…いっぱい買ってきたね」
 二つのビニール袋から香奈は手早く冷蔵庫に入れるものと、野菜、そして包丁とまな板を出していった。
「そんなものまで買ってきたの?」
 夏木はまな板と包丁を見て言った。
 香奈はちょっと笑って夏木を見る。
「男の人の一人暮らしって、まな板とかあるのかなー、って思って。念のために。でもこれ100均なんですよ」
 と香奈は薄いまな板を見せた。
 夏木は否応なく安らいでゆく心を感じながら、苦笑する。
「料理するよ、俺。まな板も、泡立て器だってあるんだから」
 少し自慢げに言った夏木に、香奈はびっくりしたように台所を見回した。
「夏木先生、料理するんですか。意外」
「そう?」
 コクン、と頷く香奈。
「じゃあ、今度は俺が相原さん…と拓弥に手料理をご馳走してあげるよ」
 香奈はパッと顔を輝かせ微笑む。
「約束ですよ? 楽しみ〜」
 夏木は「約束するよ」と言いながら、西野に『もう近づかない』と『約束』したことを思い出す。
 胸がチクリ、と痛んだ。
「さあ、夏木先生は、ゆっくりしててください」
 香奈は夏木をソファーへと追いやる。
 そしてにっこりと笑って「台所好き勝手に使わせてもらいますね」と言った。
 夏木は頷きながら、
「何を作るの?」
と、訊く。
 香奈はじっと夏木を見つめる。
「ビーフシチューです」
「ビーフシチュー? 難しいんじゃないの?」
 香奈は笑って首を振った。
 そして台所へと入っていった。
 すぐに水の出る音が聞こえてくる。
 野菜を洗っている音。
 しばらくすると、トントン、という切る音が響いてきた。
 夏木はテレビをつけ、だが、香奈を見ていた。
 切る音。
 そして後姿。
 激しい郷愁が胸を締め付けさせる。
 香奈に重なる懐かしい面影。
 ほんのわずかしない母の記憶とダブる。






『お母さん、なにを作ってるの?』
 母は笑って、小さな我が子を見下ろす。
『今日は和ちゃんの好きな、コロッケよ』
 どこかで赤ん坊の泣く声が聞こえる。
『あら、……ちゃんが泣いてるわ。和ちゃん見てきてくれる?』
『うん』






 そうして自分は妹をあやしに行っていたのだ、と夏木は思い出した。
 寂しさと、大きくなった香奈への嬉しさ。
 入り混じる感情に、夏木は騒がしいTVに視線を移した。
 たとえ視線を他に向けたとしても、夏木の心は香奈を見ているのに。







 しばらくして、何か匂いがしてきた。
 ぼんやりとしていた夏木は、ようやく我に返って台所のほうを見る。
 すると香奈がコーヒーを持ってきた。
「あ、ありがとう…」
 香奈は微笑みながら、「ほんとに勝手に色々使っちゃってごめんなさい」と言った。
「なにか…手伝うことはなかった?」
 夏木は今更だな、と考えながら訊く。
 香奈は首を横に振った。
「いいえ、大丈夫ですよ。あとは煮込むだけだし。煮込むのが大変なんですけどね」
「40分ぐらい?」
 コーヒーを飲みながら、そんなものかな、と訊く。 
 夏木は舌になにか異物感を感じた。
 さりげなく指でそれを取る。
 ほんの小さな白い粒。
 錠剤みたいにも思えた。
(なんだ?)
 と思ったが、香奈の次の言葉に、すぐ忘れてしまった。
「3時間」
 夏木はぽかんとして時計を見る。
 今の時点で、7時。
 3時間煮込めばもう10時だ。
「え、そんなに煮込むの?」
 夜遅くなることに、夏木は戸惑った。
 香奈はなんでもないように笑う。
「それくらい煮込まないとおいしくないんです。お姉ちゃんのビーフシチューは」
 でも、と言いかけて、夏木は止まった。
「お姉さんの?」
「はい。お姉ちゃんのビーフシチュー。私大好きだったんです」
 香奈は姉のことを思い出しているのか、いつも以上の楽しそうな笑みを浮かべる。
「夏木先生も好きでした? お姉ちゃんのビーフシチュー」
 香奈は笑っている。
 夏木は怪訝な顔をした。
『夏木先生も好きでした? お姉ちゃんのビーフシチュー』
 香奈の言葉を反芻する。
 言っている意味が、わからなかった。
 言葉を詰まらせた夏木を気にせず、香奈は台所へ戻る。
 そして鍋の中を混ぜて、そしてまた戻ってくる。
「あの、相原さん…?」
 香奈は夏木の言葉を無視して、言う。
「先生っていい人そうに見えるのに、お姉ちゃんには冷たかったんですか?」
「…………」
 香奈は笑っている。
 でも、その笑みは夏木が見たことのないものだった。
 冷たい、笑顔。
「…相原さん………」
 話がよくわからない、夏木はそう言いたかった。
 だが。
 突然、猛烈に襲ってきた睡魔に、ふらりと身を揺らし、額に手を当てる。
 目がかすみ、ぼんやりとした。
 強烈に眠い。
(なんだ……?)
 虚ろな目で、夏木は視線を彷徨わせる。
 そして、ぼんやりと香奈の姿が映った。
 香奈はいつも笑っていた。
 でも、眠りの中へ引きずられていく夏木の目に映った香奈は、無表情だった。
 無表情に、夏木を見下ろしていた。
 夏木は声を、かけようとした。
 だが、意識が遠のいていく。
 深い眠りの中へ落ちていく。
 香奈が、何か言った。
 だが、夏木には届かなかった。
 夢の中へと落ちていく夏木。
 香奈はにっこりと、夏木に手を振る。
 姉の持っていた睡眠薬のビンを手に、おやすみなさい、と。