『5』
「夏木先生」 授業が終わり、講師室へと帰っていく夏木に声がかかった。 振り返ると、香奈が笑顔で駆け寄ってきた。 笑顔の香奈に、夏木の笑顔も明るくなる。 「こんばんは、相原さん」 授業ではあっていたが、実際喋ったのは今日これが最初だった。 「この前は、ありがとうございました」 カバンを胸のところで抱え持ち、香奈はぺこりとお辞儀した。 「いえいえ。なんかあんまり役にたてなかったみたいだし」 「そんなことないですよ〜。とっても楽しかったです」 そう香奈は微笑んだ。 夏木は、そんな香奈といるひと時に、懐かしさと楽しさを感じる。 「まぁ、たいした力にはなれないかもしれないけど、なんかあったら協力するから。拓弥はいい奴だしね」 香奈は夏木をわずかに見つめて、にっこりと笑った。 「ありがとうございます」 とまたお辞儀をする香奈に、いえいえとお辞儀を返す夏木。 そんな二人の横を一人の少年が通り過ぎた。 「おい、素通りするなよ」 夏木が少年の後姿に声をかけた。 かったるそうに少年は振り返る。 「さよーなら、夏木先生」 そっけなく言う拓弥に、夏木はため息をつきながら手招きをする。 拓弥もまたため息をつきながら、数歩だけ近づいた。 「なに」 「なにっておまえなぁ。相原さんを見習えよ。もうちょっと爽やかに挨拶できないのかよ」 「和兄に爽やかに挨拶したってなんの得もないじゃん」 「………」 むっとにらむ夏木。 しらっとした表情の拓弥。 「あ、あの。それじゃあ、私、帰りますね」 二人のムードを壊すように、明るい声で香奈が割って入る。 夏木は「ん?」と、香奈を見て、そして何かを思いついたような表情で、小さく笑った。 夏木は拓弥を笑顔で見る。 「拓弥。送ってってやるよ。ついでに夕食に付き合え。おごってやるから」 「? なんだよ。急に。しかもおごりなんて珍しい」 「いいから」 そう言って、夏木はポケットからキーを取り出すと、拓弥に投げた。 「すぐ用意していくから。おまえ、先にいって車に待機、な」 そして、夏木は拓弥に早く行けと手を振る。 なんなんだ、とぶつぶつ言いながら、拓弥はフロアーから出て行った。 拓弥が出て行ったのを確認して、今度はにっこりと香奈のほうを振り返った。 「じゃ、相原さんも車に行ってて」 「え?」 きょとんと夏木を見上げる香奈。 「相原さんも夕食に付き合ってくれれば、送っていってあげるよ。だから、拓弥と車で待ってて」 ゆっくり用意していくから、その間二人きりで喋ってて、と夏木は笑った。 「え、でも。西野くん」 「いいから、いいから。がんばって、相原さん」 拓弥と香奈が親しくなれば、と心から思っている夏木は、満面の笑みで香奈の背を押した。 香奈は「ありがとうございます」と三度目のお辞儀をした。
たしかに西野拓弥を夏木に近づくために利用したけども、予想以上の夏木の協力体制にやや面倒くさい香奈だった。 エレベーターから地下駐車場へと降り、夏木の車へと向かう。 助手席には拓弥が乗っていて、目が合ったが、お互い何の反応もしめさなかった。 それでも一応香奈は笑顔を浮かべて、後部座席へと乗り込んだ。 「んなことだろうと思った」 ボソッと拓弥が呟いた。 「ごめんね。西野くん」 「いいよ。別に」 それだけ言って、二人は沈黙した。 どのくらいだろうか。ほんの数分ほどだったのだろうが、とても長く感じられる沈黙を破ったのは拓弥だった。 「あのさ…」 香奈は顔を上げた。 拓弥の表情はサイドミラーにわずかに見えるぐらいだ。 「なに?」 拓弥は正面を見たまま、口を開きかけ、やめた。 「……?」 「…相原は…キムチ鍋って食べれるよな?」 「…は?」 ぽかんと香奈は問い返した。 「辛いのって嫌い?」 「え。ううん。好きだけど…」 「あ、っそ」 終わる会話。 そしてまた唐突に拓弥が言った。 「今日の夕食、キムチ鍋だから」 「キムチ鍋?」 うん、と頷く拓弥。 拓弥の会話の意味を飲み込めない香奈の目に、歩いてくる夏木の姿が映った。 「おまたせ」 車に乗り込む夏木。 拓弥は夏木のほうを見て、 「和兄。今日おれんちキムチ鍋なんだって」 「鍋? じゃあ夕食は…」 「で、親父が仕事で遅くなるらしくってさ」 「じゃあ、お前食べなきゃなー…」 「だから連れて来なさいだって」 夏木が拓弥を見た。 「相原さんも? いいのか?」 「同級生もいるって言ったら、いいって。鍋は大勢のほうがいいからって」 「じゃ、キムチ鍋だな」 「うん」 と、まとまる話。 話に入り込めなかった香奈は慌てて声をかける。 「あ、あの。西野くんの家に行くんですか?」 「キムチ鍋好きなんだろ」 拓弥が言う。 「大丈夫。優しいお母さんだから」 と、笑う夏木。 「でも私、やっぱり」 夏木に近づきたいが、だが、あまりそのことを知られたくない。 しかも同級生の家に行くなんて。 それに…。 「あの、本当に私、帰ります。すいません」 そう言って押し黙った香奈に、夏木も、 (確かに好きな相手の実家に突然行くなんて、心構えができないよなぁ) と、思った。 「わかった。じゃあ、こんどまたこの3人で夕食でも食べに行こう」 香奈はほっとした。 「でも、送っていくのはいいよね。せっかくだから」 夏木は優しく、笑いかける。 香奈も笑みを浮かべて、頷いた。 「ありがとうございます」 言いながら、香奈はようやく落ち着く。
動きだした車の中で夏木を見つめる。
夏木には近づきたい。 だが、夏木の幸せそうな顔を、楽しそうな会話を聞くのは、心の底から嫌だった。 姉の幸せを奪った男が、のうのうと生きているのを、幸せそうにしている姿を見るのは、虫唾が走るから。 香奈は、そっとため息をつき、視線を伏せた。
西野宅に到着し、二人は談笑しながら、家の中へと入って行った。 「ただいまぁー」 と、玄関を開けると、パタパタと品の良い西野夫人が出迎える。 「おかえりなさい、拓弥。和ちゃん。お鍋もう出来てるわよ〜」 はいはーい、と言いながら拓弥は着替えるため二階の自室へと上っていく。 「おじゃまします。いつもいつもご馳走になって、すいません。おばさん」 「なに言ってるの、和ちゃん。本当は毎日だって食べに来て欲しいのに」 夏木は苦笑しながら、西野夫人のあとをついて、リビングへ入って行った。 ダイニングキッチンの大きめのテーブルの上には、鍋が準備万端出来ていた。 そして、上座にはビールを飲んでいる西野正行がいた。 「あれ、おじさん。帰ってたんですね」 夏木は西野の横のイスに腰を下ろしながら、言った。 西野は夫人から渡されたグラスに夏木の分のビールを注ぐ。 「ああ。依頼主から電話があって、遅くなるかと思ったんだが、案外早くまとまってな」 西野は弁護士をしている。 幼い頃両親を亡くしてから、西野夫婦が親代わりだった。 実際、この西野宅に夏木は中学生の頃まで住んでいた。 高校は西野夫人の反対にあいながらも寮に入った。 早く自立して、西野夫妻に面倒をかけたくなかったからだ。 「相変わらず、忙しそうですね」 「まぁまぁ、といったところかな」 夏木と西野が世間話を始めた頃、着替えた拓弥が降りてきた。 西野夫人がそう言えば、と拓弥に声をかける。 「同級生もいるって言ってなかった?」 「ああー。帰った」 「そう」 拓弥は席につくと、さっそく食べ始めた。 夏木達も、箸に手をつける。 「和久のほうはどうなんだ。講師のバイトのほうは」 夏木が豆腐を取ろうとすると、夫人が手際よく取り分けてくれる。 熱すぎる豆腐を、冷ましながら、夏木は笑う。 「そうですねー。楽しいですよー。来年は受験だ、と焦り始めてる生徒たちを見るのは」 言いながら、拓弥を見る。 受験、という言葉に一瞬一同から視線を集めた拓弥はそ知らぬふりで黙々と食べている。 「もうはじめて1年か」 「そうですねー」 「和ちゃん、もてもてでしょう? 若いし、頭いいし」 夫人が微笑みかける。 「え? おじさんって言われてますよ」 苦笑する夏木。 そんな夏木を見て、ボソッと拓弥が言った。 「一人気に入ってる生徒はいるけどね」 夏木は「は?」と拓弥を見る。 「なになに〜。和ちゃんが気に入ってるの? 気に入られているの?」 と、夫人。 拓弥は肉を取りながら、 「お気に入りなほうかな」 「まぁ」 楽しげな夫人。 西野は3人の会話をビールを飲みながら、聞いている。 「拓弥ー?」 なにを言い出すんだと、にらむ夏木。 「今日、来なかった同級生だよ」 拓弥は一瞬、ちらりと父親を見て、そして言った。 「相原香奈っていう子なんだけどさ」 一瞬の間。 そして、ビール瓶が倒れた。 ゴトン、と床に落ち、ビールが床に広がっていく。 「わっ!」 夏木は慌てて、夫人を見た。 夫人は固まって、拓弥を見ていた。 夏木は怪訝に思いながら、西野を見る。 そして西野の表情もまた、強ばっていた。 「…? あの…ビール」 不思議な空気に、夏木は戸惑い気味に声をかける。 拓弥がその空気を壊すように、勢いよく立ち上がった。 「おふくろ。ぞうきん」 大きな声に、びくん、として夫人は我に返った。 「は、はい。ぞうきんね。…あ、あら…大変だわ…」 台所へと走ってゆく夫人。 数枚のタオルで、床を拭く。 手伝おうとしたが、和ちゃんは座ってて、と言われた。 代わりに拓弥が手伝わされ、ぶつぶつ言っている。 「おじさん、ビールもう一本持ってきましょうか?」 西野は夏木を静かに見上げる。 軽く首を横に振った。 「いや、もういい」 西野は、グラスに残っているビールを飲み干す。 鍋を一口、二口食べる。 数秒して、西野が口を開いた。 「和久。その女生徒のことを気に入ってると言うのは」 「え? いやだな、拓弥の勘違いですよ。拓弥の同級生で、うちの予備校の生徒なんですよ」 夏木は苦笑しながら言った。 西野はちらりとリビングから出て行く息子を見て、そして立ち上がった。 「急ぎの仕事があるのを思い出した。和久、ゆっくり食べていけ」 「あ、はい」 西野は自室へと帰っていった。 少しして、手を洗いにいっていた拓弥が戻ってきた。 西野夫人はぞうきんを洗っている。 「あれ、親父は?」 「仕事があるって部屋に戻った」 「ふーん」 「ふーんて、おまえさぁ…。なに訳のわからないこと言ってんだよ」 遅れを取り戻すように、肉やら野菜やらを口いっぱいに頬張る拓弥は、夏木を見ずに問い返す。 「は? なにが」 「相原さんのことだよ」 「ああ」 「ああ、ってなぁ。誤解を招くような言い方はよせよなー」 拓弥は「はいはい」と適当に頷く。そして台所の母へ肉の追加を持ってくるように声をかけた。 夏木は拓弥の悪びれもない態度に、大きくため息をつく。 そして拓弥に負けないように、鍋をつついたのだった。
香奈が家に帰ると、電話がなっていた。 取ると、母からだった。 だいたい整理もついて、後5日後に帰国することのことだった。 「お父さんも、一緒に帰りたいって言ってたわよ」 香奈の母は笑いながら言った。 「香奈ちゃん、身体に気をつけてね。早く寝るのよ」 優しい母の言葉。 だが、電話を切った後、香奈の頭を支配していたのは、一つのことだった。 母親が帰ってくるまで、たった5日。 それまでに、終わらせねばならない。 母が帰ってきたら、今までのように自由はきかないだろうから。 だから。 香奈は唇を噛み締める。 「あと…5日以内に…あの男を殺さなきゃ」
しんとした部屋の中に、香奈の声が重く響いた。

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