『3』
『もう終わらせようと思う』
滑らかな書体。
『携帯のメモリーからも削除した』
性格を現すような丁寧で整った文字。
『もう……』
そして、文面からにじみ出る悲しみ。
『疲れた……』
その言葉だけが、崩れていた。
言葉の意味そのままに、書き続けることができないというように『日記』は終わっていた。
ぱたん、と日記帳を閉じ、ピンクの花模様をあしらった封筒の中から写真を取り出す。
そこには肩を寄せ、楽しそうに笑っている一組の男女が映っていた。
一人は相原由加里。
そしてもう一人は、夏木和久。
写真を持つ手に力が加わる。写真にはいくつものしわが出来ていた。
香奈はしばらくじっとそれを見つめ、封筒にしまった。それを日記にはさむ。
重く、細い吐息が、漏れた。
真っ暗な部屋の中。香奈は机に顔を伏せる。
今から、夏木の家へ行かなければならない。
そしてあの男が、姉を自殺に追い込んだ『恋人』であるという確かな証拠をえなければならない。
何かを得ることが出来なくても、すでに香奈は夏木にたいする復讐を誓っているのだが…。
姉の敵であるあの男と顔をあわせるのは、香奈にとってたいへんな苦痛だった。
憎しみに、すぐにでも殺してしまいそうになる。
彼女がもう一年近くいない、と夏木が言ったとき、よくもぬけぬけとそんなことが言えるものだと、香奈はもう少しで夏木につかみかかりそうになった。
それを必死で押さえ、無理やり笑顔を作る。
その繰り返しばかり。
だが、我慢するのだ。
準備が整うまで。
近づいて、笑って、入り込んで。
『なぜ』
と言わせてやる。
そして、笑って、殺してやる。
姉に暴力を振るい続け、そして自殺に追い込んだ、あの夏木和久を絶対に許さない。
「おじゃましまーす」
ぼそっと言いながら、靴を脱ぎ、上がる。
廊下右側にトイレとバスルーム。廊下奥に8畳のフローリング。そして隣に6畳の洋間(寝室)。
「和兄、これ」
と、拓弥は紙袋を渡した。
「おふくろから。なんかいろいろ食いモン」
紙袋を覗き込み、夏木は歓声をあげた。
「おお〜、肉じゃがだー。おばさんのホント美味いんだよなー」
嬉しそうに言いながら食料の詰め込まれたタッパを冷蔵庫に入れる。
「夕飯にでもくうか? もちろん食ってくよなー」
「ああ食ってく。もちろん送ってくれんだよね?」
「もっちろん」
大きく頷きながら、夏木はオレンジジュースをつぐと拓弥に渡した。
「で、面白いゲームってのは?」
3分の2ほど飲みながら、拓弥はテレビラックのあたりを見回す。
夏木は、ゲームソフトの用意をしていなかったことを思い出し、作り笑いをする。
ソフトのはいった箱の中から、適当に取り出して、拓弥に渡した。
受け取った拓弥は、眉を寄せて夏木を見る。
「……人生ゲーム…?」
「……………そ、人生ゲーム…」
まじで?、といった表情の拓弥に、夏木は笑顔を引きつらせた。
その時、インターホンがなった。
夏木は「はーい」と玄関へ向かう。
拓弥はテレビをつけて、チャンネルをかえていた。
ドアを開けると、香奈がやや緊張した面持ちで立っていた。
「いらっしゃい」
笑顔を向ける夏木。
「道、迷わなかった?」
「は、はい」
間違うわけがない。なんども、夏木の部屋を見に足を運んできたのだから。
「あの…西野くん」
「来てるよ」
「…ほんとにお邪魔していいんでしょうか…。西野くん、嫌がるんじゃ」
心細そうに言う香奈。
夏木は笑いながら手を振る。
「気にしないでいいって。勉強教えてもらいに来たってことで。だいじょーぶ」
はい、と夏木はめったに来ない客人用のスリッパを出した。
香奈はおずおずと上がる。
夏木は先に部屋の中へと戻った。
テレビを見ていた拓弥が、夏木を見上げる。
「お客?」
「ああ」
そう言った夏木のうしろから、香奈が歩いてくるのを見て、拓弥の動きが止まった。
「いや、勉強でわからないところがあるって昨日言ってたから呼んだんだけど。お前もいるし…」
構わないよな、とやや引きつりながら笑顔を浮かべる夏木。
沈黙する拓弥。
香奈は夏木と拓弥を交互に見て、
「あの…やっぱり私帰ります」
夏木はあわてて香奈を見る。
「いいって。さっ、座って座って。ジュースでいい?」
「でも…」
いいからいいから、と座るよううながす夏木。
そばで拓弥が再びチャンネルをかえた。
「座れよ。せっかく来たんだから」
テレビを見たまま拓弥が言った。
「そうそ。さ、座ってて」
香奈はようやく微笑をこぼして、腰を下ろした。
夏木はキッチンでジュースをつぐ。
拓弥が横目で香奈を見て、「テレビ、この番組でいい?」と訊いてきた。
香奈は笑顔で頷く。
だが内心はこの夏木の部屋のことで頭が一杯だった。
姉はここに何度も来たのだろうか。
姉もあのキッチンにたったのだろうか。
姉はここで、あの男に、殴られたのだろうか。
知らず足の上にのせていたバッグをギュッと握りしめる。
「はい、どうぞ」
目の前にオレンジジュースが置かれて、香奈ははっとして夏木を見上げた。
「…ありがとうございます。あ…あの、これ」
そう言って香奈はケーキバッグを夏木に差し出した。
「ん?」
「あのチーズケーキ焼いてきたんです」
「相原さんが?」
「はい」
「お〜、すごい! ごめんね、逆に気を使わせちゃったみたいで」
「いいえ」
小さく笑って、香奈は首を振る。
本当は毒でも盛ってやりたいところだが…。
「拓弥、お前。女の子の手作りお菓子なんて食べたことあるかー?」
とからかい混じりの夏木の言葉。
「………和兄じゃあるまいし。そのくらいある」
夏木はむっとしたように拓弥を見る。
ぶつぶつ言って、夏木は3人分の皿を用意する。
「さっそく食べさせていただこうかな」
「あんまり美味しくないかも…」
夏木から皿を受け取って、香奈はチーズケーキを出すと、取り分けた。
「いや、手作りはどんなものでも美味しいよ。だって食べてもらおうという意志があるんだからね」
「夏木先生って優しいんですね」
すんなりと香奈の口から出た。
それは正直な気持ちだった。
外面だけはいいんですね、という意味を含んだ、言葉。
夏木はなにも知らず、照れ笑いを浮かべている。
はい、と取り分けたのをそれぞれのところへ置く。
夏木はテレビを見入っている拓弥の頭をたたいて、テーブルのほうへ来させる。
「いただきます」
夏木が大きく言って、拓弥と香奈がそれに続く。
ほんの数秒無口に、ケーキを口に運ぶ。
「おいしい!」
夏木が言った。
「そうですか?」
「すっごい。おいしいよ。相原さん、上手だね」
お世辞ではない言葉。
拓弥は何も言わないが、もう半分以上食べている。
夏木は一口二口と食べ、そしてため息をついた。ジュースを飲んで、香奈と拓弥を見て、微笑む。
「なんか、いいなぁー」
香奈はきょとんとして夏木を見る。
二切れ目に手を伸ばしていた拓弥も、チラッと夏木を見た。
「どうしたんですか?」
「いや、なんか弟と妹が出来たみたいな感じで」
と夏木は大きく笑った。
「なんじゃそりゃ」
ぼそっと拓弥が言い、二切れ目のチーズケーキを食べ始める。
「夏木先生は兄弟いないんですか?」
拓弥がわずかに顔を上げ、香奈を見る。
夏木は少し笑って、
「妹がいるんだ」
と言った。
「二人と同じ歳のね」
拓弥は香奈から夏木へと視線を移し、そしてまた食べ始めた。
「そうなんですか。仲いいんですか?」
「…妹とはもうずっと会ってないんだ」
「え?」
「小さいときに養女にいってね」
香奈は、食べる手を止める。
夏木は気を使わせないように、笑顔で拓弥の肩をたたいて、
「まあ、代わりに弟みたいなのが出来たけどね」
と言った。
は? 聞いてなかった、と言う風に顔を上げる拓弥。
ちっとは会話に入れ、と小突く夏木。
そんな二人は本当に兄弟のようだった。
香奈は、ふと姉のことを思い出す。
このチーズケーキも姉に作り方を教わったのだ。
姉と一緒によくお菓子を作ったりした。
とっても楽しかった、あの頃。
なんで、姉は、いなくなったのか。
(なんでお姉ちゃん死んじゃったの)
目頭が熱くなって、香奈は慌てて下を向く。
心細くて香奈はバッグの中のキーホルダーをぎゅっと握り締める。
プーさんのキーホルダー。
それは香奈が姉とディズニーランドに行ったとき、姉に買ってもらったもの。
香奈は唇をかみ締め、思い出を頭から振り払う。
そして、バッグから、一枚の写真を取り出した。
「これ、姉とディズニーランドに行ったときの写真なんです」
香奈は笑顔を浮かべて、その写真をテーブルにおいた。
「え…」
香奈の姉が最近亡くなったと聞かされていたから、夏木は内心戸惑いながら、写真に目を落とす。
香奈と姉・由加里。
夏木はわずかに眉を寄せ、写真を、由加里を食い入るように見つめる。
その表情が少し強ばった。
香奈はそんな夏木を見て、やはりこいつなのだ、と憎しみをたぎらせる。
思いのすべてを込め、写真を見つめる夏木を睨む。
そして、ふと。
拓弥と目が合った。
じっと香奈を見つめる拓弥。
香奈はビクッと体を震わせた。
すべてを見透かすかのような拓弥の視線に、動悸が速くなる。
だが、さっと拓弥は視線をそらせ、夏木がまだ目を落としていた写真を横から取った。
「大事にしとけよ」
そう言って、写真を香奈に渡す拓弥。
「う、うん…」
香奈は震える手で、それを受け取り、バッグへしまった。
妙な沈黙が流れる。
三人はもくもくとケーキを食べだした。
沈黙を破ったのは、拓弥だった。
パッパとチャンネルを変える、拓弥が大きなため息をついた。
「あー、なんか映画みたい」
「…映画?」
明るい空気に戻そうと夏木がわざとらしい大きな声で聞き返す。
「だってさー、和兄の言ってたゲーム、おもしろくないし。テレビもおもしろくないし。ひまじゃん。なんかビデオでも借りて見ようよ」
ぽん、とリモコンを床に放り出して、拓弥が言った。
「…いいな。おれ『千と千尋』見たいんだよなー」
「観た。『ロード・オブ・ザ・リング』が観たい」
「えー」
「相原さんは、なんか観たいのある」
ぶっきらぼうに拓弥が訊く。
「…あ、私は別になんでも」
「じゃ、決まり。な、和兄」
ニッと拓弥は笑って夏木を見た。
「…あー千尋観たかったなぁ」
「こんど一人で観ろよ」
「………」
「じゃあ、借りてこようか」
「もう行くか?」
「早く観たいし」
はいよ、と夏木は立ち上がる。隣の部屋から上着を取ってきた。
香奈もバッグを持って、立ち上がろうとした。
「相原さんは、待ってていいよ」
拓弥が言った。
「俺と和兄で行ってくるから。な、和兄」
視線を向けられて、夏木は頷いた。
「行く前にトイレ」
と、拓弥は部屋を出て行く。
残された二人は、なんとなく顔を見合わせた。
「なんか拓弥の奴、意外に楽しそうじゃない?」
夏木が笑みを浮かべる。
香奈は一瞬きょとんとし、はっとして笑顔を作る。
「…そうだったらいいんですけど。あの、私待ってていいんですか?」
「いいよ。お留守番になっちゃうけど、ゆっくりしてて。まぁ車だから、30分ぐらいで戻ってこれると思うし」
30分。
香奈は降ってわいたチャンスの時間を頭に刻む。
「お菓子とか、いろいろ買ってくるよ」
「すいません」
拓弥が戻ってきた。
「和兄、行こ」
「ああ。じゃ、相原さん、すぐ戻ってくるから」
「はい。いってらっしゃい」
玄関まで見送る。
バタンとドアが閉まり、部屋には香奈だけになった。
まさか夏木の部屋にたった一人でいられる時間がくるなんて、香奈は願っていても叶わないだろうと思っていた。
だが、チャンスはめぐってきたのだ。
探さなければならない。
夏木が帰ってくる前に、何かを。
姉と夏木を結ぶ、何かを…。
エンジンをかける。
ハンドルを握り締め、夏木は複雑な表情をしていた。
部屋を出るまでの笑顔とは、まったく違う表情。
発車させ、夏木は横目で拓弥を見る。
いつもと変わらない様子の拓弥に、夏木は疑問を募らせる。
(なんで…)
夏木はポケットからタバコを取り出すと、口に加え、片手で火をつける。
窓を開け、外へと煙を吐きながら、重たい口を開いた。
「なぁ、拓弥」
「なに」
視線は合わさない。
「あの相原さんのお姉さん…なんて名前なんだ?」
窓を開けてはいても、煙は車内に流れてくる。
薄い灰色の煙を眺めながら、夏木は訊いた。
「相原由加里、じゃなかったかな」
(由加里…)
夏木はまだ半分も吸っていないタバコを消した。
『由加』
そう呼んでいたことを、思い出す。
ずっと由加、と呼んでいたから、由加が名前だと思っていた。
というか苗字も知らなかったのだ、と夏木は思った。
「なんで、亡くなったんだ?」
「事故ってことだけど。本当は自殺らしい」
急ブレーキがかかり、車は止まった。
目前の信号はすでに赤に変わっていたのだ。
二ヶ月前に自殺して死んだ、相原由加里。
夏木は胸に靄がかかるのを感じる。
由加里に会ったあの日は、今年の4月だった。
二ヶ月前ということは、9月…に亡くなったということ。
由加里にあってわずか半年も経たないうちに、彼女が死んだというのか。
あの、とても幸せそうに笑っていたあの女性が。
「和兄。信号、青」
無表情な拓弥の声が響く。
はっとして、夏木はアクセルを踏んだ。
「拓弥……」
「なに」
「…………いや…なんでもない…」
疑問に、口を開きそうになる。
夏木はそして、ふと思った。
香奈とはじめて会ったとき、どこかであったことあるような気がしたことを。
それは香奈が由加里の妹だったからか。
その面影を見たからだろうか。
夏木は再びタバコをだして、吸い始めた。
(いや…)
違う、と夏木は思い起こした。
あの4月、由加里にはじめて会ったときも、どこかであったことあると思ったのだ。
そう、その時は、きっとどこかで2人が歩いているのを見かけたのだろう、と思った。
二人が…。
拓弥と由加里が。
(なんで…言わなかった? 拓弥…)
拓弥の方を向くことが出来ず、正面を向いたまま考える。
夏木が相原由加里に会ったのは、拓弥と3人で遊んだ4月のあの日、一日だけ。
知り合いの女性と遊びに行くことになったが、年上でどこに行ったらいいかわからないから、と夏木は拓弥に呼ばれたのだ。
あの時、どういう関係なんだよ、と夏木がからかっても、拓弥は『ただの知り合い』としか言わなかった。
同級生の姉と知り合い?
その姉が死んだのに、なぜ拓弥は香奈になにもいわないのだろう。
なにか言いようのない奇妙な感覚が、夏木を支配していた。
そして拓弥は、ただ、黙っていた。
手当たり次第に香奈は引き出しを開けていた。
もともと家具はすくない。
クローゼットの中の収納ケース。電話の置いてある棚。台所。
きちんと元に戻しながら、探す。
だが、なにも見つからない。
無造作に重ねられた参考書を一冊づつ広げてみても、写真もなにも、出てこない。
香奈はイライラしながらも、丁寧に探していった。
時計を見ると、夏木たちが出て行って、20分ほどたっていた。
30分ほどで帰ってくると言っていたが、どうだろうか…。
考えながら、香奈は部屋中を回る。
玄関までの短い廊下。
トイレとバスルームも一応のぞく。
洗面台の周辺。ミラー上にある棚。
そして、それは、あった。
ぽかんとするほど、あっさりと見つかった。
不自然な、紙の包み。
洗剤と洗剤の隙間。その奥に、あった。
その紙の塊を取ろうとする指がわずかに震えて、洗剤の列を倒す。
香奈は舌打ちして、取り出すと洗剤を元に戻した。
握りこぶしほどの紙の塊。
香奈はそれを持って、リビングへ戻る。
力が抜けたように床に座り込み、そして、目を落とした。
カサカサ、と包みを開く。
その中にあるものに、香奈は沈黙する。
そして……。
「―――――――殺してやる」
低く小さく、言葉がこぼれた。
紙に包まれていたもの。
それは盤面の壊れたピンクの皮のベルトの時計。
時計の針は止まっている。
叩きつけられて、壊れた、そんな感じだった。
その時計は香奈が由加里の誕生日にプレゼントしたものだった。
そしてクシャクシャにされた由加里の写真。
香奈はそれを胸に抱きしめ、そして、泣いた。
「ただいまぁ」 ビニールいっぱいに詰めこまれたお菓子やらジュースを重そうに持って、夏木と拓弥が帰ってきた。
部屋からパタパタと香奈が走ってくる。
「おかえりなさい」
香奈の笑顔を見て、夏木はなぜかほっとした。
姉の自殺は彼女にどういう影響を与えたのだろうか、そんなことを考えていたから、ほっとしたのだろうか。
持って行きます、と夏木の手から買い物袋を取る香奈を、夏木は見つめる。
そしてそんな夏木を、拓弥は見ていた。
夏木が部屋へ入っていき、拓弥はゆっくりと靴をぬいで、上がった。
そして、洗面台へと行く。
そっと鏡上の棚を開け、覗き込む。
そこに、あるはずのものがないことを認め、手を洗う。
タオルで拭かず、手を洗ってきたということを誇示するかのように水しぶきを振り払いながら、リビングへと戻った。
台所では夏木と香奈が楽しそうに笑いながら、お菓子などを袋から出していた。
夏木から、香奈へと視線を移す。
その笑顔の下で、何を思っているのかを考えながら、拓弥は呟いた。
「すべては計画通りか――――――」

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