『11・夢の終わり』












「これと、それ、ください」
 ポケットから財布を出す。
「あ、すいません。箱は二つに分けてもらっていいですか」
 彼は店員に言った。
 会計を済ませ、商品を受け取ると、店の前に止めていた車に乗りこんだ。
 そして数十分後、目的地につき、インターホンを押す。
「和ちゃん」
 と、その女性は笑った。
 夏木はにこっと笑って、箱の一つを見せる。
「これ、ケーキです。みんなで、どうぞ」
「ありがとう、和ちゃん」
 西野夫人は笑顔で、それを受け取った。
「和ちゃん、すこし痩せたんじゃない? あの人にこき使われてるんじゃない?」
 夫人は心配そうに夏木を見た。
 夏木は「そうですか?」と首を傾げ、苦笑する。
 夏木は予備校のバイトを辞めて、週3回西野の事務所で雑用のバイトをしていた。
 夫人は何かを言いかけて、そして口をつぐんで、笑顔で夏木を見上げる。
「和ちゃん、また夕食に食べに来なさいね」
 沢山言いたいことはあるのだろう。
 でもそれを押さえて、笑顔をくれる夫人に夏木は感謝する。
「いつでも、来ますよ」
 夏木はこれ以上夫人を心配させないように、精一杯の笑顔を返した。
「あの。おばさん、拓弥は?」
 今日は拓弥に呼びつけられたのだ。
「拓弥は岬公園で待っているって」
 夫人は近所の公園の名前を告げた。
 夏木は夫人と夕食の約束をすると、西野宅を後にした。








 公園のそばに車を止める。
 見回すとすぐに拓弥は見つかった。
 一人、ベンチに腰掛けている。
「拓弥…」
 声をかけると、拓弥は「久しぶり」と笑った。
「勉強、ちゃんとしてるか?」
 夏木の言葉に、拓弥は小さく笑った。
「なんだよ。会ったそばから」
「いやー、ずっとお前の勉強見てきたからさ、心配なの。俺がいないから成績下がってんじゃないかなーって」
「ちょっとうぬぼれすぎ、和兄。おれはもともと頭いいから、大丈夫」
「って、お前のがうぬぼれすぎじゃん」
 二人は言い合って、そして笑った。
 二人だけで話すのは、あれ以来初めてだった。
 夏木にはあのあと色々とすることがあって忙しかった。
 それに、顔をあわせづらくもあった。
 二人の間に沈黙が流れる。
 それは重くもあったが、苦しいものではなかった。
「俺さぁ…」
 しばらくして拓弥がぽつりと呟いた。
 拓弥は白い息を吐きながら、空を見上げる。
「なんか…。怖かったんだよね…」
 見上げたまま、拓弥はわずかに笑う。
「由加里がほんとうに、死ンじゃってさ…。復讐って言ってたけど、でもそんなの無理だって思ってたんだ」
『ねえ、拓弥、なんで邪魔するの』
 笑いながら言っていた由加里の言葉を思い出す。
「でも」
 拓弥は目を伏せる。
「相原が和兄の前に現れて、ほんとうに、復讐をしようとしているのを見て、怖かったんだ」
 夏木は黙って、聞く。
「なんだろう…。怖くて、でもあの姉妹の絆に、逆らえなくて」
 拓弥は考えがまとまらなくて、イライラしたように首を振る。
「俺はぜんぶ知ってて…相原を、和兄に近づけるようなこととか…したけど…。でも…」
 ため息が漏れる。
「止めることが、出来たのに、俺は…」
 言葉が途切れた。
 俺のせいだよ、と拓弥はしばらくして呟いた。
 冷たい風が、頬を冷やしていく。
 夏木は、その冷たさを逆に心地よく感じながら、拓弥の頭をポンに手をおいた。
「まぁ、いっさ」
 軽い口調に、拓弥は夏木を見る。
 夏木は優しく微笑む。
「まぁ、お前も悪いけど、もともとは俺が悪いし。復讐を考えたほうだってちょっとは悪いんだしさ」
 悔やんでもしょうがないさ、と夏木は拓弥の背中を軽く叩いた。
 拓弥は目がわずかに潤むのを感じて、慌てて顔を背ける。
「なんだよそれ。あっさりしてんの」
 ちょっと嫌味っぽく言うと、夏木は大げさにため息をつき、
「人生はまだ、長いからねぇ」
と笑った。
 拓弥は、体中にたまった重いものを吐き出すように大きく背伸びをした。
「和兄」
「ン?」
 拓弥は立ち上がって、夏木を見た。
「病院、毎日行ってるんだって?」
「ああ」
「……………元気…? 相原…」
 聞きづらそうに、伏せ目がちに聞く拓弥。
 夏木はポケットからタバコを取り出しながら、少し笑った。
「元気だよ。もう怪我もだいぶ治ってきてるし」
 拓弥は、何か言いたそうにし、そして黙った。
「…あのさ、和兄…。今日ってさ…」
「ん?」
「相原の誕生日だろ…」
 言いながら、拓弥はプレゼント包装された小さな小箱を取り出した。
 夏木に差し出す。
「これ…渡しといてくれないかな……」
「プレゼント?」
「うん…。時計…なんだけど」
 それは以前、拓弥が香奈と入った雑貨屋で買っておいたもの。
「お前が選んだの?」
 受け取りながら、夏木が笑った。
 拓弥は一瞬、視線を逸らせて、重く言う。
「…由加里が、選んでたんだ……」
「――――――」
「由加里が…生きてた頃に頼まれてたんだ…。かわりに…渡しといてくれって」
 拓弥はじっと哀願するような眼差しで、夏木を見つめる。
 夏木は、頷く。
「ちゃんと、渡しておくよ」 
 拓弥はほっとしたように、頬を緩めた。
「…俺も……こんど行くよ…。お見舞い…」
「ああ、一緒に行こうな」
 そう言って、夏木は立ち上がった。
「こんど、夕食ご馳走になりにいくから、そんときはまた勉強見てやるよ」
 夏木の言葉に拓弥は屈託なく笑った。
「楽しみにしててやるよ」
「なんだよ、それ」
 拓弥は大きく笑って、身を翻した。
「んじゃ、和兄。寒いから、帰るよ」
 軽く手を挙げ、少年はそう言った。
 夏木は笑って、その後姿に声をかける。
「ちゃんと勉強しろよーっ」
 拓弥は、はーいと空返事を返した。
 夏木は笑って、車に戻った。



















 拓弥と別れた後、夏木は無表情に車を運転し、病院へと向かった。
 あの時、夏木のマンションから飛び降りた香奈の下には運良く花壇があった。
 香奈はその中に落ち、ワンクッション置いて、地面に落ちた。
 それが幸いして、骨折などの怪我はあったが、命は取り留めたのだ。
 だが―――――。
 病院の駐車場に車を止め、夏木はケーキの箱と、そしてプレゼントをもって、院内に入っていった。
 こんにちは、と見知った看護婦たちから声がかかる。
 あれから一ヶ月、毎日この病院に通っているから、看護婦たちとも顔なじみになっていた。
 香奈の病室のある階にエレベーターがつく。
 エレベーターから降りながら、ふと夏木はポケットを探った。
 拓弥からあずかった、由加里のプレゼント。
 夏木は冷たい眼差しで数秒それを見つめる。
 その目に宿るのは冷たい光。
 そして夏木は無表情にエレベーターのそばにあるゴミ箱にそれを投げ捨てた。
 重い足を動かして、数歩歩く。
「………………」
 ゴミ箱を背にして、どれくらいの時間だっただろうか。ほんの数十秒だったのだろうか。
 深い闇の底にいるかのような、暗く険しい表情。
 夏木は血がにじむほどに唇を噛み締めると、踵を返した。
 そして捨てたばかりの小箱を拾い上げる。
 ともすれば潰してしまいそうになるそれを、深呼吸しながら再びポケットの中にしまった。
 そして今度こそ病室へと歩き出した。
 エレベーター乗り場の角を曲がると、病室のならびにある給湯室から一人の中年の女性が出てくるところだった。
女性と夏木と目があった。
 香奈の義理の母親。
 夏木は会釈した。
 香奈の母親は、夏木がいる間は、席を外してくれる。
 お互いに複雑な心中があるというのも確かだが、兄妹二人だけにさせてあげたいという配慮もある。
 夏木は洗濯物をもって、出て行く香奈の義母の後姿を見つめた。
 そして、夏木は軽くドアをノックして病室へと入った。
 香奈の病室は日当たりの良い部屋で、いつも日中は明るく輝いている。
 窓が少し開いていて、広場で遊ぶ子供たちの声が聞こえてきていた。
 夏木は後ろ手にドアを閉めて、窓の外を見ている香奈を見つめた。
 やつれた頬。
 頭と腕に痛々しく巻かれた包帯。
 夏木は唇を噛み、そっと息をつくと、声をかけた。
「香奈」
 反応は、ない。
「今日は、香奈の誕生日だったよな」
 笑顔で言いながら夏木はサイドテーブルにケーキの箱とプレゼントを置く。
「誕生日、おめでとう」
 反応は、ない。
「プレゼント、買って来たよ。何だと思う?」
 夏木はたえず笑顔で、優しく香奈に話しかける。
 ゴソゴソと、袋を開け、クマのぬいぐるみを取り出す。
「ほら、かわいいだろ? ってちょっと子供っぽかったかなー」
 照れ笑いを浮かべながら、夏木はそのヌイグルミを香奈に持たせてやる。
 香奈の手を動かして、持たせてあげる。
 香奈は、動かないから。
 香奈は、何の反応もしないから。
「ケーキは、ちっちゃめのホールケーキ買って来たよ。香奈が好きなレアチーズ。あとで皆で分けて食べような」
 あの時、香奈は命は助かったが、心は死んでいた。
 夏木だけではない。
 あわてて駆けつけた両親にも、夏木にも、すべてに反応しない。
 その目は何も見ず、
 その口は何も喋らず、
 その耳は、何も聞かない。
 香奈のすべては、あの女が、由加里が連れて行ってしまったのだ。
 夏木は椅子に腰掛けて香奈をぼんやりと見た。
 亡き母を思い出させるその横顔は、だが由加里にも似ているような気がした。
 それは、それだけ姉妹の絆が強かったということなのだろうか。
 あの事件以来、たまに夏木は思うことがあった。
 由加里は、最後は香奈が自ら命を絶とうとすることを、予測していたのだろうかと。
 由加里の香奈に対する想いは…どんなに複雑だったのだろうかと。
 たしかにすべての原因は自分にあるのだろうと夏木は思っている。
 だが、それでも由加里のしたことを許せるわけではない。
 受け入れるわけにはいかない。
「香奈…」
 愛おしさを込めて呟かれた言葉。
 もちろん香奈に反応があるはずもない。
だが、それでも構わない。
 香奈は、生きているのだから。
 それだけが救いだった。
 生きていれば、いつかはまた再びその瞳に光を取り戻すことが出来るかもしれないから。
 どんなに時間がかかっても、夏木は香奈の心を取り戻す。
 香奈に沢山の話をして、両親が生きていた頃の写真を見せてあげて、ずっと世話をし続ける。
 香奈が笑顔を取り戻すために。
 それが、夏木の最上の願い。
 それが、夏木の香奈に対する贖罪。
 それが、夏木の由加里に対する、復讐。
 夏木はそっとポケットに手を入れた。
 捨てかけた小箱を手にする。
 夏木はその箱を取り出すと、綺麗にラッピングされた包装をといた。
 そして箱を開ける。
 中には盤面に小さな花のついた、ピンクのベルトの時計があった。
 由加里が死ぬ前に、拓弥に託していた、香奈の誕生日プレゼント。
 夏木は時計をそっと取り出す。
 立ち上がると、香奈の腕をとった。
 その細い腕に時計をはめてあげる。
「香奈…」
 香奈に見えるように、腕を持ち上げる。
「由加里…さん……から、香奈への誕生日プレゼントだよ」
 ほんの一瞬その瞳が、わずかに動いたような気がした。
 ほんの一瞬のこと。 夏木がそれを見逃すわけはない。
 胸の奥が疼く。なんの痛みなのか…。
 夏木は目を伏せ、そっと息を吐き出す。
「良かったな………香奈」
 夏木は精一杯の笑顔を向けた。
 


 あの女のしたことは許せない。
 だけど――――――。
 だけど。
 


 夏木はぼんやりとした香奈の横顔を見つめる。



 だけど、由加里もまた、香奈のことを愛していなかったわけはないだろうから。



 だから。


「香奈」
 優しい声。


 だから―――――――。


「いつか…行こうな…」
 

「お前のお姉さんのお墓参りに」


 いつか、笑顔を取り戻すことができたら――――その時は――。









end.



  あとがき