『10』












 香奈は自分の目から涙が流れているのに気づいているのだろうか。
 拓弥はふと、そう思った。
『由加里……。香奈は…傷ついてるぞ…』
 拓弥は自分を睨み続ける香奈を見つめ、心の中で呟いた。








『由加里…』
『なあに、拓弥』
 女は笑っている。
『もう、やめろよ』
 キョトンとして女は首を傾げる。
『ねえ、拓弥? 私はあなたを愛してるわ』
 笑いながら言う、真実のない言葉。
『…俺も愛してるよ』
 哀しそうな少年の声。
 女はにっこり嬉しそうな笑みを浮かべ、少年の耳元で囁く。
『なら、いつものように”して”?』
 叩いて、殴って?、とまるで遊びをはじめようというように見つめる。
『傷は見えるようにつけてね』
 そう言った女に、少年はうつむく。
 その様子に女は落胆するように大げさなため息をついた。
 そして、
『ねぇ私のこと愛してるのよね? 
 だったら私の邪魔をしたらだめよ?』
 女は笑いながら、屈託のない声で言った。












「お姉ちゃんに暴力を振るい続けたくせに!!」 
 噛み付くように香奈は叫んだ。
 姉を思うが故の、香奈の復讐。
「お姉ちゃんを自殺に追い込んだくせに!!!」
 拓弥は膝をつき、香奈と目線を同じにして、静かに声をかけた。
「俺が…自分で死ぬのじゃ、だめなのか?」
「いやよ! 私が殺してやる」
「相原…。お前が…殺人を犯したら…お前の両親だって…悲しむぞ」
 香奈がわずかにひるむ。
「お前は、和兄だけを殺す気で、ここに来たんだろう?」
 香奈の動きが止まる。
「でも違った。もし俺がここでお前に殺されて、それで和兄はどうするんだ? 和兄も口封じに殺すのか?」
 香奈が目を見開いて、夏木の方を見た。
 憎しみ以外はなにもない、虚ろな目を見て、夏木は心が痛むのを感じた。
 香奈はこぶしを握り締め、床を、なんども叩く。
「……なんでっ」
 香奈の頬を幾筋もの涙がこぼれていった。
 香奈は首を振って、顔を伏せたまま、言う。
「……つかまっても…いいから…。あんたを殺したいって言ったら…?」
 ゆっくりと顔を上げる。
「……和兄が悲しむ…」
「弟のような存在のあんたを殺されたら? 私はあんたにお姉ちゃんを殺された!」
 拓弥は目を伏せ、そしてまたポケットから一枚の紙と写真を取り出した。
「なによ、今度は?」
 必死で虚勢をはり、そう言って拓弥から紙と写真を奪う香奈。
「和兄が悲しむから…。相原は…手を汚しちゃいけないんだ」
(たく…や…)
 夏木は困惑してわずかに目を見開く。
 拓弥が、香奈に教えようとしていることを悟って。
「………戸籍…謄……本」
 香奈が訝しげにその紙の中身を、見る。
 間違い探しのような時間。
 初めて見るその書類に、香奈が不審な点を見つけるまでに少しの時間がかかった。
「…なに」
 その呟きはとても小さく、細かった。
 香奈は助けを求めるように視線を彷徨わせる。
 夏木と、目があった。
「うそよ」
 夏木は『嘘だよ』と言ってやりたかった。
 それで香奈がこれ以上傷つかずにすむのなら。
「うそ」
 戸籍謄本、そして夏木の家族の写った写真。
 写真に写った自分と良く似た女性。
「嘘に決まってる」
 そう呟く香奈に耐え切れず、夏木は香奈から視線を逸らした。
 香奈は困惑したまま泣いたまま、強ばった顔で笑う。
「なに…なんなの? ねえ、夏木先生が私の……兄だった…として…ねえ」
 自分を支えるための、言葉。
 自分を見失わないための、言葉。
「ねえ、お姉ちゃんが私の大好きなお姉ちゃんに変わりないじゃない。大好きなお姉ちゃんがあんたに自殺に追い込まれたっていう事実には変わりないじゃない」


 ねえ、違うの?


 二人の男に少女の声が悲しく響く


 拓弥は辛そうに目を伏せ、そして呟いた。
「由加里は…望んで、死んだんだ」




 夏木は全身に鳥肌がたった。
 唐突に湧き上がった不安に。
 香奈はすべてを否定するから。
 姉のことしか信じていないから。
 拓弥がもし、香奈を救おうと考えたら。
 でも、行き詰まってしまったら?
 拓弥は……。
 そう考えて、夏木は身震いする。




「望んで…死んだ……? 追い詰められて、死んだのよ」
 香奈が言い返す。
「あんたの暴力に、あんたが怖くて」
 拓弥が首を振る。
「相原…。4つも年下の、しかも高校生が、年上の女を怖がらせて自殺に追い込むことが出来ると思うか?」
「あんたがストーカーみたいなことをしてたんでしょう!?」
「由加里が関口真一を忘れると思うか?」
 拓弥が重く、悲しそうに言った。
 虚をつかれて、香奈は怪訝な顔をした。
 関口真一の名が出てきたから。
 姉の婚約者の名前が。
 3年前、事故で死んだ、姉の婚約者の名前が。
 香奈は素直に戸惑う。
「なに…よ」
「相原…。由加里が関口真一のことを、忘れると思うのか?」
 ゆっくりと、香奈の目を見つめて、拓弥は言った。
「お姉ちゃんは…」
 香奈は混乱する。
 姉と関口真一のことを思い出して。



『香奈ちゃん』
 優しく笑って、いつもなにかプレゼントを買ってきてくれた関口真一。
『もう、香奈にばっかり甘いんだから』
 と、すねていた由加里。



「忘れた……んでしょ…う…?」
 いまの状況も忘れて、香奈は問いかけていた。
「忘れたから、だから」
 拓弥は悲しそうに、小さく笑った。
「由加里は俺のことなんて、見ちゃいなかったよ」
 そう由加里は『愛している』と言いながら、一度だって拓弥のことを見ようとしなかった。
「由加里が愛してたのは」
 もし自分が変えられたら、と拓弥は思っていた。
 もし由加里が本当に自分のことを好きになれば、と拓弥は思っていた。
「関口真一だけだよ」
 だけど、それは叶わなかった。
 香奈は顔を強ばらせる。
 自分がいままで信じてきたものを否定され、自分の知らなかったことを一度に知らされ、そう簡単に整理がつくはずがない。
 そのすべてを信じられるはずがない。
「じゃあ、なんで、お姉ちゃんは自殺したのよ」
 小刻みに震え続ける声。
「お姉ちゃんは…忘れて…西野…くんのことを…好きになってた…かも知れないじゃない…」
 途切れ途切れの言葉。
「だって、だってなんでお姉ちゃんは…死んだのよ…」
 香奈は消え入りそうな声で、そう言い、視線を拓弥からそらせた。
 これ以上自分の意志を、信じてきたものを否定されたくなかったから。
 そして香奈の目に床に落ちている包丁が目に入った。
 とっさに香奈はそれを取った。
 身を守るために、自分を信じるために。
 拓弥は、夏木は歯がゆく香奈を見る。
「ねえ、なんでお姉ちゃんは死んだのよ」
 包丁を拓弥へと向ける。
「望んで死んだってどういう意味なの」
 持つ手がブルブルと震え、包丁が大きく揺れている。
「ぜんぶ、西野くんの、でっち上げでしょう?」
 香奈の頬が痙攣する。
「ねえ、いい加減に」
 懇願するように、助けを求めるように、香奈は言った。
「殺させてよ」



 夏木の目から、涙がこぼれた。
(なぁ…)
 香奈の姉を思う心が、胸に痛い。
(なぁ…なんで……)
 香奈を動かしている、力。
(なんで…あんたが俺を、殺してくれなかったんだよ?)
 夏木は心の中で由加里に問う。
(香奈は…あんたにとっても大切な妹じゃなかったのか…?)
 悲しい問いかけ。
 返事は、ない。



 拓弥の胸元すぐ近くまで突きつけられた、包丁。
 息も出来ないほどの張りつめた空気が支配する。
「由加…里が死んだのは…」
 長い沈黙の中で、耐え切れず拓弥が呟いた。
 夏木は悪寒を感じる。
「和兄に」
 身体の奥底から震えが走るのを、夏木は感じた。
 拓弥は唇を噛み締め、そして告げた。
「復讐するためだ」


「復讐」


「関口真一が死んだ、あの事故で…」
(やめ…ろ)
 夏木は激しく首を振る。
(それ以上は、言うな、拓弥)
 もし、それを言ったら。
 もし、香奈が、すべてを知ったら。
 だが、夏木の思いは拓弥には届かない。
「和兄が……」
(拓弥! …やめろ、言うな!!!)
「和兄が…あの事故のときの…バイクに乗っていた青年だから…だよ」


 夏木はその瞬間、激しく、死にたいと、思った。


 香奈は呆けたように夏木を見た。
「由加里は…関口真一が死んだのは…和兄のせいだって思ってたんだ」
 だから、と言いよどむ。
 香奈はしばらく、夏木を見ていた。
 そして香奈がふらりと夏木のほうへ来た。
 拓弥と夏木は、予測のつかない香奈の行動を緊張しながら見つめる。
 香奈は膝をつくと、夏木の口を塞いでいるガムテープをはがした。
 いっきに口の中に空気が入ってくる。
 だがガムテープをしていたときと同じように、夏木は声を出すことが出来なかった。
「――――――――夏木先生」
 抑揚のない声だった。
 疲れたような顔色で、香奈は夏木をぼんやりと見る。
「先生が…真ちゃんが死んだときにいた……バイクに乗ってた人なんですか…?」
 真ちゃん、その言葉に、夏木は息苦しくなる。
 姉の婚約者、いつか香奈の義理の兄になっていただろう関口真一。
 彼がどれほど相原家の一員だったかが伺える、香奈の言葉。
 夏木は何も言えなかった。
 喉に鉛が詰まってしまったかのように、言葉が出なかった。
 背中を冷や汗が伝う。
『違うんだ』
 そう言いたい。
『いや、違わない』
 でも、それが真実。
「……おれの…」
 手が、自由だったら。
「俺のせいだよ」
 香奈の耳を塞いでやるのに。
「ぜんぶ、俺のせいだよ。俺のせいで関口さんは…君のお姉さんは死んだんだよ」
 なにも、聞かせずにすむのに。












 すべてが、凍りついたようだった。
 三人は息を潜め、それぞれの想いに縛られて動けずにいる。
「西野くん…」
 唐突に、香奈が口を開く。
「お姉ちゃんは……私が、夏木先生の妹だってことを、知ってたの?」
 重く、震える吐息が、拓弥の口から漏れる。



「―――――――知ってたよ」



 そう、と香奈は小さな声で言った。
 夏木は光の消えていく香奈の瞳を見つめる。
 なにも映さない目。
 香奈が、微笑んだ。
 頬だけ。目は笑っていない。
「なんだ」
 妙に明るい声だった。
「なーんだ」
 クスクスと漏れる、笑い声。
 拓弥は、なぜかゾッとした。
「やっぱり」
 夢から醒めたように、香奈は夏木に微笑みかけた。
 優しい眼差しで。
「夏木先生が、悪いんじゃないんですか」
 香奈が手に持っていた包丁を、ゆっくりと持ち上げた。




「相原!!」


「拓弥、来るな!!」


 刃先が振り下ろされる。


 そして、
 夏木の身体に触れる寸前で、
 止まった。










 拓弥は最初、笑い声かと思った。
 香奈から漏れる、震えた声が、笑い声かと思った。
 でも、それは嗚咽だった。
 包丁を投げ出し、肩を震わせて、泣く少女。
 拓弥は声をかけることができず、ただ立ちすくむ。
 自分の身体を強く抱きしめて、胸を苦しくさせるような切ない声で、少女は泣く。
 これ以上ないほどの涙を流しながら、香奈は怯えたように、悲しそうに、困ったように、首を傾げて、言った。
「夏木先生を…殺さなかったら……」
 涙のしずくが、夏木の洋服にしみ込む。
「お姉ちゃん」
 夏木の表情が、強ばる。
「怒るかなぁ……?」
 少女は泣きながら、そう言った。


 夏木の中で、何かが崩れた。


 湧き上がってきたのは、激しい怒り。
『なんで』
 胸が、あまりの怒りに、震える。
『なんで』
 香奈を、そして由加里を見つめる。
 死んだ女の幻影を、香奈を縛る女の幻影を、睨む。
『香奈を、巻き込むんだ』
 由加里の幻影は、あざ笑うように、夏木を見下ろしている。
『おれは、あんたを――――』
 ギュッと、強く夏木は唇を、噛み締めた。


 そして。


「お姉ちゃん………は…私のことも…憎かった…?」
 ふらり、と香奈が立ち上がった。
「お姉ちゃんは……私のことも」
 香奈は胸を押さえる。
 沈黙。
 香奈の唇が静かに動く。
『――――』
 夏木は目を見開く。
 そして香奈は身を翻した。
 ドン、と拓弥にぶつかる。
 だがそれに構わず香奈は走り出した。
 夏木は夢中で叫んだ。
「拓弥!!! 追いかけろ」
 ビクッとして、玄関を開けている香奈を追う。
 夏木は必死に身を起こした。
 だがバランスを崩して、また床に倒れこむ。
 バタン、と玄関のドアが開け放たれる音。
 夏木は身を動かして、部屋から、玄関の見えるところまで、いった。
 そして、見た。
 拓弥の背を。
 その先にいる香奈を。
 手すりに身を乗り出している香奈の姿を。
「やめろーッ!!! 香奈ッ!!!!」
 必死の叫び。。
 だが、次の瞬間、ふわり、と香奈の身体が、足が、手すりの向こうに見えた。
 空中に、消えた。


 悲鳴。


 拓弥の叫び声。


 そして、夏木の耳に、一つの声が聞こえた。


 それは、笑い声。


 女の高笑い。


 相原由加里の、笑い声が、聞こえたような気が、した。



 夏木は絶叫を、上げる。



『相原、由加里』


『俺は、お前を』


『許さない』








 ―――――夢は、終わった。